自らの自由のためにも、他者の自由を認める

苫野一徳氏:教育の話へと徐々に進んでいきたいと思いますが、「公教育とは何か?」。私はこのような言い方をしています。

少し哲学的な言い方ですので、後でかみ砕きますが、「各人の『自由』および社会における『自由の相互承認』の『教養=力能』を通した実質化」。人々が自由の相互承認の感度を育むということを土台とし、すべての人が生きたいように生きられる、自由になる。

自由という言葉も難しいんですよね(笑)。3時間ぐらいしゃべりたくなっちゃいますけど。ここではさしあたり、生きたいように生きられることと考えていただけたらと思います。

ただし、「俺は自由だ、何をしたっていい。自由なんだ」と言ったら、結局他者の自由とぶつかりあって戦いになって、そして自分の自由も相手の自由も奪われることになってしまいますから、自分が自由に生きるためにも、他者の自由を認めるということが非常に重要になってくるわけですね。

ですので、自由の相互承認の感度を育むことを土台に、すべての人が自由に生きられるための力を育むこと。教育の本質や目的はいろんな言い方をされますけれども、哲学的にはここが一番の根本だと、ここから教育を考えなければいけないんだということを、改めて申し上げたいと思います。

そして先ほども言いました、その正当性の原理、公教育の正当性の原理は、一般福祉。すべての子どもたち、すべての人の良き生、自由というものに資するものでない限り、それは正当とは言えないということになりますね。

「小1プロブレム」は、子どもではなく学校システムの問題

ちなみに公教育という言葉は、みなさんご存じだと思いますが、私立学校ももちろん含まれます。ざっくり言うと学校教育一般のことですね。ですので、公立学校に限定される概念ではありません。

ただ、今回に関しては、さらにこの概念をちょっと広げておきたいと思います。この公的な社会、要は市民社会におけるすべての教育というふうにあえて概念を広げておきたいなと思います。

というのも、市民社会の根本原理にそぐわないような教育はしてはいけませんから。誰かの自由を奪うための教育など、してはいけないのです。その意味で、今回は一応、家庭教育や社会も含めた、広義の公教育として考えていきたいと思います。

さて、ところが現代の問題を見てみると、本当にすべての人の自由と、自由の相互承認をちゃんと実質化するものになっているかというと、ざっと挙げただけでも、こうしたいろんな問題が公教育というものには含まれてしまっている。

小1プロブレム……と間違って呼ばれているもの……と私は言っていますが、これは子どもたちの問題というよりは、学校システムの問題というふうに捉えたほうがいいんですよね。

いやな言葉ですけれども、落ちこぼれ・吹きこぼれ問題(注:落ちこぼれの逆で、高い学力や旺盛な学習意欲をもつ児童・生徒が、通常の学校の授業に物足りなさや疎外感を感じる状態)。

あるいは、過度の同調圧力や空気を読みあう人間関係。

いろんな問題があって、自由や自由の相互承認の実質化というものに、学校教育がはたして十全に寄与し得ているだろうかということをやっぱり考えたい。コロナの前からこういった問題はしっかりと認識されていたわけですね。

では、この問題の本質はいったいどこにあるのか。私の考えでは、この150年間、あまり変わってこなかった学校の慣習的システムに、その最大の理由があります。

コロナを機に、150年変わらなかった学校の構造を転換していく

それはどういうシステムかというと、「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強するベルトコンベア型のシステム」。これが、この150年間ほとんど変わってこなかったシステムなんですね。

この100年前の尋常小学校の写真を見ても、今とあまり変わらない。さまざまなテクノロジーや社会が大きく変わってきたのに、あまり学校の姿は変わっていないんです。

学校は、相互依存的なアーキテクチャだと言われます。要するに、ありとあらゆることがシステム的にがんじがらめになっているんですね。

カリキュラムを変えようと思ったら、教員養成も変えなくてはいけないし、教室空間も変えなければいけない。1つを変えようと思ったら全部を変えないといけないので、非常に変わりにくいシステムだと言われています。

ですので、150年間なかなか変わらなかったんですが、コロナを機に構造転換していかなきゃいけないと思っています。

というのも、まさに今、みんなが同じことを同じペースでという、この仕組みが脆弱性をあらわにしているわけですよね。つまり、先ほどのこのシステムが今はまったく機能しなくなっちゃっていると。

先ほど挙げた不登校にしろ、いじめにしろ、落ちこぼれ・吹きこぼれにしろ、こういった問題に加えて、今回こういった問題も出てきてしまった。少しだけ補足しますと、みんなで同じことを同じペースでやっていくと、必然的に、構造的に、いわゆる落ちこぼれ・吹きこぼれという問題が必ず生まれてしまいます。

みんなで一緒にやりますから、いったんついていけなくなったら、ずっとついていけなくなって落ちこぼれちゃうということもあるし、すでにわかっていてつまらないことを何度も繰り返しやらされることで、勉強が嫌いになっちゃうという、そういったいわゆる吹きこぼれの問題というのも、どうしても起こってしまうと。

学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合

同質性の高い学年学級制というのは非常に不思議で、同年齢の子どもたちだけからなるコミュニティって学校だけなんですね。あまり社会ではそういうことがないですよね。

同質性が高いと、どうしても同調圧力がぐっと強くなってしまって、そこになじめない子が苦しんだりとか、いじめが起こりやすくなってしまう。そういった問題がありますよね。

これらの問題を根本から克服していこうということで、私は長らく「公教育の構造転換」を提唱しています。いくつもアイデアはあるんですが、そのうちの1つの中心的な考え方が、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」への構造転換です。

こちらに挙げました2つの本に詳しく書いていますが、残り3分ぐらいですので、ぐっと短くお話ししたいと思います。

まず「学びの個別化と協同化の融合」ですが、これまでは、みんなで同じことを同じペースでやってきたわけです。ところがこれが、学習権の保障と言いますか、先ほど言いましたように、そういったものをしっかりと保障できなくしてしまっているんです。

学び残しやつまずきだったり、落ちこぼれてしまったりということが必ず起こります。でも、もしもその子たちが、自分のペースで自分の心地いい学び方・場所で、人の力を借りたり人に力を貸しながら学びあうことができれば、こういった問題はかなり克服されるんです。

つまり、「ゆるやかな協同性」、何か困ったら人に助けを求められるし、何か困っている人がいたら人に助けを差し伸べられるような、そういった「ゆるやかな協同性」に支えられて、個の学びが尊重されるという仕方に転換していく必要がある。

これだけ聞いても、具体的にちょっと思い浮かびにくいかもしれませんが、また後で具体的なお話ができたらと思います。

子どもたちが自ら問いを立てて学べる場を作る

それからもう1つが「探究をカリキュラムの中核にしよう」ということですね。今までのように、出来合いの問いと答えを学ぶということを中心に勉強させられると、どうしても学びの意義とかがなかなか自覚できなかったり、そもそも自分たちで問いを立てるという経験もなかなかできない。

今、私たちは、学校で子どもたちが問いを立てるという機会さえなかなか保障できていないところがありますよね。

だから大事なことは、自分たちなりの問いを立て、自分たちなりの仕方で、自分たちなりの答えに辿り着く、そういった探究型の学びを中核にしていくことです。

今の指導要領の範囲内でも、4割ぐらいは探究型のカリキュラムにしていくことは可能です。詳しいことを言うと時間がなくなってしまいますので、これくらいにしたいと思いますが。

それから、教師の役割もちょっとずつウエイトが変わってきますね。今までは、子どもたちは先生が持っている答えを取りにいくというゲームをしていたけれど、これからは、先生が子どもたちの頼れる共同探究者・探究支援者になっていく必要がある……。

プロジェクト型の学びをすると、子どもたちは、先生も答えを知らないような問いをたくさん立てます。それはそれで全然構わないし、むしろそれが重要です。それこそ、コロナ後の教育をどうすべきかという問いを立てる子どもたちもいるかもしれない。

そうすると、その問いを持っていろんな専門家にインタビューに行ったり、自分たちでいろいろと調べたりして、自分たちなりの答えに辿り着くかもしれない。

先生は、その際の非常に頼れるパートナー、共同探究者・探究支援者となって、子どもたちの実りのある探究を支えていくのです。そういったところに、今後は大きなウエイトが置かれていくだろうと思います。

「みんな同じであるべき」という発想の危うさ

最後ですね。コロナ期・コロナ後、あるいはwithコロナの教育ビジョンを今までのお話と絡めてお話ししたいと思いますが、先ほども言いましたように、何もかも「みんな一緒」ということが非常に大きな問題を生むわけですね。

ですので、個別化というものが一つ大事になってきます。文科省もずっと「公正に個別最適化された学び」を訴えていますけれども、個別化というのは非常に大事になってきます。

例えば、今は学年ごとに指導要領が決まっていますけれども、これをもうちょっと弾力化してもいいですよね。3年生で5年生のことをやりたい子もいるし、5年生で3年生に戻ってやりたいという子どももいる。個別化されていると、その辺が流動的、ある程度柔軟になりますよね。

それから、今は標準授業時数というのがありますけれども、これも弾力化していく必要がありますね。個別最適化ということを文科省自身も言っているわけですから。

ちなみに私は、個別最適化……最適化という言葉はあまり使わないですね。なんか効率化みたいなイメージが非常に強いので。もうちょっと個に応じていくというイメージを出したいので、個別化と言ったり、あるいは個性化という言葉を使っています。

標準授業時数の話に戻すと、子どもによっては5時間かかる子もいれば、30分で終わっちゃう子もいるわけですよね。だから、これだけの時間をみんなが必ずやりなさいと、一律に揃える必要はない。

あとは、教育行政の発想として、これも議論すべきことがたくさんあるんですが、「均等配分しなきゃいけない」という発想にけっこう凝り固まっちゃっているところがありますね。有名な話だと、タブレットや端末、ネット環境がみんなに整えられないからやらないといった話はよく聞きますけれども。

これは「みんなが同じじゃなきゃいけない」という発想です。でも、さっき言った一般福祉の発想からすると、適正配分が大事です。「みんな同じ」ではなくて、「困っているところにより厚く」ですね。

もしも均等配分して、「みんなに整わないからオンライン授業をやらない」とすると、持っている家庭はどんどん進みますから、余計格差が広がります。適正配分、困っているところにより厚く。これが行政の一般福祉に基づく基本姿勢であろうと思います。

個別化と孤立化の違い

さきほど言いました、個別化というのはけっして孤立化させることではありません。孤立化させてはいけないんですね。今孤立化している子どもたちはいっぱいいますけれども、ちゃんとゆるやかな協同性で支えるんだということが大事です。

先ほどの私の話は、クラスや学校でのゆるやかな協同性でしたけれども、今後はそれだけじゃなくて、もっと社会全体で学校をゆるやかに支えていく必要がある。今まで、我々は学校の両肩にいろいろなものを背負わせすぎてきた。

だからもっと社会で……例えば福祉部局だったり、地域、保護者、いろんな人たちがもっと協力して、その協同性で子どもたち一人ひとりを支えていく、そんな仕組みをこれから作っていく必要がある。どうやって作っていくか、またお話しできたらと思います。

それからプロジェクトの充実。今お仕着せの勉強をたくさんさせられている子どもたちが、とても気になっています。全教科で膨大な宿題が出て、ふだんより忙しいという子どもたちがたくさんいるんですよね。いろいろと私も聞きました。

今こそ、こんなときだからこそ子どもたちが夢中になれることを徹底的にやる。そしてたまにそれを持ち寄って刺激しあう、そういったことをやりたいなと思います。

そして最後に、いくら強調しても強調しすぎることはありませんが、やっぱり子どもたちと共に学びを作りたいと思いますね。子ども抜きで、大人たちが「これをやらせなきゃ」「あれをやらせなきゃ」と言ってどんどん与えていますけど、そうじゃないんですよね。

子どもたちは今何が必要なんだろうか。どんなことに困っているんだろうか。これからどうしたいんだろうか。もっともっと声を聞いて「これから一緒に作ろうよ」と。「「みんなの力を貸してよ」と。

そのことこそが、社会をみんなで作るということの土台になるわけです。市民社会はみんなで作るものですから。学校も学びも自分たちで作るんだという、市民教育のあるべき姿でもあるんじゃないかなと思います。

すみません、時間が過ぎてしまいました。ひとまず以上にしたいと思います。ありがとうございました。

竹村詠美氏:苫野先生、どうもありがとうございます。この後、またゆっくりお話をお伺いできればと思います。Learn by CreationでもU-20という高校生を中心としたグループもありまして、一緒に学びを作っていければと思っていますので、非常に最後のお話に共感させていただきました。

それではここから尾原さんにバトンタッチさせていただきたいと思います。尾原さん、それでは20分のご講演、よろしくお願いいたします。