ゲーム業界に入ろうと思った理由

宮田大介氏(以下、宮田):まずさらっとクリエイターヒストリアとはなんなの? って点について話したいと思います。色々な方のヒストリー、歴史を深掘って、みんなのキャリア形成や、この先どういう風にクリエイターとして進んでいくのかの参考にしてもらいたいと思っています。

また、ストーリー、歴史を自分で作っていくのも面白いよね、とGCG(注:ゲームクリエイターズギルドの略)では思っています。なので、本シリーズは「ヒストリーポイント」と「トラックレコード」の二視点で話を進めていきたいと思います!

それでは米光さんの話を聞いていきたいと思います。最初のポイントは…ファミコン全盛期。新卒かな? 最初ゲーム業界に入ったと思うのですが、米光さんはどんな学生だったのですか?

米光一成氏(以下、米光):僕、英語英文科だったのですが、さして志があって英語を学ぼうと思っていたわけではなく、なんとなく行っていた大学生です。のほほんとした学生でしたね。

宮田:ゲーム学科とかではないのですね。

米光:ああ、時代的にそういうものは存在しない……と言うよりもゲーム業界という言葉すらない時代でしたね。卒業した年が84年なので、ファミコンが出たすぐ後ですね。就活的にいうとカテゴリーは……ない。

宮田:そんな状況の中、どうしてゲーム業界を選ばれたのですか?

米光:「普通の会社は務まらん」という正しい自己認識の下、普通の会社に行くと双方に嫌な思いをすると思ったので普通じゃない会社にしよう、と。ファミコンやMSXはあってゲームは遊んでいて好きだったので、ゲーム作るのは面白そうだな、と元々思っていたのですよ。

一応募集しているセガさんとかの説明会に行ってみたのですが、当時住んでいた広島には社長さんも来なくてビデオメッセージのみだったので、退屈して寝ちゃったので……。

もう一つ、広島に小さなゲーム会社があることがその後分かったので、そこの面接……というか説明会があったので行ってみようと思ったらマンションだったのですよね。あの、普通に人が住んでいる。後から分かったことなのですが、そこに社長が住んでたんです。

そこにいつの間にか人が集まってきて、隣の部屋も借りて2部屋で会社にしてる状況だったんです。まあ怪しい、と(笑)。2部屋なのでどっちのチャイム鳴らせば良いのか分からないし。まあ、で、鳴らしたら社長がスリッパで出てくるのですよ。ますます怪しい(笑)。

中に入ってみるとデザイナーさんとプログラマさんが冷凍マグロでチャンバラごっこしていたのですよ。ブーンって。そこで、あ、これは行っちゃダメな会社か、こここそが行く会社だな、と理解しました。話してみるとゲーム作りはちゃんと頑張ってやっている、移植も素晴らしかったので、良い会社だし、僕でもやっていけるかもと思い、入りたいと言いました。

当時はゲーム会社に行きたいという人もいなくて競争とかもなく、6人位面接に来て、その内4人位入社、みたいな感じでした。

宮田:すごいですね(笑)! 逆に入社を止められる、とかありそうですよね。

米光:ああ、ありましたね。親戚のおばちゃんとかは「あんたそんな所入ったら来年その会社ないよ」と言っていました。ゲーム自体が流行りもの、という認識で。ダッコちゃんとか一年でなくなったのよ、と説得されたのですが、やっている側だとコンピュータゲームはそんなすぐなくならない、という実感はあったので大丈夫だろうと。

宮田:新しい市場がこれから出てくるというか…今でいう「数年前にユーチューバーになる!」と宣言するようなものですよね。

米光:ああ、近いかもしれないですね。ユーチューバーになるとか言い出すと親は心配するし。何言っているのあなたは、みたいな。

宮田:はい。でも市場もちゃんと大きくなって……。

米光:そうですね。プロダクションとかできてちゃんとやっている所はちゃんとやっているので。

宮田:若い人の感性的には、米光さんもこれからゲーム市場が大きくなる、という感覚があったのでしょうか?

米光:大きくなるかは分からなかったのですが、自分の好きなことだったし、親戚の人が言うように、そんなすぐなくなるものじゃない、という認識はありました。

宮田:なるほど。それで、コンパイルさんに。今でこそなくなっちゃったのですが、ゲームの会社としては当時、そして数年後も大きい会社という認識だったのですが、米光さんが入った時はまだまだ立ち上げの時だったのですね。

ただ一人のプランナー、新卒入社

米光:そうですね。僕が入った時は10、20人位……20人いなかったと思います。部活みたいな感じでワイワイゲームを作っていたので、いわゆる「プランナー」とか「ディレクター」みたいな人はいない。プログラマ、デザイナー、サウンドが話していて、面白そうだよね、作るか、となってすぐ作るみたいな。

その当時は規模もまだ大きくなく、簡単に作れたのですぐにできた。それに作って、売ったらそこそこ売れるので。そんな感覚で作っていると、ファミコンが出て一年経ったぐらいの頃に規模が段々大きくなってきているのですが、途中で「飽きたね〜、次いこうよ!」という感じでほっぽり出すことが出てきちゃったのですよ。

そこで、これからはきちんとスケジュール立てて、最後までちゃんと作っていくようにしないとな、と社長が感じ始めていた位の時期でしたね。

なので僕、一応プランナーという職種で入ったのですが、後から社長に聞いたらプランナーという職種が成り立つかその当時はまだ半信半疑だったけど、とりあえずスケジュール管理とかしてもらおうかな、と思って入れたと言っていましたね。

宮田:なるほどです。他の社員や先輩の中にプランナーという職種がないということですね。その中で一人。企画書とか、先輩がいない中作っていくの大変じゃなかったですか?

米光:うーん……と、いうよりはなんか謎の自信があって、できるわーとか思ったりしていたので…。

宮田:入って早々に企画とか、プランナー一人なので先輩と一緒に早速作っちゃう、みたいな…?

米光:そうですね。その頃はシューティングゲームを作っていて、自社でも出そう、となり……アレスタですね。それを作る際に企画として参加する。シューティングってデザイナーとかプログラマが中心となって作っていく、僕はお手伝いとして入っている、という感じだったので……。

あ、でも結構喧嘩とかしていましたよ。「その設定ダサいですよ〜」と言って不況買ったり(笑)。僕が入ることによって、部活天国状態が終わりつつある、そろそろ整理していかないとダメだよね、という空気感も社内に流れ始めていた時期だったので、それが許される空間、というか雰囲気でもありましたね。

宮田:はいはい。先輩と一緒に活動して作っていく。

米光:先輩たちが第一世代、僕はその一個後の世代、という認識でいます。第一世代は、本当に商売になるか分からないけど、趣味みたいに作っていく、パソコンショップの2階で作っている、出来たら雑誌に出して通販で売る、みたいな。僕はその世代ではなく、次の世代。

宮田:なるほど。めちゃくちゃ面白そうな世代ですが、大変なこともある、ということですね。それではそろそろヒストリーポイント2にいきますか。

ぷよぷよ誕生への道のり

宮田:ここでついに「トラックレコード」。オリンピックとかで新記録でました! みたいな感じでトラックレコードという言葉は出てくると思うのですが、それをキャリアの中で置き換えて、ある代表的な一点、ここでなにか結果が出たぞ! というポイントで表記しています。

というわけで、よく一緒に紹介される「ぷよぷよ」の誕生という所。歴史的な局面としては、マーケットが収束していたファミコンディスク版、MX版で作らなければいけないミッションだった、と聞いているのですが、そこの所詳しく聞きたいです!

米光:テトリスが出て、衝撃を受けたんです。というのも、丁度テトリスが出た時、アーケードのゲームも含めて規模が大きく、グラフィックも綺麗で、巨大で、マップもでかい! という風潮になってきている中で、テトリスのようなシンプルなゲームが出たというのがあったので、コンパイルでもシンプルなゲームを作りたい、となったのですよね。

僕じゃない人が最初落ちゲーを作っていたのですが、それが面白くない。プロジェクトを中止するか? と先輩たちが話していて、まあ、あんまり聞こえが良い会議じゃないので喫茶店でやろうって言ってたのですね。

わー、喫茶店でやるなら、僕も行きたいって言って、ついて行ったら、会議が終わる時には、一番の若者だった僕がプロジェクトを引き継ぐ事になってしまった。もうメンバーは他のプロジェクトに移っていて、メインの仕事が終わった後でしか時間が取れない、と。放課後の部活みたいなノリで作らされていて、でも、だからこそ自由に作れました。

宮田:じゃあ期待値高いメインプロジェクトとかではなく……。

米光:あ、ではないです。僕の方も別のプロジェクトに関わっていて、それが終わった後にこっちくる、みたいな感じでした。他にも、本来だったら後1ヶ月で終わらせないといけない! みたいな状況だったのですが、ほぼみんな存在を忘れ去っていたのであと3、4ヶ月位制作できることになったのと、プログラマもやる気なくしていたし、もう要素全部とっかえよう! と踏み切りました。それまでとは全然違う落ちゲーにしようと考えたのが「ぷよぷよ」です。

宮田:なるほど。それで「いける!」と思ったのはどのタイミングですか?

米光:ルールを面白くしようとして、ずっと変えていたのですよ。当時はテストプレイヤーがいなくて、デザイナーさんがテストプレイしていたのです。いけるな、と思った瞬間は「終電になるからもう帰りなよ」と言ったのに「あ、もうちょっとテストプレイしていくので大丈夫ですよ」と返された時です。

それテストプレイちゃうやん、ただ遊びたいだけやん(笑)! となって。対戦モードに熱中しているのですよ。僕の言葉全然聞いていなくて、「もうちょっとやります!」という状態になっていたので……あ、これは面白いんだ! とちゃんと実感持てました。ちゃんと仕上げれば売れるんだろうな〜と。

宮田:なるほど、仕事から遊びに変わっちゃっている。結果としてシリーズとして長く続く……2も出たタイトルですものね。やっぱり分からないものですね〜。メインのタイトルじゃなくても花開くものもあるのですね。それでは、ぷよぷよ誕生というところでは結構紆余曲折あった結果なのですね。

米光:そうですね。あと、引き継いだというのも大きくて……お陰でドヨンとしていた空気を無理やり変えることができました。最初から自分のプロジェクトだと途中から変える事は大変ですが、引き継ぎなので、全然違うゲームにしよう! と言いやすかった。前のゲームがサイコロ降ってくる、みたいなゲームだったのですよ。足して消えるみたいな。

テトリスが大好きで、二番煎じにはしたくなかったんですね。テトリスの好きな部分を書き出して、その要素を検討していくと「ソリッド」っていうキーワードが見えてきたんです。硬いブロックが落ちてくる。一直線に揃うと消える。テトリミノという数学的な構造体である。キャラクターは出てこない。好きなところはソリッドなところなんだって気づいた。

だからこそ、それをやめよう! と決断して、「柔らかさ」をコンセプトにしたんです。振ってくるものも柔らかいヤツ。タイトルもぷよぷよですからね。キャラクターも出くるし、対戦相手がいる。まっすぐに繋がらなくて曲がってても消える。ソリッドの正反対で、ぷよぷよした落ちゲーにしたんですよ。

宮田:なるほど……。