オンラインコミュニケーションの利点と限界

早田吉伸氏(以下、早田):大学生の方からのご質問です。最初のほうで、コロナウイルスや地域と都市部のお話も出たんですけれども、「コミュニケーションの在り方がこれからオンラインになってきたときに、実際に会うオフラインとの質に差が出ますか、出ませんか?」。

この方はオンラインよりも実際に会った方が伝わるものもあるし、だからこそ人がいっぱい集まる。当然、東京や首都圏の方が価値をいっぱい生み出せたんじゃないかなという、これまでの考え方があると思うんですけれども。

これからオンラインのコミュニケーションがどんどん増えていって、都市と地方の格差がなくなっていくと言われている側面もあるんですけれども、コミュニケーションの在り方はどうなって行きますか? もしくは、オンラインの価値はどういうものになっていきますか? というあたりを、お二方からコメントいただければと思います。

有信睦弘氏(以下、有信):私からでいいですか? オンラインとオンラインでないコミュニケーションというのは、明確に差があると思います。ただし、合理的な情報伝達という意味ではオンラインの方がおそらく非常に効率はいい。言語化できて論理的に記述ができる内容については、なんの差もないでしょう。

だけど、コミュニケーションにはそれ以外の要素があります。コミュニケーションというのは、ある種の共感性だと思っています。相手のバックグラウンドを含めて、相手の思いに共鳴できるところが本来のコミュニケーションで、それがコミュニケーションのもう一段深い層の部分ですね。

オンラインで、その共鳴性が実現できるかどうかというのは、今のレベルではたぶん難しいと思うんだけど、不可能ではないと思うんですね。現状ではまだやはり、本当の意味でより一層深いレベルのコミュニケーションはもう少し時間を待たないと難しい。ただし、合理的なコミュニケーションは問題がないし、かえって効率的にやれるだろうと思っています。

早田:はい、ありがとうございます。藤野さんはいかがですか?

オンラインとバーチャルの差がなくなっていく

藤野英人氏(以下、藤野):そうですね。まさに有信先生が話されている通りです。結局、テクノロジーがまだ追いついていないんだと思いますね。今でもどんな人がどんな話をするかというところも、熱量もある程度伝えられる。

これはたぶん、10年前だったらぜんぜん伝えられなかったというところがあるので、テクノロジーは確実に進化している。だからZoomであったり、ビデオ会議で仕事をするところも、この数年のテクノロジーのブレイクスルーで実現できてきたのだと思います。

これが5Gの世界になって、6Gの世界になっていくということになると、オンラインとバーチャルの差がどんどんなくなって来るということがあると思います。まだテクノロジーが追いついていないところがあるけど、これは今後も進化し続けるでしょう。

リアルで会うことの付加価値が高まっていく

藤野:私は今までちょっとおかしかったところがあったと思っていて。先ほど有信先生からも通勤の話があったけれども、けっこう東京とか都市部の人、広島もそうかもしれないですが、通勤しますねと。

通勤時間にストレスがあって、少なくとも数十分から1時間くらいの時間をかけて、AからB地点まで行ってまた戻ってくるという移動をして、けっこう多くの時間を会社で過ごしているということがあるわけです。

会社の人たちには、別に触れたりしなくてもいい人たちですよね。会社の人に触ったりすると、セクハラとかパワハラになる。

あまり具合が悪いわけですよ。抱きしめたり、触るべき相手って家族じゃないですか。お父さんとかお母さん。子どもをギュッとしたり、抱きしめたりするのは家族なんだけど、抱きしめたり、触らなきゃいけない家族の方が一緒にいる時間が少なくて、触らなくてもいい人たちと多くの時間を過ごしている。

それが、コロナウイルスによる外出自粛で在宅になった場合に、逆転したわけですよね。仕事で済む人は別に情報でいいんだけれども、コミュニケーションをするべき相手とは近くにいるというのは、実は望ましい状態じゃないかなと思っています。

withコロナ時代がどのくらい長く続くかわからないけれども、オンラインでコミュニケーションすることの便利さと効率というのは、afterコロナの時代になっても、たぶん元に戻らないと思うんですね。

オンラインでやれるところはオンラインでやる。でも、質問者のご指摘があった通り、人と人とで会うところの価値がやはり残るわけですよね。抱きしめるといったところも含めて、触るとか手を握るとか、相手の体温を感じる部分はあるので、そうすると「誰と会うのか」という付加価値がすごく高まってくるんじゃないかなと思っています。

生きるということはそもそも何なのか?

早田:はい。ありがとうございます。まさにその通りだと思います。時間が迫ってきたんですけれども、高校生の方から本質的なご質問も来ているので、ぜひこれは答えたいなということで。ひょっとすると時間がオーバーしちゃうかもしれないんですけども、ぜひお二方にお答えいただきたいなと思うんです。

17歳の高校生の方から「根本的なことなんだけど、生きるということはそもそも何なんですか?」。これは、なかなかちょっと一言では答えにくい。

(一同笑)

本質的なご質問なんですけど、とにかくそういう本質的なことを考える場所がまさに大学だということにもなるんだと思いますので、ぜひこの質問には答えられるなら答えたいなと思うんですけれども、まず藤野さんによろしいですか? 「生きる」とはどういうことですか?

「君はもうずっと幸せだから、人の幸せだけを考えて生きなさい」

藤野:私のすごく仲のいい友人で、元ユニクロの社長だった玉塚さんという人がいるんですね。玉塚さんはすごくお坊っちゃんで、何不自由なく育てられていたんですよ。有名な経営者のお祖父さんがいて、その方が少年玉塚くんに対していつもいろんな話を聞かせていたらしいんですね。

その少年玉塚くんがお祖父さんに言われていたのは、「君はね、もうずっと幸せだから。幸せな子で生まれたんだから、もう君は自分の幸せのことは一生考えなくていいんだ。君は人の幸せだけを考えて生きなさい」と。そういうことをずっと言われていたわけですね。

まさに彼はそのような人生を歩んでいるんだけど。玉塚さんと話していた時に「自分の幸せじゃなくて、人の幸せだけ考えていたら、結局自分が幸せだった」という話があるんですね。

これは確かにそうで、自分の幸せを追い求めることは無限大で、なかなか満足できるところにたどり着くことができないんだけれども、自分のことはさておき、人の幸せを考えていくというところに、自分の幸せを置いておくほうが、実は自分が幸せになるんじゃないかなとすごく思うんですね。

私も彼がそういう話をする前からなんとなくそう思っていて。ある時、自分の幸せよりも、どちらかというと社会とか会社の社員のことを考えて、そっちの方にフォーカスするようになったら、自然と自分の悩みが消えてしまったということがありました。

私は「生きる」というのは綺麗ごとでもなく、自分以外の人にいかに貢献するのか。そのことに充足感を感じるのかというところが、私にとっての生きる目的だし、生きる喜びだし、そういう中で叡啓大学というところで、またこうやってみなさんとお話をしたり、みなさんといろいろとコミュニケーションすることそのものが、私にとって生きることの1つなんじゃないかなと思います。

人間の欲求の最上位は自己実現

早田:ありがとうございます。まさにその通りだと思いますね。有信先生、いかがですか。

有信:今みたいにいい話をされると、あとはしゃべりようがないわけですけど(笑)。

(一同笑)

早田:そんなことないですよ。

有信:基本的には共通する話で、昔はマズローという人が、人間の欲求の7段階というピラミッドを作ったことがありますけれども、その一番上に「自己実現の欲求」というものがあるんですね。

「自己実現」というのは要するに自分自身を実現する。つまり、自分が何であるかを実現することは、リアライズ(realize)ということだと思うんですけれども、要は世の中にそれを知らしめる。現実化していくという話です。

誰かのため、何かのために価値あることを成し遂げる意味

有信:それはどうやってできるかというと、今の藤野さんのお話にありましたように、やはり何かのため、誰かのために価値あることを成し遂げる。そのことによって自分自身がそこで現実化していく。

その時に、自分の本来持っているイメージに合ったかたちで、現実的なかたちを示していければ、それが自己実現になるわけで、研究者はやはり論文を書いて発表し、それが世の中に認められる。

その書いた論文が素晴らしければ素晴らしいほど、自分自身のそこでの実現の仕方が素晴らしくなるわけですし、教育者として人を育てる時は、やはり育った人がどういうかたちで世の中で活躍してくれるかが自分の自己実現の在り方だと思いますね。

これもまた怒られますけど、大学の先生は自分の教えた学生に対してのフォローが十分ではないと言われています。つまり、自分の育てた学生がどう育っているかということを、あまりよく見ていない。これは大学の先生たちが教育ということに対して、それほど自分の自己実現の手段とは考えてはいない。

だけれども、例えば高校の先生であれば、いい大学に何人入れたかということを、いわば自分自身の自己実現にしていたりするわけです。あるいは、自分が育てた生徒が世の中でどれだけ活躍しているか、偉くなったかという話を後輩の生徒たちにして、自分の教育の証を立てようとしているわけで。

やはりそういう意味で、さまざまな自分を実現する仕方はあると思いますけれども、これは自分が目標とする何かのため、あるいは誰かのために、どういうかたちで自分の姿を実現させるかということに意味がある。そのために努力をすることに十分な意味がある。それが「生きる」ということじゃないかと思っています。

未来を担う人へのメッセージ

早田:はい。ありがとうございます。まさに「幸せ、利他、自己実現」のキーワードが出てきたと思います。「生きる」ということは、1つの側面としてそういうものがあるよというお話をお二方からいただきました。

そろそろクロージングをしなければいけない時間になってきましたので、本日の対談、ご質問も対応も含めてなんですけれども、本日の対談を振り返ってご感想と、今日ご覧になっている高校生の方々に向けて、ひと言メッセージをいただければと思います。まず藤野さんの方からよろしいでしょうか。

藤野:まず、この時間のお話を聞いていただきまして、本当にありがとうございます。やはり若い人というか、未来を担う人たちはそれだけで宝だと思うんですね。私たちがそういう未来を担う人たちをお預かりして、一緒にコミュニケーションして学んでいくというところが、大学の価値ではないかなと思っています。

先ほども話したわけですけれども、今回は第1期なんですよね。私も早稲田大学と明治大学等で、非常勤講師として教えていたりするんですけれども。でも、叡啓大学というのは誰もが初めて教えるんです。これは平等ですよね。かつ、先輩はいません。

これから入ってくるみなさんが歴史を創るわけなんですね。これ以上ワクワクすることはないんじゃないですかね。だから、私はこれから始まることに対して、すごくワクワクしています。一緒に学ぶ機会を持ちたいと思っています。

年齢や経験の蓄積が意味を持たなくなって、明らかになるもの

早田:はい。藤野さん、ありがとうございます。じゃあ、有信さん、お願いします。

有信:藤野さんのおっしゃる通り、本当にこれからの社会を創り出していくのは、これから大学に入って来る高校生のみなさん方なんですね。

最初に藤野さんのお話にもありましたように、みんなが今まで経験のない、ましてやこれから先、現在ある職業の半分がなくなってしまうと言われているような大きな経済的な変化、あるいは技術的な変化が起きる。

そういう社会に対して、年寄りも若者もみんな一線に並んで勝負をするという状況が、そのうち現れてくる。つまり、年齢や経験の蓄積があまり意味を持たなくなってきた時に、何が本当に個人の持っているコンピテンシー(優れた業績を残す人の行動特性)であるかが明確になってくると思うんですね。

私たちは、私たちが考えるそういう不確定な世の中で、生きていくためのコンピテンシーは何かということを考えながら、それを身に着けてもらう教育をやろうと思っています。

今日、藤野さんから非常に良いお話をうかがって、こういう先生に客員教授として教えていただけるのは、我々としても非常に幸運だと思っています。高校生のみなさん方も、ぜひこの幸運を共有していただければと思っています。どうもありがとうございました。

早田:有信さん、ありがとうございます。お時間がちょっと過ぎてしまいましたけれども、本日の「これからの時代を生き抜く人材について」、叡啓大学客員教授予定者の藤野英人さんと、学長予定者の有信睦弘にて対談を行わせていただきました。