6歳時のアメリカでの経験が、その後の土台に

藤岡:はじめに、椎橋さんの生い立ちからうかがっていきたいと思います。家族構成や、どのような子ども時代をお過ごしになって来たかお聞かせいただけますか?

椎橋:両親と妹1人の4人家族で育ちました。父はサラリーマン、母は専業主婦という家庭です。私自身は、好奇心が強く、新しい物事に興味がある子どもだったようです。工作なども得意で、小さい頃は発明家になりたいと思っていました。できるかわからないことにチャレンジして達成する喜びや感動が昔から好きでした。

自身の人格形成の土台となったと感じているのが、6歳時に1年間アメリカで暮らしたことです。父がMBA取得のためアメリカに留学し、私たち家族も一緒に渡米したのですが、それが新しい環境に触れる良い機会となりました。

言葉もまったくわからない中でアメリカ人と友達になったりするうちに、異質な存在と自然に交わり同質のものに変換していく、そういう感覚を身に付けました。また、日本の学校独特の同調圧力がまったくない、ユニークなことが評価されるというカルチャーから非常に大きな影響を受けていると思います。

その後テキサス大学に行ったのも、この時の経験が「日本の枠を超えてさまざまな経験を積みたい」と考えるきっかけになったと思っています。私が言っている「自分の今見えている範囲、スコープを広げていきたい」という言葉にも繋がっています。

テキサス大学に進学し、物理学と数学を専攻

藤岡:筑波大附属高校に進学され、その後、テキサス大学に入学されました。海外大学への進学は何かきっかけがあったのでしょうか。

椎橋:私の高校は、進学校でしたが大変自由な学校で、校則は「校舎の中でスケートボードに乗ってはいけない」ということだけだったような気が(笑)。ただ、優秀な生徒が集まる学校でしたから、各自が自己責任の意味をちゃんと理解して行動していたように思います。今でも繋がっている仲間が多いです。

高校の仲間の多くは東大をはじめ国内のトップ校への進学を考えていましたが、私は東大に行くよりも海外の大学に、それも1~2年ではなく卒業まで行った方が学びも多く、ユニークネスもあるのではと考えるようになりました。

そんな中でテキサス大学を選んだのは、日本の進学校から優秀な人たちが集まっており、中でも宇宙工学をはじめとした理系に強い大学だったことからです。また、学費が安かったことや、治安が比較的良かったこともポイントでした。

藤岡:向こうではどのような学生時代を過ごされたのでしょうか。

椎橋:前半の2年間は勉強というよりはいろいろと熟考する期間でした。アメリカの大学は2年の終わりまでは専攻どころか文系・理系も分かれておらず、ベーシックな授業を自由に受講するのですが、自由度が高いからこそ「専攻をどうするか」「どのような授業を取るか」など考えることも多く、より本質的なことを考える豊かな時間を過ごすことが出来ました。

3年時に専攻を絞るのですが、「より根源的、汎用的、そして本質的な部分に切り込める学問を」と考え、人間の脳について学びたいと考えるようになりました。

しかし、脳科学という専攻はなく、それに近い分野として心理学や生物学も検討しましたが、より脳のメカニズムに深く踏み込んだ研究をしたいと考え、最終的に物理学にたどり着きました。さらに、物理を学ぶにあたってそれを記述する言語として数学の重要性を感じ、物理と数学のダブルメジャーを専攻することにしました。

藤岡:言語の壁もある中で勉強も大変だったとは思います。他にも印象的なことはありましたか?

椎橋:アメリカの学生は勉強と並行してインターンなどで働くことが多いことです。私も3年生時にGEのFMPというファイナンス部門でのインターンをしたのですが、その関係で会計学の授業を取りました。物理学専攻で会計学を受講したのは私1人でしたが、理系の研究領域と同時にビジネス領域の探索もでき、大変良い学びになったと思います。

帰国後、大学院進学を検討するもBCGへの就職を選択

藤岡:卒業後は日本に戻られましたが、その経緯についてお聞かせ下さい。

椎橋:当初は物理のドクターを取って研究者になろうと考えていたのですが、当時のドクターの研究グループが行っていた物性物理学が私の興味のある方面とは少し違ったことや、「もしこのままアメリカで研究者になったら、もう日本に戻ることはないかもしれない」と考えたことなどがきっかけとなり、日本の大学院に進学したいと思うようになりました。

アメリカの卒業が12月で、日本の院試は8月に終了していたので、翌年の院試までいろいろな大学院を見て回りました。ですが、その中で「学際的研究なのに矛盾があるな」と感じるようになりました。例えば、経済学や社会学を研究しているのに、ビジネスの現場で資本主義のルールの中で戦ったことがない。

であれば、資本主義の真ん中で社会や経済の仕組みを体感するという意味で、就職して働いた方が学びも大きいのではないかという考えに変わって行きました。

その頃には日本企業は採用が終了していたので、外資の戦略コンサル系や証券会社などを受け、最終的にボストンコンサルティンググループ(BCG)に就職することにしました。

ワシントンDCへの転勤で気が付いた日米の経営手法の違い

藤岡:BCGにはどのくらい在籍されたのでしょうか。

椎橋:比較的長く、7年弱在籍しました。3年ほど経った頃に「どうしようかな」と思ったことがあったのですが、ちょうどワシントンDCへの転勤があったこともあり、長く働くことになりました。

ワシントンDCでは欧米経営者の科学的な手法に対する許容度が高く、大変刺激的でした。店舗のオペレーションの効率化などにシミュレーションモデル等の数学的な手法を導入して結果を出しており、これを日本でも導入できないかと考えるようになりました。

藤岡:日本の経営者にも理系や大学院出身者などのハイスペックな人材は多いのに、科学的なアプローチや研究領域をあまり使わない印象はあります。そこに切り込もうとお考えになったのですね。

椎橋:はい。実はBCGを辞めてアカデミアの領域に戻りたいと少し思っていたのですが、そういう気付きを得たこともあり、帰国後BCGの中でビッグデータのチームを立ち上げ、Excelでは解析できない大量のデータを解析してインサイトに出すという新規事業を始めました。

新チームの立ち上げ、そして、藤原氏との出会い

椎橋:実は、現在の共同経営者でありCTOの藤原との出会いはこのチームでした。私は機械学習の専門家ではなかったので、高度なデータ解析の実装などはできません。藤原は以前に産業技術総合研究所の機械学習研究者でしたので、この領域のプロフェッショナルとして大変貴重な人材でした。BCGには理系出身者もそれなりにいるのですが、ここまでピッタリな人材はそうそう見付かりません。

私が「こういうことをやりたい」と伝え、それを藤原が形にするというスタイルができあがっていきました。

このチームでの仕事がLaboro.AIの原点かもしれません。Laboro.AIはテクノロジーとビジネスをつなぐことに一番重きを置いていますが、藤原との出会いで「つなぐ」感覚や、自らの立ち位置が明確になっていった感じがします。

アカデミアとスタートアップ経験を求めて松尾研とPKSHAに転職

藤岡:その後、BCGからPKSHA Technology(当時のAppReSearch)に転職されました。

椎橋:BCGではプリンシパルで、次はパートナーとしてよりコミットすることを期待されている立場だったのですが、それが自分のキャリアゴールとして本当に良いのかという迷いがありました。

また、BCGにいると触れられないであろう領域が2つあり、1つが最先端技術(アカデミア)、もう1つがスタートアップでしたが、これらを経験しないままキャリアを終えるのは嫌だという思いもあり、BCGを離れることを考えるようになりました。

その頃に運よく、当時データサイエンスに取り組んでいた東京大学の松尾豊先生の研究室がビジネスバックグラウンドで産学連携の仕組み作りをリードできる人材を探しているという話と、PKSHA創業者の上野山さん(現代表取締役)から「スタートアップを一緒にやらないか」という誘いがありました。そして、半分は松尾研究室に在籍し、もう半分の時間を使ってPKSHAでリスタートを切りました。

BCG時代にやりたいと思っていた2つを同時にできる機会はこの先ないだろうと感じましたし、考え方が近く、共感するところが多かったのも転職の大きな理由です。

当時の松尾研究室は今ほど有名ではありませんでしたが、そこからディープラーニングブームの波に乗ってメジャーになって行くところを一緒に体験することができ、非常に面白かったです。

「インターネットは消費者の革命、AIは既存産業の革命」という気づき

椎橋:アカデミアとスタートアップの両方が経験できたことに喜びを感じる一方、その中でそれぞれに限界があることも感じました。

アカデミアについて言えば、その出口は論文を書くことですが、共同研究をしている企業としてはビジネスに繋がらなければ意味はありません。互いの目指す方向が違うと価値創造が難しいことに気付きました。

価値が出なければそこに対する投資も少なくなっていくので、大きいことができなくなります。アカデミックな知見を産業インパクトに転換する仕組み作りは構造的に難しいと考えるようになりました。

また、スタートアップについて言えば、少し前のインターネット系のスタートアップの勝ちパターンと、AI技術を使ったものとでは大きく異なるのではないかと感じ始めました。

インターネットは情報流通の変革でしたので、「消費者にとっての革命」という意味合いが強いように思います。例えば、Amazonは既存の小売店舗等のリアルなアセットではなく、インターネットを用いたことで消費者の利便性が劇的に高まり、受け入れられました。既存産業とは別の、ECという新市場を作ったことが、インターネットがもたらした変革だと思います。

これに対してAI・機械学習は、大量のデータを元に計算を行うツールです。従って多くのデータが蓄積されている既存産業の生産性向上がメインになると考えたのです。

テクノロジーとビジネスをつなぐため、Laboro.AIを起業

椎橋:そして、アカデミアの産学連携でもなく、インターネット系スタートアップでもない、けれども、「テクノロジーと産業をつなぐ存在」が必要だと感じ、2016年Laboro.AIの立ち上げに至りました。

藤岡:起業は簡単ではなかったと思いますが、椎橋さんが一歩踏み出された強い思いはどこにあったのでしょうか。

椎橋:松尾研究室とPKSHAでの経験を経て、今やっていることと地続きに起業があり、特別なことではないと考えるようになっていました。

松尾先生はアントレプレナー的な考えをお持ちの方でしたし、PKSHAでは上野山さんをはじめ、スタートアップ関連の人たちと接する機会も数多くありましたので、BCGにいた頃と比較すると起業が大きな飛躍ではないと捉えるようになっていました。

一方で、やや矛盾しますが、起業して、経営者でないと得られない感覚等もいろいろあるように感じており、キャリアの中でそれを一度は経験しておきたいという気持ちが起業へのモチベーションになった部分もありました。

議論を重ねて定まっていったビジネスモデル

藤岡:起業されて3年ほど、きっと大変なこともたくさんあったと思います。起業されてからのさまざまな壁について教えて下さい。

椎橋:大きな壁だったのが、方向性の議論です。共同経営者の藤原とは対等な立場で一緒にやろうと意思決定も2人で議論していたのですが、次となる事業の柱について模索し、議論する日々が続きました。

「プロダクト開発が出口」という思いに囚われることもある中、議論を重ねた結果、クライアントのビジネスを深く理解した上で使える機械学習モデルを作れることがコアな競争力になるのではと最終的に考え、現在のビジネスモデルに至りました。

単独でプロダクトを作って売るケースの多いインターネットビジネスのスタートアップとは異なり、私たちは業界の深いところにいる人たちと一緒に新しいものを作るというプロジェクトベースのビジネスモデルを通じて、特定の企業だけではなくその業界全体のプラットフォームになるような広がりを目指そうと考えたのです。

人的ネットワークと縁で採用の壁を乗り越え、チームとなる

藤岡:藤原さんと2人で起業されましたが、その後の採用は順調でしたか?

椎橋:最初の壁は大きかったです。当初は2人のフリーランスが、私たちと一緒にやっているような状態でした。我々以外のメンバーを採用するということは人を雇う責任が生じるわけで、事業の観点からその確信がなかなか持てませんでした。

しかも、この2人きりの超アーリーステージに来てくれるのはどんな人なのかと考えると……とても難しかったです。

ただ、ラッキーなことに、松尾研究室やPKSHAで学生やフリーランスのエンジニアとのネットワークができていたので、業務委託やアルバイトとして一緒に仕事をしてくれるメンバーはいました。そこに加えて、事務やマーケティングを任せられるメンバーを採用しようということで、1〜2名採用しました。

藤岡:ルートを持つというのは素晴らしいことですね。その後、優秀な社員はどのように確保されたのでしょうか。

椎橋:本格的に採用を増やし始めた初期段階からアマテラスに支援いただいています。ある程度、社員が増えてチームとして動き出してからは、会社の方向性やコンセプトも初期より明確になってきたため、そこに共感する方が集まるようになり、採用時の見極めもしやすくなりました。

しかし、採用は縁などが大きいと感じます。「もう一度新たに起業しろ」と言われたら、採用以外は以前より楽にできる感覚がありますが、「今のチームをもう一度作れるか」と問われたら、そう簡単なことではないと思います。

「テクノロジーとビジネスをつなぐ」人材育成が課題

藤岡:次に、今後についてうかがいたいと思います。ここまで3年ほどやって来られて手応えも感じていらっしゃるとのことですが、一方で椎橋さんが今後取り組みたいと考えている課題について教えて下さい。

椎橋:当初より考えていた「テクノロジーとビジネスをつなぐ」というビジネスモデルはある程度形になってきているので、これを今後スケールさせるために、スキルセットをできるだけ形式知化して人材育成の仕組みを作りたいというのが第一段階で、重要テーマと認識しています。

次の段階として、一つひとつのプロジェクトが、もう一段規模の大きな事業やプラットフォーム的なものになって行けば、今までにない大きな飛躍になると思いますので、その飛躍に向けたモデルを描いていきたいと考えています。これは、見えて来ているものを突き詰めるというよりは、まったく新しい将来図を描くことになると思います。

藤岡:コンサルティング会社が成長する姿に若干似ている気がします。コンサルティング会社においては累積経験が業績に影響しますから、結局雇ったところで育成しなければなりません。

椎橋:そうですね。先に申し上げた一段階目のチャレンジは、新しいタイプのプロフェッショナルファームを作るというイメージに近い気がします。戦略コンサルでもITファームでもなく、テクノロジーとビジネスをつなぐ、コンサルティング要素も持った新しい業態になると思います。

藤岡:コンサルファームとも少し違う。そして、AIビジネス経験者を採用するのは難しい。そうなると、伸びしろを見極めて採用する目利きと、自ら育成する仕組みも必要となってきますね。

椎橋:はい。新しい業態だからこその課題でしょう。

求めるのは「つなぐ」ことに貪欲な、ビジネスと技術の双方への興味

藤岡:今後も採用を進めて行かれると思いますが、御社が求める人物像についてお聞かせ下さい。

椎橋:やはり「つなぐ」ことに貪欲であって欲しいです。異なる分野の両方ともに興味を持ち、その両方の言葉が話せるようになろう、そんな感覚を持っている人が望ましいと考えています。

具体的には、例えば弊社でAIプロジェクトの企画やプロジェクトマネジメントを行うソリューションデザイナーという職種で言えば、筋の良いAI活用のアイデアを考え、クライアントのビジネス上で価値を生み出すことを目指す一方、それを実現するための技術に対しても「ここからはエンジニアの領域だ」と線引きするのではなく、深く知りたいという思考を持ち、新しい経験に喜びを感じられる人が向いていると思います。

藤岡:エンジニアでなくても、エンジニアと対話して技術の壁を一緒に超えて行こうとするような人が望ましいと言うことですね。

椎橋:はい。コーディングなどの実装はエンジニアが行うにしても、技術の原理に関しては理解するための努力を惜しまず、エンジニアとも意欲的に対話しようという心構えを持った方が望ましいと考えています。

エンジニアの採用についても、自分の作るプロダクトが持つビジネス的なアプリケーションとしての意味に関心を持ち、常に世の中に対する価値との紐付けができている人材を求めています。

藤岡:どこかで常にそういう問題意識や原点を持っている人ということですね。御社で働く意義に直結する部分かもしれません。

「新しい業態」への参画は、自らのマーケットバリューを高める機会

藤岡:これから御社に参画する魅力はどこにあるとお考えですか?

椎橋:先ほど「新しい業態」と言いましたが、「つなぐ」という私たちの思考をそのまま体現するような職業がまだ世の中にはないと思うのです。そういう意味で、「まだ世の中にないプロジェクトを作っていきたい」というチャレンジはどこよりもできると思いますし、テクノロジーとビジネスを繋ぐプロフェッショナルになりたい方であれば、Laboro.AIは最もそれに近い機会を提供できる会社なのではないでしょうか。

藤岡:AIスタートアップと言われる企業の多くは自社プロダクトの展開に注力しており、既存産業の課題に取り組もうとしている企業は多くないかもしれませんね。

椎橋:中期的に考えたとき、自社プロダクトに関してだけでなく、あらゆる業界ビジネスにも造詣の深い人材は、そのマーケットバリューが非常に高いと思います。Laboro.AIを卒業してAIとビジネスをつなぐ人材を輩出したいというのは、会社の目指す姿のひとつでもあります。

そういう人材の先駆者になって行きたいというマインドを持っている方にとって、当社はマッチ度が高いと思います。

藤岡:本日は素敵なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。