ガンダムは禁止、ピンクの服とジブリの「かわいい」に囲まれた幼少期

藤岡清高氏(以下、藤岡):青木さんの生い立ちや家族構成についてお聞かせ下さい。

青木俊介氏(以下、青木):両親と妹の4人家族で、父はエンジニア、母は理科の教師という理系家庭で育ちました。千葉育ちで、裏山に秘密基地を作れるような自然豊かな環境でした。

父は寡黙でしたが、僕が少しでも興味を持ったことは覚えていて、それに関する本や新聞の切り抜きを集めてくれたり、博物館に連れて行ってくれたりしました。母は絵が好きだったのですが、突然芸大の学生課に電話して「子どもに絵を習わせたいから学生1人欲しい」と頼んでしまうような人でした。

ガンダム世代でしたが、我が家は「デザインが悪いから見なくて良い」とガンダムは一切禁止。代わりに母から勧められたのは「となりのトトロ」のような、ジブリの柔らかく可愛い世界観で、常にぬいぐるみやピンクの服を買い与えられていました。ピンクの服を周囲からからかわれ、「着たくない」と懇願すると「ピンクが女の子の色というのは既成概念だ、そんな常識を信じるな」と言われました。

いずれにしろ、それぞれに教育熱心な両親のもとで育ったのだと思います。

近所の子どもたちと電気自動車を作る

藤岡:幼少期のご経験などで、特に記憶に残っていることはありますか?

青木:小学生の頃に近所の子ども達と電気自動車を作ったことは良く覚えています。部品は廃品工場から集め、バッテリーやモーターなどの値段の張るものはお小遣いがたくさんある友達を口説いて買ってもらい(笑)、みんなで組み立てました。

結果的にできたのは子どもが何とか1人乗れる台車のような電気自動車で、電力だけでは動かず坂道を下ることができる程度の完全な失敗作でしたが、「電気自動車を作ろう」と言うアイデアに「それいいね」とみんなが集まり、アイデアやお金を出し合って進めていくという疑似プロジェクト体験がとても楽しく、強く印象に残っているのだと思います。

藤岡:その頃からリーダータイプだったのでしょうか。

青木:言い出しっぺではありましたね。中高時代の文化祭準備などでも、期限が迫る中でアイデアを出し合いながらみんなで何かを作り上げていく雰囲気がとても好きでした。ベンチャーの創業も文化祭準備のワクワク感とどこか共通する部分がある気がします。

『ターミネーター2』でAIとパソコンに出会う

藤岡:中高時代は何に熱中されていましたか?

青木:一番夢中だったのはパソコンやプログラミングなどです。中学生の時に観た『ターミネーター2』でジョー・モートン演じるエンジニアのターミネーターのAI部分を開発している姿がものすごく格好良くて、彼が操作していたパソコンに興味を持ったのがきっかけでした。

当時パソコンはまだ一般家庭には普及しておらず、非常に高価でもありました。そこで、親を説得する知識を付けるため『月刊アスキー』などのパソコン雑誌や日経新聞を読み漁り、「これからはパソコンの時代が来るから」と記事を見せながらプレゼンを繰り返し、半年ほどの戦いの末に何とか手に入れることができました。

その頃にちょうどAIブームが来て、「ニューロ」や「ファジー」という言葉が大流行したのですが、改めてAIや脳科学などにも興味を抱きました。人工知能の研究で有名な東大工学部の合原先生が月刊アスキーで連載をされており、それを読みながら「自分もここの研究室で勉強して、大学の先生になるのもいいな」と考えたりしました。

「隠れキリシタン」⁉隠れてパソコンをいじった中高時代

藤岡:当時はパソコンで何を作っていらしたのでしょうか。

青木:まずちゃんと動かすことがけっこう難しく、少しでも間違うとすぐ起動しなくなるので、設定ファイルなどいろいろな仕組みを覚えたり、Visual Basicなどのプログラミングを覚えて簡単なゲームを作ったりしていました。ただ、何を作ると言うよりは触っていること自体が楽しくて仕方なかったです。

藤岡:パソコン仲間などはいたのですか?

青木:学校の水泳部にプログラミングに詳しい後輩がいたのですが、彼にいろいろ教えてもらう他はほぼ独学でした。当時は「パソコン=オタク」イメージが強かったので、パソコンのことは友達には秘密にして、まるで隠れキリシタンのような生活をしていました。

本当はロボコンなども参加してみたかったのですが、学校自体がそういう雰囲気ではなく叶いませんでした。そういった動くものがあると、数学や物理への興味も全く違うと思うのですが、理論を学ぶ一方で実践の場が少なく、失敗を積む経験をあまりさせてもらえないことで不完全燃焼の悶々とした思いを抱えていた気がします。

インターネット漬けの日々、そして、チームラボの起業

藤岡:その後大学に進学され、4年生でチームラボを起業されました。そのことについてお聞かせいただけますか?

青木:当時はインターネット勃興期だったこともあり、大学入試が終わった直後からインターネットを始めました。アルバイト先でもホームページ制作やプログラミングをして、とにかくインターネット漬けの毎日でした。

大学2年生の時に、現チームラボ株式会社社長の猪子寿之君と同じクラスになりました。彼はずっと「ベンチャーおもしろいよ、会社を立ち上げたらいっぱい研究できるよ」と言っており、僕自身も興味を持っていたのと「研究」というキーワードに惹かれる典型的な理系学生だったこともあり、一緒にチームラボを立ち上げることにしました。

僕自身はCTOとしてソフトウェア開発を担当していましたが、そもそもちゃんと働いたこともなく、起業が何かもよく分からない状態でしたが、みんなで一緒にワイワイやりたいという思いだけで始めた会社です。

サービス開発するも失敗に終わる

藤岡:チームラボでは、初めにどのようなサービスを開発されたのでしょうか。

青木:初めての自社サービスは「ニュースセレクト」という「登録すると、お気に入りのニュースが届く」というサイトで、今で言う「スマートニュース」のようなサービスです。レコメンデーションエンジンという、Amazonでおすすめ商品を自動で推薦してくれるようなソフトをニュースにも活用できたらと考えて開発しました。

次にこのエンジンを映画情報に活用しようと考え「レビュアーズネット」というサービスを開発しましたが、いずれも失敗に終わりました。「新しいテクノロジーを作りたい」という思いが先走り、ユーザニーズへの視点が欠けていたのだと思っています。

藤岡:資金はどのように調達されていたのでしょうか。

青木:学生なので、バイト代をつぎ込んでいました。アドネットワークもなかったのでバナーの営業をするくらいしか収益化の方法がありませんでしたが、経験や知識もなく自社サービスのビジネス化は難しい状況でした。エンジェルやVCからの出資も一般的ではなかったので、バイトで稼ぐしかありませんでした。起業ごっこをしていた感じです。

その頃に、僕のアルバイト先の上司から100万円ほどの仕事を受注しました。貴重な売上でしたし、それを機に法人設立し、会社組織として動き始めました。

受託開発で収益とスキルを上げ、新しい技術開発へ

藤岡:そこからユカイ工学を立ち上げるまで約6年間、どんなことをやっていらしたのですか?

青木:最初は技術力も身に付くし収益も上がると言うことで受託開発もたくさんやりましたし、最近はアート作品のイベントをいろいろなところでやっていますが、その制作も初期の頃からやっていました。

スタートアップ企業がよく「受託で食いつなぐ」と言いますが、実は受託は難しいと思っています。クライアントと話が通じないといけないし、期待値に応じたものを納期内に納めるスキルも必要です。僕たちも当初は恐る恐る受注したシステムもありましたが、受注先に常駐してその社内のシステム部の信頼を勝ち取り、地道にがんばりました。

そんな中で何とか新しい技術開発に投資できるようになり、その頃に作ったのが「SAGOOL(サグール)」というオモロ検索エンジンです。おもしろい順にサイトをランキングするオモロジックというのを僕が作りました。Googleだと信頼度の高い大規模なサイトが並んでしまっておもしろみに欠けるので、それをおもしろい順に並べるようにしたのです。

ロボットベンチャーの台頭、ユカイ工学創業へ

藤岡:そこからユカイ工学創業に向かったきっかけは何だったのでしょうか?

青木:チームラボにすべて捧げて来ましたが、その頃子ども時代に抱いた夢を実現できる環境が整い始めました。愛知万博を機にロボットベンチャーが盛り上がりを見せ始めたこと、ハードウェアの世界にオープンソース文化が波及し始め一気に技術革新が進んだことなどでロボット産業への参入がしやすい状況が生まれたのです。

「ソニーのAIBO、ホンダのASIMOなど大企業が作るものだったロボットが自分にも作れるかもしれない。今やらないと乗り遅れてしまう」という思いが募り、一歩踏み出すことにしました。

成長してきたチームラボを去るのは辛い決断でしたが、組織内で他のメンバーとまったく違うロボット作りをするわけには行かないと考え、結局「SAGOOL」のリリース後に退任することにしました。

創業と同時に中国留学

藤岡:ユカイ工学はおひとりで立ち上げたのですか?

青木:個人事業のような形で「ロボティクスで、世界をユカイに。」をテーマにした合同会社を立ち上げました。しかし、すぐには企業活動をせず、学生起業で疎かになっていたAIの勉強をやり直したいという思いもあり、中国・上海にある東華大学大学院に留学しました。

1年ほど研究していると「そろそろロボットを作りたい」という思いが強くなり、2年生の間は頻繁に東京に帰り、秋葉原でパーツを買ってロボットを作るという上海との二重生活を送ることになりました。

東京で手に入れたパーツを組み立てる場所が必要だとなり、そこで頼ったのが当時ピクシブで役員をしていた中学時代の同級生でした。彼の厚意でオフィスに居候をさせてもらったことが、後にピクシブのCTOに就任するきっかけとなりました。

2011年、19年越し「ロボット作り」の夢をついに実現

藤岡:帰国後は本格的にユカイ工学の活動を始めたのですか?

青木:未踏プロジェクトというIPA(情報処理推進機構)の支援事業にロボットのテーマで応募したのが採択され、2008年~2009年の2年間は開発資金をもらいながらロボット作りをしました。

他方、引き続きピクシブのオフィスで間借りしながらやっているうち、ピクシブのCTOというポジションを引き受けることになり、平日はピクシブで働き、週末は未踏プロジェクトのロボット作りという生活を送っていました。そこで一緒にロボットを作っていたのが、現CTOの鷺坂君です。

そんな生活を3年ほど送り、2011年にピクシブを離れてユカイ工学に専念することにしました。合同会社を株式会社化し、ついにフルタイムでのロボットづくりをスタートしました。中学2年で「ロボットを作りたい」という夢を抱いてから19年目のことです。

震災もきっかけのひとつではありましたが、未踏プロジェクトでロボットを作っているうちにSNSなどで話題にしてもらえることが増え、展示会などにも出展し始めたところ仕事が舞い込むようになったことが大きかったです。

また、メイカーズムーブメント(注:PCやCAD、3Dプリンターなどデジタル技術を用いたモノづくりの潮流。)が起きたのも2011年で、そういう世の中の後押しもあって「やっていけるかもしれない」と思ったのです。

「ユカイ」というビジョンの事業化が最大の壁。そして、それを救った「仲間」の存在

藤岡:実質的には、2011年が創業と言えるのですね。初めのうちは、経営者としていろいろな壁に突き当たったと思います。青木さんが感じられた創業当初の壁はどのあたりでしたか?

青木:資金も技術もビジネス的なネットワークもない中でスタートしましたから、正直はじめのうちは全部が壁でした(笑)。

初期には、資金繰りの為に伝手を頼ってソフト開発の仕事などもやっていました。ただ、それだけでは集まったメンバーから「どうしてロボットを作らないのか」と言われます。理想がなければ仲間は集まりませんが、理想ばかりでは食べていけません。そのギャップをクリアする事業開発には最も苦労しました。

「ユカイ工学」という社名は、ソニーの設立趣意書にある「自由豁達ニシテ“愉快”ナル理想工場ノ建設」という一説に由来し、自分達が作るものは「一緒にいてくれると楽しい、使っているとユカイになる」という存在を目指したいという思いも込めて付けました。

しかし、創業当初はビジョンを体現するプロダクトもなく、創業者自身もビジョンを実現する道筋がはっきり分からない状態です。プロダクトのマーケットフィットを探すというのが恐らく組織として最初の目標ですが、理念が形になるまで本当にいろんな試行錯誤をしました。

創業メンバーはそこを一緒に議論し合って深掘りして行く必要があり、そのためには共に壁を乗り越えられる、信頼できる仲間が不可欠です。

CTOの鷺坂君とはチームラボ時代に学生アルバイトとして出会ったのですが、博士課程修了後にユカイ工学にジョインしてくれました。優秀なだけでなく彼といるといろいろなアイデアが生まれるような、絶えず自分を刺激してくれる存在です。

鷺坂君以外も初期に手伝ってくれていたメンバーは、自分で仕事を取ってきて自分で仕事をこなせるようなスキルとネットワークを持っているにもかかわらず、「一緒にやったらおもしろそう」と言って入ってきてくれた人ばかりで、最強のメンバー揃いでした。

IoT時代到来で事業拡大し、ついに『BOCCO』を開発

青木:もう1つ大きな壁として、「ベンチャーがコンシューマ向けのロボット製品をつくるのは、リスクが高すぎる」という現実もありました。

個人的には「20年以内には必ずブームは来るだろう」と考えていたので、その時に製品が出せるようなチームづくりと、初期の段階からメデイアの取り上げてもらえるようなプロトタイプを準備しておくことに注力しました。

すると、2013~14年頃からIoTが盛り上がりを見せ始めました。僕たちがやっていたことが正にIoTで、当時あまり競合がいなかったこともあり、かなり広範囲から引き合いをいただけるようになりました。企業のPoC開発プロジェクト等から声が掛かるようになり、BtoBのビジネスが一気に広がったと感じました。この流れで世間の関心やイベント等の露出も増え始め、メンバーが10人程になりました。

そこでようやくコンシューマ向けのプロダクトが作れそうだという機運になり、開発したのが『BOCCO』です。ただ、「ロボットの事業をやっている」と話しても、まともに取り合ってくれる人はほとんどいませんでした。

『Pepper』登場で世の中が一変

青木:この直後にソフトバンクの『Pepper』が登場し、一大ブームとなります。世の中のマインドセットが一気に変わり、「今後はロボットとAIを事業に取り入れなければ」という空気になりました。

Amazonが「Alexa」を発表したのもこの頃で、「20年以内」と考えていたロボットブームは起業7年で到来しました。

藤岡:売上は初めから順調だったのでしょうか。今でこそロフトやハンズでも目立つ場所に置かれていますが、いきなり置いてくれたわけではないですよね。

青木:そうですね、いきなり商品だけあってもなかなか伝わりづらく難しかったです。もともとBOCCOに興味を持って頂き、一緒にワークショップ等をやる中で関係性を築き、徐々に受け入れていただいた感じです。

売上に関しても、理想の売上にはまだ至っておらず、試行錯誤が必要だと思っているところです。ただ、社会全体がSNSで動画を見るようになったことで、認知度はだいぶ上がった感触はあります。

求めているのは自分たちより優秀で、チーム発想ができるメンバー

藤岡:ユカイ工学を今後成長させていくために、青木さんがふだん意識されている組織マネジメントや採用に対しての考え方を教えて下さい。

青木:組織づくりやマネジメントに関しては、正直まだできていないことが多いと思います。一方で、結局は1対1のコミュニケーションの中で信頼関係が築ける人であれば、とりたててマネジメント理論を導入する規模ではまだないとも感じており、現在は1on1のミーティングを意識してやるようにしています。

採用では、チームの発想をできる人が一番欲しいです。また、自分たちにはないスキルを持っている人、自分たちよりも優秀な人を採用したいと常に考えています。これまでエンジニアやデザイナーを中心に採用してきましたが、現在は営業やマーケティング、管理部門などのメンバーも増やしています。

エンジニアやデザイナーは「自分が作りたいと思うテーマがあり、それを既に形にしている人」を求めています。実際に自分の手を動かして何らかの形で実現している人ということです。

メンバーに共通する採用像は「新しいアイデアに寛容で、人のアイデアにワクワクでき、自分でもアイデアを出せる人」です。世の中の常識に縛られず、柔軟で自由な発想をしてもらいたいと考えています。

「プロダクトをいかに広めるか」が次の経営課題

藤岡:青木さんが現在お考えになっている経営課題はどんなところですか?

青木:事業開発の部分がまだ弱いと思っています。自分たちが理想だと思い描いていたプロダクトをリリースできるようになりつつありますが、そこから先の「いかに世の中に広めていくか」が次の大きな課題だと感じています。

ロボットをBtoCに広めていくというのは、マーケットをゼロから創造する行為に近いと思います。全く新しい利用シーンを一緒に創り出し、それを普及させていく作業はまだまだこれからやらなければならない大仕事です。

今生まれつつある市場で、人類史に残る仕事を

藤岡:最後の質問になりますが、現在社員数が35名程というこのタイミングで、御社に参画する魅力はどこにあると思われますか?

青木:まず身近なところで言えば、本当にユニークでおもしろいメンバーが集まっており、しかも週末プライベートでも一緒に遊んでいるくらい仲の良い和気藹々とした社風が弊社の魅力だと思います。

また、ロボットの市場というのはまさに今生まれつつある市場です。これから大きな変革が起こることは間違いなく、PCで言えばAppleのMac、ゲームで言えばファミコンのように歴史的製品が近い将来に生まれる市場です。だから、本当に人類史に残るような製品を自分たちで手がけられる可能性がある、そんな歴史に残る仕事ができるというのが、僕は一番の魅力ではないかと思っています。

家庭用ロボットはこれからが勝負です。家の中で活躍するロボットと言えばドラえもんやアラレちゃんのような親しみやすいロボット像が浮かびます。日本人のキャラクターへの高い感性を存分に発揮し、日本のカルチャーやデザインを最先端の技術に取り入れることでユニークなプロダクトを生み出すチャンスはあるのではないでしょうか。

まだ誰も成功していない分野ゆえ大きなチャレンジになることは分かっていますが、幼少期から人と同じことをしない道を歩んできた、自分のような人間こそが成し遂げられるのだと信じて前進していきたいと思っています。

藤岡:本日は素晴らしいお話をありがとうございました。