マンガと仏教を通して「死」を考える

たられば氏(以下、たられば):そして、ついに! 北海道のヤンデル先生と音声がつながりました。大丈夫ですか? 聞こえていますか?

市原真氏(以下、市原):どうでしょう。僕の声は聞こえていますか?

たられば:聞こえているよー! 聞こえていますよー。こんなに君と話すことがうれしいことは、これまでなかったねぇ。

市原:あぁ、よかった。

たられば:今までの話を聞いていました?

市原:うん、あの……聞けるわけがないよね(笑)。でも、多少は聞いていました。よかったら、これでちょうど時間が半分なので、お犬様(たられば氏)から1分ぐらいで、ここまでのダイジェストを言ってください。お願いします。

たられば:おお、いきなり振られたぞ。がんばるよ!

まず、おかざき先生には『阿・吽』という作品で死を描いているお話を伺いました。僕はずっと前からおかざき先生の大ファンなんですけれども、恋愛とか仕事とか、非常にキラキラしたものを描くことが得意な作家だと思っていたんです。

阿・吽 (1) (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

けれども今作で、いきなり仏教の話を描き始めた。しかも、先ほどお見せしたんですけれども、1巻の最初のページからいきなり人がばんばん死ぬシーンなんですよね。

その最初の1ページにいきなり「人は生まれてそして死ぬまで、何もわからない」と書かれていて、「いきなり死を描くのは、どういう工夫があるのか」とか、「表現で何か気をつけていることはあるのか」と伺ったところ、「わからないことをわからないまま描いています」とのことでした。「わかっちゃいけない」という言い方もされていて、すごく印象的でした。

続いて飛鷹和尚には、「仏教は死をどう扱っていたのか」「どう扱っているのか」というお話を聞いたんですが、これが僕はすごく意外でした。

飛鷹和尚も……「生に対して死がある」「だから死は生を充実させるようなものだと考えている」「あまり向き合いすぎないほうがいい」ということをおっしゃっていて、「あぁ、なるほど。それはすごい発見だな」と思いました。ヤンデル先生、こんな感じでいかがでしょうか?

医師にとって「死」は仕事の外にあるもの

市原:ありがとうございました。「いかがでしょうか?」はびっくりするな。もうちょっと具体的な質問がほしかった(笑)。

たられば:あ、そうだね、具体的な質問もします。

市原:今日は、おかざき先生、本当にありがとうございます。あと、飛鷹和尚もすみません。トラブルばかりで大変失礼しました。

たられば:今まで作家としての死の描き方を聞きました。それから、お坊さんに死について聞いてみました。それで、医師であるヤンデル先生にぜひ聞きたいのは、次のようなことです。

今、日本人はだいたい8割の人が医療施設で亡くなります。ほとんどの人の死に場所は病院で、医者が看取っているということです。ところが僕は個人的に、お医者さんは死を語ることがあまり得意でないような印象があるんですよね。

緩和ケア医は別です。緩和ケア医のみなさんは、死にすごく直面しているけれど、そうでない医者は語らないようにしているように思えてしまうんですね。むしろ死の話を避けたがる印象がある。どうですか? ヤンデル先生は、直接患者に会う立場ではないかもしれないんですけれども、「死をどう語っているのか」を伺えるとありがたいです。

市原:ありがとうございます。最近読んだある本の中に書いてあったことを参考に、ちょっとお話します。まずは、京都をイメージしていただいたらいいかな。

京都の町の中にいると、地形が盆地なので一番遠くに山並みがありますが、その山の向こうはまったく見えないわけです。その、一番遠くにある山の縁を「前縁」とします。「そこから向こうは見えない線」というものです。

それとは別に、京都の町の中には、「塀」とか「区画」とか「川」といった線がいくつも見つかります。これらは、線の向こうに何があるかがわかる、「境界」です。

山の縁には「前縁」、町の中には「境界」がたくさんあって、今、町の真ん中に自分がいると考えます。このとき、僕らからすると、「死」は前縁の山の向こうなんですよ。まったく見えないんです。行って戻ってくることもできないし、町の真ん中にいる限りは向こうを想像することもできません。やっぱり、医者にとって山の向こうのことは仕事の外なんですね。

医療として関われるのは「生老病」まで

市原:これに対し、日頃ぼくらがやっている医療というのは、境界の手前と奥とを行き来するような仕事だと思っています。例えば鴨川のような川があって、その川を越えるときっと患者さんの体調がすごく悪くなるといったときに、僕らは「川の向こうから、こっちに戻っておいで」と言ってみたり、あるいは「川の向こうにいるんだったら、こういう暮らしをしたらどうだ?」というふうに声をかける。医療では「境界」の向こうとこっちの話を扱うんですね。

ところが「死」は、そういう「川の向こう」とかじゃないんですよ。本当に「山の向こう」にある。ぼくらは、生老病死のうちの「生老病」までは見ますけど、「死」に関しては本当に仕事の外だというイメージです。

たられば:ふーむ……。もうちょっと具体的な話をすると、『フラジャイル』という講談社から出ている非常に名作の、病理医を描いた漫画がございます。市原先生は病理医でいらっしゃいますよね。で、この『フラジャイル』に、病理医が死因を究明するために解剖する、非常に印象的なシーンがあるんですけれども。現実問題として病理医、市原先生は患者さんの死体を解剖する機会はけっこうあるものなんでしょうか?

あるとしたら、たぶんこの中にいる誰よりも「物としての体」とか「心がなくなった物体としての人体」と接している機会が一番多いと思うんです。

何と言うのかな……リアルとしての死というか……。僕たちはどうしても死を観念的に考えちゃうんですけど、もっと具体的な死を見ているような気がするんです。その辺りはいかがですか?

市原:なるほど。医療職は病理医に限らず、やはり「他人の死」とは向き合うんですね。僕が代表して言うのもおこがましいんですが、例えば病理医は確かに多くの死体を相手にします。でも、その死体を見て「死」を思うのではなくて、死体は「この人がどうやって生きて、どのように苦しんできたか」という最終結果として捉えます。つまり、生きていた過去のほうに戻ってみるというのが解剖の役割の1つなんですね。

「いったいどういう経路で死にたどり着いたのか」ということを、本人よりも、他の医療者よりもわかりやすく説明することが、病理解剖の意義の1つです。

解剖は死に向き合うのではなく、未来の患者のためのもの

市原:もう1つ、ぼくらが具体的に「他人の死」をどう見ているかについてですが、ある患者さんの死を見て、将来その患者さんと同じ病気になるかもしれない人に向けて、「この死んだ人について調べたことが、未来の患者さんに対して何か参考になるんではないか」と考えます。

例えば「もっとこういう医療ができたら、もっとこういう処置ができたら、今後もし新しく同じような人が出てきたときに、もう少し苦しみが減るのではないか」というふうに、未来の別の患者さんのため、未来に生きている別の人のために解剖をするということがあります。

これは、確かに死を見ていることには違いないんですけど、実際に患者さんの「死そのもの」に向き合っているんじゃないんですよね。死から「過去の生」や「将来の生」になんとかフィードバック、あるいはフィードフォワード(注:フィードバックと対になる言葉で、未来に目を向けた建設的なアイデア出し)をやるためという目線であって、学者や医者としての目で見てしまっている。

なので、今問われてちょっとぞっとしたのですが、誰よりも「死体」は見ているんですけど、「死」を見ているかと言われると、正直、僕は自分の祖母が亡くなったときのことぐらいしか思い出さないですよね。

仕事としてルーティン化することと「死そのもの」を見つめること

たられば:すごくなるほどと思うし、おもしろいなと思うんですけれども、飛鷹和尚、今のお話を伺ってどうですか? 「山の向こう」の領分というか(笑)。

飛鷹全法氏(以下、飛鷹):(高野山の住職なので)あまりお葬式自体がないということもあるんですけど、一般的に、仕事の特性としてどうしてもある程度ルーティン化してしまうということは、立ち止まって実存に立ち返る機会とは真逆のベクトルだと思うんですね。

ですから医者でもお坊さんでも、やっぱり非常に忙しい中で立ち止まって「死そのもの」を見つめることは、よっぽど意識的にやらないと見い出せないことなのかなという気がします。逆に、私からちょっと聞いてみたいことがあるんですけれども……。

たられば:ぜひお願いします。

飛鷹:医療の現場としては、今の市原先生がおっしゃる通りだと思います。ただ、医療そのものが「死とは何か」とか、そこから翻って「命そのものとは何か」を考えることは、やっぱり非常に大事だと思います。

そういったことで、私は学生時代に『医学概論』という本を読んだことがあるんです。「医学概論とは何か」ということを私が言うのもおこがましいんですけれど、そもそも「医療とは何なのか」という、医療そのものを問うているような学問です。ベルクソンを研究している人でもあったんですけれども、澤瀉久敬(おもだかひさゆき)先生が、日本の医学概論の創始者でもあると言われている方ですね。

ですから今、こういった医学概論が、果たして医療の世界でどの程度学ばれているのかを、ちょっとお聞きしてみたいなと思っていました。

たられば:市原先生、どうですか? あなたは『どこからが病気なの?』という本を書いているから……。

どこからが病気なの? (ちくまプリマー新書)

市原:ありがとうございます。

たられば:医者は「医療とは何か」ということは考えるのか、学ぶのか。ぜひ教えてください。

医療者も現場で生や死に向き合いながら悩んでいる

市原:僕も同じ「医学概論」という名前の講義を受けました。名前としては飛鷹和尚と同じような講義を受けてきたんですけれども、僕が受けた「医学概論」では、医療の歴史を学んだりするわけです。

例えばはるか昔の方々は、感染症であっという間に討ち取られてしまった。僕らは「討ち取られた」という表現をよく使うんですけど、本当に強大すぎる軍隊のような病気が襲ってきて、為す術もなく医療もなくやられてしまった。

かつて、平均寿命が短く、20~30代ぐらいで亡くなってしまうような時代から、学問が発展して助けられる人が出てきたんだよという「医学史」が、医学概論の3分の1ぐらいにしっかり入っているんですね。そうやって、「我々は医を施して人を救う」ということに対しての誇り、メッセージを教わっていきます。それが「医学概論」。

ところが生と死、あるいは生老病死、スピリチュアルな部分をしっかり学ぶ授業というのは正直、医学概論というコマの中ではさほど整っていません。大学によります。講師によっては、スピリチュアルな部分も含めて、「死とは何かを考えよう」というコマを1コマ、2コマやりますね。1コマが1時間半ですから、だいたい1時間半ぐらい。あるいは3時間。

そのように習っていきますけど、それ以外は本当に、現場で働いている人間が懊悩しながら考えていくしかないんですよ。

たられば:そっか。いやぁ、よくわかるなぁ。

飛鷹:ご回答ありがとうございます。だとすれば、今日こうしたかたちで、医療従事者と、私たち宗教者、そして漫画という芸術表現の作家が一同に会する機会というのはとても貴重ですね。この時間だけで終わるのではなくて、今回の対話をきっかけとして何かが始まればいいなと思っています。

たられば:なるほど。