引き返すアメリカと突き進む日本

アレン・マイナー氏(以下、マイナー):野中先生に質問したくなったんですけど……。

数十年前にジェイムズ・アベグレン(注:著書『日本の経営』を通して、企業別組合・終身雇用・年功制という日本的経営の特徴を初めて欧米に紹介した経営学者)が……。

野中郁次郎氏(以下、野中):はい。そうですね!

マイナー:日本のいろいろな企業を研究して洗い出した。伝統的な日本の会社では、カスタマー・ファースト(顧客第一主義)の考え方は常識的で、シェアホルダー(株主)は「二の次」……というのは大袈裟かもしれないけど、そこまで重視しない。むしろ、そこに関わる個人と社会との関係を、それこそアート&サイエンスで示そうとしていた。

一方で、アメリカでは、アカデミアを中心にビジネスがサイエンス化して効率化して……エコノミクスの本質である国富論(的な道徳)なんてどっかにいっちゃって……。GDP成長率のような数字で表せるものだけを好んで、資本家の富を増やすようになっていった。

2000年頃、僕が日本にきてベンチャー・キャピタルを始めたときに、ちょうど失われた10年が終わって、日本のいろいろな先生が、(日本の企業に対して)古い慣習を捨てさせて……アメリカ型のシェアホルダー中心の資本主義の方向に引っ張ろうとしていた。とにかく効率化を中心に……。私のような立場からすると、(アメリカ型の資本主義が)育った先にどれだけアメリカの社会を壊したかを知っていたから、(その方向には)すごく反対だった。

今は20年経って、日本の多くの経営者がアメリカナイズされちゃって……。アメリカの資本家中心の経営が正しいと思っている。逆に一方で、アメリカのビジネス・ラウンドテーブル(米国の主要企業が名を連ねる財界ロビー団体)が、ちょうど去年の夏に「(株主以外の)ステークホルダーを意識しないとダメだ」と言い始めた。

最近、若い日本人と関わっていても、やっぱりアメリカナイズされていると感じる。やっとアメリカやイギリスの経済学者が資本に走り過ぎたときの「落とし穴」に気付いて、これではいけないと思い始めたときに、日本では逆に……。おかしな話ですよね? 日本は、もともとの考え方に早く戻る必要があるんじゃないですか?

野中:わかります。

松岡正剛氏(以下、松岡):危ないんじゃないかな……。

マイナー:「老舗」を大事にする話もあまりなくなりました。日本は伝統的な経営の考え方が正しかったんだと早く自覚して欲しくて仕方ない……。

サイエンスであると同時にアートである

野中:非常に難しい問題です。端的に言うと「なぜ物語か?」という視点が大事です。例えば、どんなテクノロジーを、どういう物語で、アドベンチャーするか、ですね。

だけど、それをアクションに繋げるときには行動規範が必要です。行動規範というのは、人間の生き方。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で言ったこと(注:資本主義を発展させた原動力は、西洋の宗教観に基づく禁欲と合理化だと説明した)のモデルは、ベンジャミン・フランクリン(注:アメリカ合衆国建国の父のひとり)です。

彼は、13の原則をやり抜いていくこと(注:「道徳的完全に到達する大胆で難儀な計画」の13の徳目を実践しようとした)を提示しました。資本主義において、あくまで人間の生き方、真っ当な生き方をやり抜いた後の、意図せざる結果として資本が蓄積された、ということを主張したわけです。

具体的に言うと、例えば、それに近いのは京セラの稲盛和夫さんのような経営者です。彼もコモングッドを掲げた。実際に稲盛フィロソフィーというのは78項目くらいあって、それは全部、生き方なんですね。

マイナー:うんうん、そうですね。

野中:そして、稲盛経営では、「アメーバ」というシステムで組織が運営されます。(アメーバでは)チームベースで考えるんですね。しかし、その実践のディシプリン(規律)が78項目ありますから……。

さらに、コモングッドを追求するために真理へ到達しようというようなことを一方で言いながら、時間あたりの付加価値生産性という非常に厳しい、それ自体を追求すれば「ブラック企業」になるような厳しい数値目標も、同時に要求しているわけです。

しかも、その(数値的)成果は、まったく(個人の)金銭的報酬に反映しないんですね。サラリーやボーナスに反映しない。あくまでリーダーに対するフィードバックの参照点としての付加価値生産性の数値であり、内省させて成長を促すための人材開発の仕組みなんですね。

と、言うようなことをまとめて考えてみると、結論的には、利他主義と利益を、同時に文脈に応じて成立させることこそが「ウィズダム(知恵)」だと思うんです。まさに、サイエンスであると同時にアートである。このふたつを巧みに動態的に両立させ、それを実践し続けること。

京セラの話は、日本的経営のある種のウィズダムだと思います。利他と利益をどうバランスさせるかを考え抜いたシステムが組織に埋め込まれているんですね。こういうところに日本のおもしろさがあるんじゃないか、と。

「もの」は精神を現す言葉

マイナー:(経営者は)ストーリーテリングで仲間を集めるし、お客さんも集めるし、経営者に最も期待される能力は、いかに自分たちの物語を作り上げられるかだと思う。本当に良いストーリーテラーはそこをすごく意識して、何をどう表現するかをとても大事にしている。

松岡:付け加えると、物語の「もの」って言うところにも日本の本質が隠れています。thingsとかmatterとかも「物」なんですが、「もの」には、spiritという意味もあるんです。「物々しい」とか「ものすごい」の「もの」は、物質じゃなくて精神なんですね。

それをcommodity(「役に立つもの」転じて「生活必需日用品」にも用いられる言葉)にして、かつ精神やウィズダムや利他主義にまで持ってくるの(が大切というの)は、その通りだと思うんですけど……。日本に、今それがあるかどうかはちょっと心配ですよね(笑)。

野中:難しいですかね……。

松岡:(マイナー氏を指して)心配されている方が当たっているように思います。

野中:だから、松岡さんは「二項同体」(が必要なのだ)と言いますよね。

松岡:はい、そうです。ずっと言ってます。

野中:「either / or(どちらか)」ではなく「both / and(両方)」だと。それはどこから出てくるのかというと、今此処の「now / here」の時点(と地点)で何をやるべきかを全身全霊で真っ当に向き合った対話や、それこそ「場」の中からですね、意味づけや価値づけなるものが起こってくると思うんですよ。それをやり続ける以外ないと思う。

松岡:そうでしょうね。

國領二郎氏(以下、國領):みなさま……本当に申し訳ないんだけど、自己紹介を一周しただけで、所定の時間が終わってしまいました……(笑)。

マイナー:200秒ルールは完全に無効になってしまった……。

(一同笑)

爆発する多様性

國領:みなさまの話の中で、「場」の他に繰り返し出てきたのは、nowという概念というか、時間の考え方ですね。時間について、村井さんや池上さんはどう思っているんだろう? どちらかというとシステムの方から考えてらっしゃると思うんですが……。データだけを考えると、蓄積している時間というのはあまり意識しないような気もするんですが……。

村井純氏(以下、村井):時間と、それから空間の量、スケール。それらは根本的に変わってきていると思います。先ほどインターネットが「地球を繋いでしまった」と言ったけど、これは、物理的には光の速度である133ミリセカンドで行って帰ってこられるってこと。全部が繋がっている可能性があるってこと。

そうすると、人と人との繋がりは、あらゆる人とあらゆるカタチで組み合わさる可能性がある。人間の力とか、それで何ができるかということとか、組み合わせはもう人類の数の組み合わせ分あるわけなのです。

先ほどから話が出ているような、ある「場」を作るとか、そこである人たちが繋がることの可能性は無限にある。だから、なんでもできるようにしておいたから、もう自由に、好きに、なんでもやってよ、というのが、インターネットを作った私たちの立場ですよ。

國領:もうすでに(インターネットは)そうなっちゃったからね。

村井:そう。これはスケールの問題なのね。

國領:はい。

村井:それから、時間の問題というのもあります。これは昔、松岡さんとも話したことがあるけれど、デジタルデータのエターナル・プリザベーション(永久保存)みたいな話。技術的にはかなりチャレンジができていて、いろいろな方法がある。ブロックチェーンもその一端なわけだけれど。

例えば、保険で考えると、生命保険のような保険のシステムは人間が生きている間のだいたい50年とかそんなスケールです。それを100年とか200年とかにしたときに、それをデータの正しさとして保証できるかというようなところが、だんだんできるような気がしているのです。

人間は、あらゆる意味での多様性があるわけです。人と人との繋がりに加えて、この組み合わせの多様さも加えると、その社会も多様だし、企業の経営だって多様でしょう?

それがどういうインタラクションを起こして、どれくらい新しいものを生み出すかというと、このインパクトは、その多様性から生まれてくる非常に大きなものなわけです。おもしろいでしょう? そうすると大事なことはこの3つ。つまり多様性と、スケールと、それから、その時間の考え方。

これらをデジタル・テクノロジーが根本的に変えられるところにまで至っている。ビフォア・インターネットとアフター・インターネットでやっぱり大きく変わる。だから、「ぜんぜん新しいことが起こり得るんだ」ということです。

「そこに向かってどうするか?」という方向に、もちろん「日本」というテーマも含めて、今日の議論が進んで行けば、非常におもしろいなと思いました。

あらゆる多様な結びつきが出てきたときに、「これはどうすればいいのかな?」と考えるのは、いろいろな分野でありますよね。教育から、その人間の考え方から、組織の経営から、学校の在り方から、全部あると思うのですが、それらがどうなって行くかを考えていくとおもしろいですよね。というわけで、私はいつも学生に「好きなことをやれ」って言うんだけれど(笑)。

(一同笑)

村井:要するに、「もうダメだ!」と止めていた要因が、いろいろなところで外れている。このことが、それぞれの人間が積み重ねてきた「知」に対してどんな影響を与えていくのかというのはおもしろいよね。

國領:なるほど。

人間のスケールを超える

池上高志氏(以下、池上):僕は、僭越だけど、ストーリーテリングとかいらないなと思います。2008年以降、誰もストーリーとか聞きたくないってなった。人の想像を超えた爆発的なデータが見せる現象が起きているし、もう誰かの考えとかストーリーとかなんて聞きたくない。そういう思いが(世の中に)蔓延していると思う。

やっぱり、スケールとして扱われているのが、“人間のスケール”なんですよね。例えば、人間の場合は何もしなくても、生まれたら100年くらい生きているじゃないですか? そんなロボットは絶対にできなくて…………。1年か2年で壊れちゃったりしますし、メンテも(必要と)する。

「どうやって100年生きるロボットを作るか?」というようなことを考えることが重要だと思うんですね。アメリカのLong NowっていうFoundationでは、1万年動き続ける時計をどうやって作るか(ということをやっている)。そういうのって、今の技術ではできないんですよ。

1万年メンテしなくても動き続ける時計や、1万年建っている建築物をどう作ったらいいか。それの考えがおもしろいのは、「自分が生きている間だけうまくいけばいいや」というような考えではなくて、人の知覚のスケールを超えている。そういうのがないとサイエンスもアートも何もない。もうちょっと人間のスケールをぶち壊したいというのが僕の主眼なので、それで(人にわかる)ストーリーとかいらないんですよ。

人のスケールをどうやって越えて行くかということを考えてやっている。だから逆に人間がボトルネックなんですよね。

意識と無意識

野中:とてもわかります。ただ、その時間なんですが、我々は主観的時間で生きていて、客観的時間では生きてないでしょうね。

池上:そうですね。

野中:だから、客観的時間というか普遍的な時間というものが生まれてくるのには、実は、主観的時間のやりとりが必要ですよね。

池上:はい。

野中:そうすると、結局、相手に徹底的に共感し合いながら、その全身全霊のプロセスのなかで、互いに物語で語る以外にはないんだろうと思うんですね。したがって、対話の中で、主観と主観のぶつかり合いの中から、自己と他者の感覚のずれや共通点を認識し、他方で「そうとしかいえない」本質という客観的時間や空間が生まれてくるんではないでしょうか……。

國領:それが「相互主観性」ですね。

野中:それ、です。「我々の主観」です。

池上:僕は、学生の時に廣松渉(注:東大名誉教授。主観と客観の二項対立を止揚する哲学を展開した)が、『世界の共同主観的存在構造』という本を書いたばかりで、一生懸命に講義を聞いてたが、よくわからなかった(笑)。彼の話は、みんなが共通の世界を認識するための装置。

時間は1つではなくて、たしかに、それぞれの主観で作られるので、客観的な時間は人と人の語りからしか生まれないかもしれない。そのことは非常に重要で……。だけれども、やっぱり、どうしてもストーリーテリングは意識の問題に思えちゃって、普遍性が獲得されない気がします。

無意識を耕したいんですよ。「無意識をいかに作るか?」の方が、意識よりはるかに重要な問題で……。だから、ストーリーって言った瞬間に、言語化されて意識され認識されたりするものになる。けれども、それよりも遥かに大きなカタチで、(意識の)下にある無意識というものがあって……。

どんなに「人工的な意識」を持つシステムでも、無意識というものを作らない限り、それはやっぱり「表層的な言葉遊び」になっちゃうと思うんですよ。(無意識を扱えない)今のAIもそうだけど……。だから「無意識をいかに作るか?」について考えることが、ひいては客観的な時間をつくることと等価だと思っています。

野中:現象学で言う受動的総合(注:フッサールの発生的現象学では、母子関係を起源として、無意識のうちに人間が他者に向き合い、身体感覚を共感し、他者の感覚に没入するときに、主観と客観を超えた相互主観性が生まれるとされる)というのは……。

池上:はい、そうですよね。

野中:無意識なんですよね。むしろ現象学が初めて無意識を問題化したわけですね。では、(その無意識から何かしらの「意味」を見出そうとすれば)その次には、無意識をいかに意識的に変換するかということが大事になってくる。そのプロセスがまさに「場」作りなんですね。お互いに、ちょうど今のようにね、全身全霊で向き合う中から共感が生まれて……。それをさらに普遍化しようというときには、より多くの人間の間で相互主観を作っていくということが大切になってくる。

池上:そこに人間だけじゃなくて、もっとミクロからマクロにつながる全部を入れていけるのならば、僕としては大賛成なんです。Biosphere(生物圏)として考えたい。人間だけじゃなくて……。

松岡:何をオーダーパラメーター(注:相転移が起こる際、相と相を区別する量的な指標)とするのかの違いだと思うね。

マイナー:無意識をそのまま受け止めるというのは、 Siddhartha(注:ゴータマ・シッダルタ=釈迦)の閃きのenlightenmentそのものですよね。過去・現在・未来と、我々は世界を理解するためにやっぱりストーリーを作っていくんだけど……。

國領:池上さんの生命の定義は「所有されないもの」なんですよね。だから、所有されない生命の、ALife(人工生命)にこだわっている。やっぱりlifeなんですよね? でも、lifeは(そこに「意味」を見出そうとすれば)物語そのものなんじゃないのかしら?

池上:物語としても、それは物語をいかに超えていけるのか、ということが重要なところです。

松岡:とにかく、外挿的(既知の数値を基に予測すること)な物語はもう嫌なんだよね?

池上:そうです。外挿されないようなものをどう生み出せるかというところに……。南方熊楠(注:粘菌の研究で世界的に有名な生物学者)が言ったように、人間には接近できない、どうしてもたどり着けない「不思議」はあると思うんです。

松岡:「萃点(注:すいてん。南方が提唱したネットワークのハブとなる中心点)」ってやつだね。

池上:そいつの影でもいいから、どうやってその萃点に迫れるか、影でもいいから踏もうとする、それが科学者の目指す境地でしょう。

松岡:ただね、おそらく無意識は、仏教が言ってる無意識も、フロイトが言ってる無意識もですね。フッサールや彼らが言い出したことも、それからマクルハーンが活版印刷によって無意識が誕生したと言うようなことも、ちょっと終わっているような気がしている。

むしろ僕は、インターネットがここまで主語を持たないで作ってきたこの世界が、それを無意識と呼ぶかどうかわからないけれども、何か生み出しつつあるじゃない? それをちゃんと研究したほうがいいような気がする。

池上:だから、僕はそれを見つけたいんですよ!

國領:なので、それはその中での物語ということに……。

佐野弘明氏(以下、佐野):そこに意識が……。無意識から意識にいくということなのかな。

松岡:まあね。そういうことが起こるでしょうね。

「Quality Of Network」とはなにか?

松田修一氏(以下、松田):この話は、「最初から枠をはめて考えるな」という基本的な教訓にも通じますよね。

そして、「Quality Of Network」を考えて行くと、やはりどうしても質の問題というものに帰ってくる。質を高めるというのは、そこに集まっている人の「感動の共有」じゃないかと思うんですね。例えば、「ベンチャーってなんのためにあるんですか?」と言ったときに、金儲けですか……と。違うんじゃないか。僕は、何かを達成したときのみんなの喜びがエネルギーになってるんだろうという気がしてるんですね。

野中:母子の関係での無意識の共感は自然と心身一体になりますが、言葉を覚え自我が確立した成人で在りながら、心身一体になれるかというと……難しいですよね。そうなるためには徹底して知的コンバット(戦闘)をやり抜く以外にはない。無心になるまで。そこまでやり抜かないと新しい意味は出てこない。

無心というのは、自己を超えようという努力なので……。自己を超えるということがあるから、相互主観というものも成立するわけです。つまり、これが人間の本質じゃないか、と。

松岡:そうですね。その通りだと思います。でも、一方で、AIが自己代入を自動的にし始めている。我々は自己言及性、外側になっている参照系も全部自己代入化できる。

かつて、自己というものは、不安や恐れというものが持っていて……。それは、神々や仏に叱られるとかいろいろなことがあったりね。自己は、シュリンクしながら柔らかい膜を持っていたわけですね。だから、その替わりにトラウマになったり傷ついたり、それから相手を恨んだり、下意識や無意識の中で憎悪のようなものが起こったりしますけども……。

それがなんとか……善し悪しは別として保持していた、その柔らかい保守的な自己というものを機械が突破したときに、無限の自己代入性が仮にデジタルに起こったとしたときに、それをシンギュラリティと呼ぶかどうかはよく解りませんけどね……。そのときに、おそらく、self(自分自身)というような概念も、新しいものになると思う。

consciousness(意識)というのもちょっと変わると思いますね。そうなると無意識も変わっちゃうので……。こんなこと言ったってしょうがないんだけど……(笑)。けれども、相当なことが出てくるでしょうね。それを「Quality Of Network」と言うんだから、武田さんたちが一番大変だと……(笑)。

(一同笑)

國領:ありがとうございます。ちょっと(予定時間を)30分超えてしまって、もう前菜だけで終わっちゃった感じではありますが、(この議論を)結論付けるのは難しい……。いろいろなパラドキシカルなことも出てきましたし、驚くほど共通しているところもあったように思います。

ちょっと用語がいろいろ散らばっているので、同じことを違う言葉で語っていたり、同じ言葉で違うことを語っていたり、非常に危険な……。でもこれがいいんですね、きっと。

野中:いいんじゃないですか(笑)。

國領:この辺で終わっていいのかしら……えっ?

村井:……お腹すいた(笑)。

國領:お腹がすいた、という……(笑)。

(一同笑)

松田:一番、根元的なことだよね(笑)。

國領:はい。大変至らぬ司会で失礼しましたが、本当にみなさまのご協力ありがとうございました。これでこの場を終わらせていただきます。

(一同拍手)