相手にとって、どれだけ意味がある関係になれるか

澤円氏(以下、澤):ちょっと質問が来てるかな。

尾原和啓氏(以下、 尾原):あ、本当だ。

:「人を巻き込むということができないのですが、どう分解していったらよいのでしょう?」。なるほど。

尾原:お~なるほど。

:人を巻き込む。これはどうなんですかね? 人に対してお願いをすることができないのか、それともインフルエンサーとして振舞うことができないのかによって、ちょっと違ってくると思うんですけど。

尾原:さすが、いい分解ですね。

:両方とも考えると。ものを頼めないというのであれば、先に自分のほうから。ギブファースト。尾原さんもこの精神をお持ちですけど。自分のほうから先にギブしちゃうっていうところに集中するのが、いいんじゃないかと思うんですよね。そうすると、結果、向こうのほうからたぶん「やるよ」ってなっていって、協力してくれるような体制になるので。わりとそういうサイクルができやすいんじゃないかなと。

インフルエンスをしていくっていうのも、結局、それを強めていくっていうことになりますよね。ギブを徹底的に大きくしていったりとか、深くしていったりとかすると、インフルエンスの幅も影響の深さというのもどんどん強くなってくるので。最終的には、いろんな人たちがついてきてくれるようになってくるのかな? と思いますけどね。

尾原:個人的には、あともう一段階足すとすると。相手にとって、どれだけ意味がある関係になれるかって話があって。これも澤さんがVoicyで言ってらっしゃいましたけど、結局、ある程度の意味ある関係になったら、頼ってくれるって嬉しかったりするんですよね。

:そうそう、そうなんですよ。ポジティブな共依存ね。

尾原:そう。お互いが高みに上っていく。ギブファーストでやってたら……実はギブって屈辱なんですね。相手になにかをあげるって、お返ししたくなるわけですよ。お返しをもらわずにずっとギブだけされてると、いつの間にか「ありがとう」が「すみません」に変わってきちゃったりする人っているんですよね。

「ありがとう」が「すみません」に変わる前に、むしろ「頼むよ~」って言われると、「おお、そうか! 俺がお前から『ありがとう』って言ってもらえるんだ。よかった。俺でもお前の役に立つんだ~!」みたいになるわけですよね。

:僕、マネージャー向けの研修で使っている教材が『ゴッドファーザー』なんですよね。

尾原:お~。

:1作目。あれなんかまさにそうじゃないですか。冒頭のシーンから、まずギブするところから始まりのみたいな。クライマックスのところで逆のギブが、望んでいないんだけれどもたまたましてもらうような機会ができちゃうみたいなね。ネタバレになるのでほかの人にはちょっと(笑)。

尾原:たしかに(笑)。『ゴッドファーザー』はぜひ観ていただければ。あれはまさにイタリアとか、本当に変化の時代のピリピリしたときこそ絆が大事で。どうしてもゴッドファーザーという名前で、恐怖政治っぽい感じをイメージされる方もいらっしゃるんですけど。あれこそ、実はつながりを大事にして生きる。上下のように見えて、実は上下ではないのがすごくわかる映画ですよね。

:実はフラットっていうね。

目的に向かって走っている状態を楽しむには?

:またQAが来てますね。

尾原:はい。「目的を達成することに加えて、目的に向かって走っている状態そのものを楽しめるようになりたいんですが、どうすればいいですか?」。今度は実行編の話ですね。

:コンテキストによりますけど、一番手っ取り早いのは仲間を作ることでしょうね。『ワンピース』的に。そうすると誰かと一緒になにかをしているという時間は、どういうものであっても楽しいはずなので。まずはそれが大事かなと思いますね。誰とやるか。あるいは誰を喜ばすかかな。

尾原:そうですね。人間って2種類いるんですよね。ルフィみたいに「とにかく俺はこっちに行きたいんだー!」って、行きたい先があってそこに向かって進むのが好きというタイプがいて。

たぶんここにいらっしゃる方は、どっちかというとみんながそういうタイプではなく、ここに向かって行きたいんだっていうストロング・ビリーフに出会う前だから、どっちかっていうとやっぱりプロセスが楽しくて気付いたら遠くに行ってたって人が多いと思うんですよね。

それって何かというと、ちっちゃいものでも好きを見つけると気づいたら遠くにいるということがあって。例えば自分がすげぇラーメン好きだとして、テレビでめっちゃ好みのラーメン見ちゃったと。そうすると、ふだん行ったことない駅でのラーメン屋でも、気付いたら行っちゃってるってあるじゃないですか。

あれと一緒で、小さい好きを見つけて、気づいたら少し遠くにいるっていうことがあると、どんどんどんどん遠くに行くことが慣れてくるし。その過程の中で、気づけば「よくラーメン屋で会いますね」みたいな。自分の好きを共有する仲間っていうのがいると、今度はその仲間とラーメンのことをしゃべってること自体が楽しくなっちゃって。

そうするとその人と話したいから自分もネタを、自分が楽しむだけじゃなくて、その好きな人に新しいネタを持っていきたいから、ちょっと趣味と違うんだけど彼が好きそうなラーメン屋に行ってみる。みたいなことが生まれてくると、どんどんワンピースみたいな冒険になると思うんですよね。

:なにもかもが冒険だって捉えると、いろんな可能性が出てくるんですよね。

尾原:一方『鬼滅の刃』みたいに「誰かを守りたい!」みたいなことが発端で始まる冒険もあるし。

:あれなんかも、結局、背後にあるのは愛情だったりするわけですよね。

尾原:そうですよね。妹をとか。ああいう状態で死なせてしまった父と母をみたいなね。そこまでじゃなくても誰かを守りたいとか……うちの娘で言うと、うちの娘はバリ島で育ったんですけど、犬好きで。バリ島ってすごく野良犬が多いんですね。

:多いですよね~。そうだそうだ。前行って思ったわ。

尾原:それは2つ意味があって、1つは観光客が3ヶ月から2年とか短い間いるので、意外と捨ててっちゃうんですよ。

:は~、なるほど。

尾原:あともう1個は、バリって民間宗教があって。道に御供物をするので、御供物で生きていけるっていうのがある。

:なるほど。ソリューションがちゃんとあるんだ(笑)。

尾原:とはいえ野良犬が増えているということが、娘は自分が大好きなものがそうやって放置されて、ときどき狂犬病が流行るとやっぱり殺されちゃうみたいなのが辛いと。じゃあそれを引き取って、ちゃんと注射とか打って、人に慣れるようにして預け先を探すボランティアみたいなことを始めたりとかしてて。

:なるほど、なるほど。

尾原:誰かを守りたいとか、自分の好きなものがひどくならないようにしたいというのも、1つの人間の動機だと思うんですよね。

澤氏の考えの根底にある、武士道

:また質問が来てますね。「著作を拝読して、今を生きる・比較をしない・多様性を認めるなどの発想は、とても仏教的だと感じます。宗教的なバックボーンなどはあるのでしょうか? お姿はキリストっぽいのですが」。あはは(笑)。

宗教的かどうかは別にして、僕のライフワークとしてやっているものが2つ。空手と茶道なんですよね。

尾原:あ、そうなんですか!

:そうなんですよ。尾原さんも茶道の心得、あるでしょ?

尾原:そうです。

:僕は方円流の煎茶道なんですけど。

尾原:あ~、お煎茶のほうですか。

:そう、お煎茶なんですよ。そっちも師範持ってるし、空手も指導員なんですけど。要はそういった意味だと、どっちかというと神道なんですよね。あと、侍。お侍の考え方、武士道に近いっていう感じですかね。

武士道で考えたら、わりと仏教的なものであったりとか。まあ仏教と神道って、日本の場合にはものすごく近しくなっているので。そういった意味でいうと宗教的というか、武士道的なアプローチで考えているのはありますね。

尾原:ただやっぱり宗教って、実は生きるための術だったところがあって。とくに仏教は、ブッダの経典を読んでいただくとわかるんですけれども、すごく哲学的なんですよね。

:そうですよね。

尾原:こだわりから離れようみたいな話だったりとか。じゃあ自分にはなんの囚われがあるのか? みたいな話だったりとか。それがだんだん、大衆の方に使いやすい道具にするときに「とりあえず南無阿弥陀仏って言っとけば大丈夫だから!」みたいなかたちで簡略化しちゃったんですけど。

:(笑)。

尾原:その簡略化する手前の本流って、わりと今、僕たちが言ってることと一緒で。やっぱりそれは、どうやっていろんな苦しみから離れて変化の時代の中に自分らしさを見出していくか。

で結局、人と人のつながりの中で、より昔は生きてたので。じゃあそのつながりの中で、つながってるんだけど自分らしくあるか、みたいな。そういうところがすごく仏教的なものと、今言われてるこういう……「自己啓発」ってくくっちゃうとちょっとね、日本だとアレに聞こえちゃいますけれども。自己啓発ってもともとenlightenmentですからね。光を灯すためのものなので。

:そうそう。ある程度、方向を照らすものって考えたときの、考え方とかメソドロジーが、宗教の場合だったら宗教でわかりやすくなっていて。で、そうすることによって迷いが少なくなるというか。心の迷いもそうだし、行動の迷いが少なくなっていって。意地悪な言い方をすると、管理もしやすくなりますよね、そうすると。

尾原:そうなんですよね。だからやっぱりどうしても、今までの昭和の社会っていうのは工業化社会だったから。全員がパーツになって、パーツとしていいものを安く、しかもできるだけ失敗作品を作らずにやるってことが、社会の勝ちパターンだったから。そうするとやっぱり、自分がないほうがいいんですよね。言い方は良くないですけど。

:うん、極端な言い方すればね(笑)。

尾原:それに対してやっぱり、今の時代は変わってきたと。

:今、とくにね。いろんなものが、外側のものが自動的にやってくれる世の中になってきてるわけで。そうするとより結局、自分に向き合っていかざるを得なくなってきているというかね。とくに幸福っていうものを考えた場合には、もうとにかく自分と対話していかないと。外に選択肢がありすぎてしまって、どれを選んでいいかわからなくなるのと、どれを選んだとしてもなぜか「ほかのものを選べばよかったんじゃないか」って、勝手に後悔するってことになりかねないんで。

尾原:常に思っちゃうってことですね。