「資本主義のその先」を追求する武井浩三氏

麻生要一氏(以下、麻生):それでは用賀読書会をスタートしたいと思います。よろしくお願いします。改めまして、本日の主役であり、ゲストでございます、用賀が誇る知の巨人、武井浩三さんです。こんばんは。

武井浩三氏(以下、武井):そんな呼ばれ方はしたことがないんですけどね(笑)。お願いします。

麻生:では武井さん、講演よろしくお願いします。

武井:はい。じゃあ、画面を共有します。

見えているかな? お願いします。何の話をするのかですが、一応、僕は組織論や不動産、最近は金融やITが専門の男です。今の世の中で何が起きていて、どっちの方向に向かっているのかというけっこうメタなところから、今現在の我々の生活をつなげていく情報をお伝えしたいなと思っています。

人、組織、経済、社会。僕にとっては働き方改革とか、教育の改革とか、福祉の改革、なんなら地域経済、地方創生、SDGs、ESGなども、フラクタルに全部同じ現象に見えているんですね。

なので、俺も要ちゃん(麻生氏)みたいにすごくいろんなことをやっている男ですけれども、文脈が一緒なので違うことをやっているという認識・感覚がまったくありません。

社会システムデザイナーとして多岐にわたり活躍

武井:(スライドを指しながら)こんな感じで軽く自己紹介をしますと、最近自分はいろいろやりすぎていて、何をやっているかよくわからないです。「社会活動家」とか「社会システムデザイナー」と言っているんですけれども、みんな「活動家」なので「社会活動家」って何も意味をなしていない言葉なんですね(笑)。

だから、そんな感じで……「一生懸命生きています!」ということなんですけれどもね。

自然(じねん)経営研究会というものをやっていたり、eumoという共感コミュニティ通貨を作る会社をやっていたり、バラを売るAFRIKA ROSEという会社をやっています。これは、ケニアで雇用を生みながらフェアトレードで仕入れて、カーボンオフセット、つまり排出するカーボンなどの再生コストも全部含めて価格を設定したりということをやっています。

一応、「ティール組織」と呼ばれる新しい組織のかたちの日本の第一事例と言われることがあるもので、それを広げる活動をしています。

あとはこのneomura(ネオムラ)をがんばったりしております。他にも不動産系の業界団体の活動をいくつもやっていたり、「ホワイト企業大賞」という、いい会社をフィーチャーする活動など、意外とまじめなこともやっております。

不動産が専門として長かったので、けっこう詳しいほうかなと思いますね。地盤情報について、内閣府に提言していたりもします。

『自然経営』と、ここにフォーカスした本ですけれども、一応、自分で書いた本としては3冊で、共著で1冊出させていただいていています。『社長も投票で決める会社をやってみた。』『管理なしで組織を育てる』『自然経営』。「テック」という言葉を作ったのも、実は私でございます。

あとは最近、この辺の「働き方」系の本とか、「幸福とは何か」とか、そういう系の本にも取り上げられることがよくあります。

「働いたら負け」「サラリーマンは終わっている」と思っていた

簡単に僕の経歴を話します。横浜出身で、高校を卒業してずっと音楽をやっていました。「どうしてもアメリカに行きてぇ!」と思って、親に頼んでロサンゼルスの音楽の大学に入学をさせてもらい音楽をやっていたんですけど、その傍らでアルバイトでバーテンダーや寿司職人をしていました。

これはけっこうどうでもいい自慢なんですけど、ロサンゼルスのザ・リッツ・カールトンで寿司を握っていたんですよ。それで、エミネム(注:アメリカ合衆国のヒップホップMC、プロデューサー、俳優)に寿司を握ったというのが1つ、自慢です。これはどうでもいいです(笑)。

アメリカにいたのが2002~2003年ぐらいだったんですけど、そのときにけっこう「働く」ということに対して、考え方が変わる出来事とか、友達付き合いというのがありました。なんか、アメリカってみんな、すごくカジュアルに仕事をしているんですよね。

もちろんそれまで僕は学生で、音楽をやっていたので、ちょっとツッパっていたわけですよ。「働いたら負け」って思っていたし、「サラリーマンは終わっている」って思っていました(笑)。バイトしかしたことがないくせにね。

アメリカで出会った友人たちに触発されて起業

でも、アメリカに行っていろんな友達ができました。例えば車が好きなやつで、友達から車を仕入れ、直して売って生計を立てているというのがいました。僕が20歳のときに24歳ぐらいだった中国系のアメリカ人の友達は、その頃から「俺は、シリアルアントレプレナーなんだよね」って言っていて、「何をやっているの?」と聞いたら、「リサイクルショップとレストランとクリーニング屋を経営しているんだ」みたいな答えでした。

今で言うシリアルアントレプレナー(注:いくつものベンチャー事業を次々と立ち上げる起業家)とはだいぶ違って、ローカルですけどね。「なんだそれ? すげーな!」って思ったんです。

華僑の人たちって、そもそも「就職」という概念をあまり持っていないんです。仲間内で「こういうのをやったらいいじゃん」「おお、やろうぜ!」という感じで、みんなそういうふうに事業をやったりしているんですよ。

日本って特に、学生と社会人がすごく分断されている印象があるんですけど、(アメリカで出会った友達は)めちゃくちゃシームレスで、ただただ生きる。そういうのを見ていて、仕事って、自分の得意なこととか好きなことを困っている人の代わりにやってあげて、お金をいただくというすごくシンプルなものに見えたんですね。「これは俺もやってみたいな」と思って、その頃から事業プランをいくつか考え始めたんです。

そのうちの2個を真剣に考えていて、1個が起業したITの領域と、もう1個がタピオカドリンク屋です。15年ぐらい前、マジで起業しようか悩んでいたんです。そのときにやっていたら、ブームの前だったので絶対に失敗していたけど(笑)。

それで日本に帰ってきて、ミュージシャンをしながら音楽活動をしていたんですね。

(部屋に入ってきた子どもに対して)はい、じゃあね。おやすみ。

音楽をやりながら、「音楽もやりたいし、ビジネスも何か自分でやりたい」という気持ちが強くて、起業しました。起業して、営業初日で心が折れました(笑)。その時期が、僕の人生の中でもけっこう闇の深い時期だったんです。

アパレル広告系のメディアを立ち上げるも、営業初日で挫折

それまでの僕は、そこそこ勉強もできたし、運動もできて、音楽でちょっと調子にのっていたわけですよ。高校時代も、けっこうギターがうまかったのでちやほやされていたし、ヒップホップとかR&Bもやっていました。

なので、自分で言うのもなんですけど、どちらかと言うとちょっとモテるほうだった。……隣で嫁が寝ているのに言うのもなんか、テンションが難しいんですけど(笑)。だから、あまり挫折をしたことがなかったんですよね。ちなみに僕がミュージシャンだった頃の写真がこれ。

かっこよくない? 俺、23歳。そんなわけで、めちゃくちゃ調子にのっていたわけですけど、会社を立ち上げてみたら、「あれ? ちょっと思っていたのと違うぞ」「これ、ぜんぜんうまくいかないじゃん」ということになりました。

アパレル広告系のメディアだったんですが、小売業って広告費用を出さないから、けっこう渋いマーケットでした。しかも、アルバイト以外で仕事をしたことがなかったから、そういうお店がどういうふうに広告費用やプロモーション費用を使うかとか、まったく知らない。

なのに、そういうCGM(注:Consumer Generated Mediaの略。ユーザーが参加することでコンテンツができていく、掲示板や口コミサイトなどのこと)みたいなメディアを作っちゃって、ぜんぜんだめで、「もう、どうしよう」と思いました。

自分で借金をして始めていたし、友達を誘って起業していたので、友達にも借金してもらっていました。22歳で起業したので、友人の一人は大学を辞めて手伝ってくれていました。もう一人は日立という超大企業に勤めていたのを辞めて手伝ってくれて、しかも借金してくれていました。それで営業し始めて、「あれ? このビジネスモデル、ぜんぜんだめじゃん」という感じで、「どうしよう、どうしよう……」と(笑)。

22~23歳で借金1,000万円を背負う

みんな明らかにだめだというのはわかっていたんですけど、自分たちにスキルはないから売らないといけなくて、とにかく営業活動をしなきゃいけない。だめだと思っているものを売るのが一番辛いわけです。そのときが本当に辛くて、半分うつ病みたいになっちゃって、体中にボツボツができて、人の目を見て話せない時期が半年ぐらい続きました。

もう起きている間中、ずっとおなかが痛いんですよ。借金が1,000万円ぐらいあって、もう「これは本当にやべぇな」「俺はちょっと、人生やっちゃったな」と思っていたんですよ。

22~23歳ぐらいでしたけど、それまでアルバイトで月に5万円~10万円しか稼いだことがない人間が、いきなり1,000万円の借金。「返すあてがなくない?」というときで、「やべえ」と思いました。本当にとにかく「どうしよう、どうしよう……」「俺はどうしたらいいんだ」という、答え探しみたいな感じで迷っていました。

実家が製造業なもので、松下幸之助さんや稲盛和夫さん、永守重信さん、大前研一さんという、いろんな方々の本を父親がすごく持っていて、そういうのを読みたくなるわけですよ。

精神的に支えがないとやっていられなくてそういう本を読むと、「諦めなければ道は開ける」というふうに書いてあったり、かたや「勇気ある撤退」という言葉もあったりするんです(笑)。もう、「どっちだよ!」みたいな……。

これは結局、今になってだんだんわかってきましたけれども、仕事をするとか会社をやるというのも結局、答えがない世界の話です。人生と一緒じゃないですか。

一人ひとりの人生に正解がないので、どっちがいいとか悪いとか正しいというのはないんですけれども、わからなくなっちゃって……。「ちょっとでもキャッシュが残っているうちに事業を1回畳んで、何かわからないけれど、とりあえず別のことを探すか」と思いました。何よりも、とにかく逃げたかったんです。

顧客がいる限り、会社をやめる選択肢はない

それを父親に相談したわけです。「もう、やめようかなと思っているんだけど」と言ったら、父親はそれまでけっこう「お前が何をやっているか、よくわからないけど、とりあえずがんばれ」というスタンスで応援してくれていたんですけど、「やめようかな」と言ったときだけ、めちゃくちゃ怒られたんですよ。

父親は30人ぐらいのThe 中小企業みたいな製造業の会社を横浜でやっているんですけど、「お前はこういう夢を掲げて、友達を誘って、友達にも借金してもらった。それで、儲かっている・儲かっていないは置いておいて、顧客がいるわけだ」「それはもう社会的責任というものが存在していて、その責任はお前の命よりも重いんだよ」と言うんです。

「会社というのは、仮に中の人が何か不慮の事故で亡くなったとしても、仕事というものでは、責任を果たし続けないといけない。そのために組織に集まっている」「お前にやめるという選択肢はない!」と言われました。

「マジかよー!」みたいな(笑)。その頃は本当にテンパっていたので、もうよくわからないと言うか、消化しきれない状態だったんですけれどもね。

でも、なんだか正しい気がするなと思って、「ジタバタするけれども、いったん逃げるのをやめよう」「もうよくわからないけれど、やり切るところまでやってみよう」と腹をくくれたんですね。

そう考えるとやっぱりけっこう考え方が変わって、「借金が500万円、1,000万円とかあったとしても、がんばれば普通に働いて3~5年ぐらいで返せるじゃん」「そのときはそのときで、全部受け入れよう」「そのときはしょうがない。以上!」という感じに思えたんです。そうしたら、その日からはまた夜に眠れるようになったんですよね。

背水の陣で1年で借金を完済するも、気力が尽きる

それで、悪あがきしまくりました。メディアとしてはぜんぜん収益が上がらなくて、1年間で50万円しか売り上げが立たなかったんですけど、今で言うPV(ページビュー)みたいなものがちょっと上がりました。

悪あがきした結果、そのメディアを買ってもいいという会社を見つけることができ、口八丁手八丁でだいぶ盛って、起業してから1年後にぴったり1,000万円で売れたんですよね。

それでみんなの借金もきれいに返せて、「うおー!」「とりあえず、よかったー!」みたいな(笑)。これが、ちょうど僕の社会人1年目という感じですね。

それで、最悪の事態は逃れられたし、友達なんかは「いい経験をさせてもらったよ」とかって言ってくれたんですけど、やっぱりふと冷静になって考えてみると、俺はちょっと……。「友達のうち、一人は大学を辞めちゃったし、もう一人は日立を辞めちゃったよ……」という思いがありました。

結局、会社は事業を売却できても「そのあとどうする?」という話もあるし、いったん気力が尽きちゃった。「俺は結局、何がしたかったんだろう? よくわかんねぇな」と思いました。

あまり金銭欲は強くないんですけれど、「何か、でっかいことをやってみたい」というものがありました。でも、「それって何のために?」「俺は誰のために、何のためにやっていたんだ?」「友達の人生を振り回してめちゃくちゃにしてまで成し遂げるべきものって、マジで何もないな」と思ったんです。