クジラ、イルカが進化の過程で失ったもの

ハンク・グリーン氏:約5000万年前、カバによく似た姿の生き物が、水の中に移り住みました。この生物が、時の経過と共に驚異の進化を遂げ、生物学上クジラ目とされるグループに属する、クジラやイルカとなりました。

陸生のいとこたちとはまったく別の生き物ではありますが、クジラ目は祖先の名残りを多く残しています。例えば、エサの植物を発酵させる機能の必要性はもう無いにも関わらず、複数の胃があります。さらに、新たな機能も獲得しています。

しかし一番興味深いのは、彼らが「失った」機能かもしれません。私たちは、適応とは姿が変わったり、新たな機能が加わったりすることだと考えがちですが、適応のプロセスにおいては、遺伝子が消滅したり機能を失ったりすることの重要性もまた、それに勝るとも劣りません。

クジラが失った機能を研究することにより、明らかになった水生生物の生態は多々あります。これは、後足や体毛の消滅など、パッと見でわかりやすいものだけではありません。無ければ非常に困るような機能も含まれます。

その一例として、メラトニンが挙げられます。メラトニンとは、ヒトを含めたほとんどの生物が持つホルモンで、主に睡眠を導入する働きをします。

クジラやイルカはメラトニンを生成しません。他の生物が回復に必要不可欠とする、心地よくて深く、元気を回復してくれるタイプの睡眠を取らないのです。これは悪いことに思えるかもしれません。なぜなら、睡眠を取らずに済むのであれば、他の生き物も取らなくなるはずだからです。

ところが、クジラやイルカの場合、必要な休息を半球睡眠により取っています。これはつまり、脳が交互に半分ずつ眠ることです。完全に眠ってしまえば、沈んで溺れ死んでしまうため、クジラやイルカには、この睡眠方法の方がずっと安全なのです。

メラトニンを失う利点は、他にもあります。メラトニンは、皮膚温を散逸させることにより、深部体温を低下させる働きをするからです。海でこれが起これば致命的です。水中では、大気中よりもはるかに急速に体温が奪われるためです。

また、メラトニンを失ったので、クジラ目には「概日リズム」がありません。そのため、ヒトのような体内時計を持っていないのです。朝に活力が出て、夜に疲労を感じることもありません。実は、クジラ目の生物がいつ眠るのかは、よくわかっていないのです。エサを取るタイミングと強い関連性があるらしいことはわかってきています。

ところで、人間の赤ちゃんはとてもよく眠りますね。しかし、イルカの赤ちゃんはまったく眠りません。必然的に、親も睡眠を取りません。僕は、自分の人生はかなり疲れるものだと思っていましたが、彼らに比べれば甘いものです。いずれにせよ、イルカの赤ちゃんは、海の中では何かにぶつかることはないでしょうから、イルカの親もケガを心配する必要はなさそうですね。

ケガと言えば、クジラ目はケガ関連でも重要な遺伝子を失っています。彼らの血管には、血の塊を作る機能がありません。この凝血塊は血栓と呼ばれるもので、小さな穴であれば塞いでくれる、非常に大切な機能です。ヒトの血管であれば、出血しても塞がりますよね。しかし日常的に海中に潜る場合は、これは大切どころか、危険な機能です。

クジラやイルカは、エサを求めて深海に沈降すると、心拍と血圧が低下します。水圧が上がるため、静脈・動脈とも幅が狭くなり、血中に窒素の泡が出ます。

通常であれば、こういった現象はすべて、不要な凝血塊ができるリスクになります。不要な凝血塊は血流を堰き止め、命にかかわる細胞組織に酸素が行き渡らなくなってしまいます。

つまりクジラ目の生物にとっては、凝血塊が一切できない方が安全なのです。失血を防がなくてはならない時に困るのではないかと思ってしまいますが、ありがたいことに、傷の治癒には、より改良された遺伝子が活躍します。

潜水関連のお話が続きますが、クジラ目をはじめとした他の多くの海生の哺乳類に、PON1の略称で知られる「パラオキソナーゼ1」に関連する遺伝子の機能が失われた理由は、彼らに潜水する習性があることからうまく説明できます。

この酵素PON1は、ヒトを含めたすべての陸生哺乳類が持つものです。それはPON1が、心疾患を抑制する重要な役割を果たすからだと考えられています。他の成分に電子を奪われるプロセスを酸化と言いますが、PON1は、この酸化を起こした一定の脂質を破壊する働きをします。

PON1の働きは非常に重要なものです。なぜならこのような過酸化脂質は、免疫システムに蓄積し、血管壁に脂質が付着することを促して、心疾患を引き起こすためです。

こうなると、クジラやイルカにもこの酵素が必要なのではないかと考えてしまいますが、実はまったく必要はありません。これには、2つの理由があります。

まず、食性そのものが劇的に変化したためです。それまでは草食性でしたが、海の生物を食べるようになったため、摂取するのがより抗酸化作用のある脂質になったのです。

2つ目は、彼らが別の抗酸化の機能を強化させたためです。ここで、潜水の話に戻ります。水生の哺乳類は、陸生の親類よりも、大規模な酸化に対策する必要があります。なぜなら、潜水の前段階で大量の酸素をあらかじめ吸い込み、少しずつ消費しながら海中を移動するからです。

潜水と浮上を繰り返すことにより、細胞組織は、酸素の負荷と窮乏のサイクルを繰り返します。これにより大量の酸化成分が生成されます。クジラ目の生物が抗酸化物質を持っていなければ、本来なら甚大な害を引き起こしたでしょう。

これらの抗酸化物質があるために、PON1はクジラ目にとって、すでに異質な物質となっています。PON1は、農薬の副産物である有機リン酸を分解してくれる働きを持ち、哺乳類にとっては、この強力な神経毒に対抗する唯一の防御手段となっています。

言い換えれば、クジラ目の生物には、有機リン酸から身を護るすべはないのです。これはゆゆしき問題です。なぜならば、この有害物質は農耕地から常に、彼らの生息地の海へと流出しているからです。

つまりPON1関連の遺伝子の消失は、思いがけない理由から、クジラ目の生物にとって大きな脅威となりつつあります。

くじら目の生物が、惨事に至らずにこれらの遺伝子を手放すことができたのは、驚くべきことです。陸から海への生息地の移行は、素晴らしい進化の偉業なのです。大切な機能であっても、いくつかを手放すことがなければ、実現は不可能だったでしょう。

しかし機能を失ったがゆえに、新たな環境を生き抜くチャンスを手にすることができました。現代の危機に直面したこれらの生物にとって、未来においてもそれが続くことを願います。