「原因と結果」が変えるもの

國領二郎氏(以下、國領)それでは、松田さん。お願いします。

松田修一氏(以下、松田):まず、武田さんのお話で、会社のロゴが船だということと、インターネットとの出逢いでこのビジネスが始まっているということ、このふたつを(私との関連の)取っ掛かりにして話したいと思うんですが……。

アレン・マイナー氏(以下、マイナー):帰ってこない船ですね(笑)。

松田:船というのは、ルカ・パチョーリ(注:「近代会計学の父」とされるイタリアの数学者)の時代の、実は簿記や会計の原点なんですね。イタリアを……世界を……回ってお金を集め、船であちこち貿易しながら稼ぎを出して、みなさんにお返しするか、あるいは途中で沈没しちゃって帰ってこないかっていう……。

僕も、すばらしい会計の先生が早稲田の商学部にいたもんですから、それに触発されて公認会計士をやってたんですが、クオンの船のマークと会計の原点は重なっているということに先ほど気付きました。

それから僕は、修士論文が「電子計算機による監査証跡の崩壊」だったんですが、コンピュータによって監査のプロセスも変わるというテーマが、ちょうど僕たちの学生時代にずいぶん議論されていまして……。コンピュータがインターネットに繋がっていったわけですので、これも武田さんのビジネスのスタートと重なっているのかな、と。

会計というものは、突き詰めると、企業活動をした結果のデータを会計原則というルールに基づいて、どのように整理して開示するか、だけのことなんですね。そこで僕が「会計は嫌だなぁ」と思ったのは、原因が正せないということだったんです。

考えてみますと、会計はすべての経営活動に関係する。しかし、企業の研究開発はいつ成功するかどうかもわからないし、時間差だってものすごくある。財務の話であれば、いま資金がなきゃ会社が倒れちゃうし、同じ決算書の中の会計科目でも見方次第でずいぶん違ってくるぞ、というようなことを勉強しながら実務を行っていました。

「原因と結果」ということを重視しながら監査をやってましたので、大企業よりもベンチャー企業に魅力を感じていました。というのも、大会社の監査の場合は、結果から重要な原因を発見して提言したとしても、自分の言ったことが会社の戦略上反映されるということはほとんどない。しかしスモール・ユニットのベンチャー企業は、言ったことがストレートに、そもそも企業のトップと直接話すことができますので、戦略にもすぐに反映される。

僕は、このようにして結果から原因を見つけて発言することで、会社の具体的な変化になって現れてくる喜びを調査しながら味わった。

武田さんが1996年に起業されたあたりは、第2次ベンチャーのブームが起きた時期。ちょうどその頃「ベンチャー学会」を清成忠男先生(注:日本ベンチャー学会特別顧問で「ベンチャー・ビジネス」という言葉・概念を世に送り出したことで知られる)を中心に立ち上げたんです。それ以降テクノロジー系の企業がどんどん世に出てくるようになるわけです。

ですから、その頃から始まった武田さんとの関係も、20年とか25年とかになるわけです。思い返すと、会計士になって、ベンチャーというのが大事だと思うようになって、行動した30歳ごろから付き合ってきた会社は、30年とか45年とかね。もう20年なんていうのは最近しょっちゅうであります。非常に長い期間をかけたネットワーク。その信頼の関係がずっと続いている。

最近、大学を辞めたあと、そのようなことに妙に感動を覚えるようになりました。これもやっぱりネットワークの質の問題に尽きるのだと思います。質を共有する何かがずっと続いているんだと思うんです。

「透明性とカオス」のパラドックス

國領:なるほど。とても興味深くて自分の研究に引き寄せて考えてしまいました。

今、非常に対照的なことが起こっていて、片側で、私がよく使っている言葉はtraceability(追跡可能性)で、「原因と結果」がはっきりとわかる。発言の影響力、誰の発言がどういう経路でどう影響したかといったプロセスもテクノロジーのおかげで非常によく見えるようになっている。ですからaccountability(説明責任)みたいなものの必要性が非常に高まってきている。

そして、もう片側で、先ほどの池上さんのお話のように、爆発的にコンピュータの空間が広がったことによって、ネットワークそのものがとてもchaotic (不確実な混沌)になってきていて、今どき人工生命も人工知能もその「原因と結果」のプロセスをとても説明できないというか、そもそも人間が理解可能なカタチで説明なんかできっこないじゃんっていうような感じになってきていて……。この両極端の話が同時進行しているっていう時代じゃないかと思うんですね。

松田:そうですね。それは、個と個の影響力なのか……。先ほどから「場」っていう言葉がずいぶん出ているわけですけど、それによるものなのかもしれないですね。

國領:ありがとうございました。

未知と衝突するとき

國領:それでは松岡さんお願いします。

松岡正剛氏(以下、松岡):私は編集工学というのをやってきました。工学、エンジニアリングというのは特にご説明する必要はないと思いますが、編集、エディティングというのは、新聞とか雑誌とかテレビだとか映画だとか、情報がそこにあるストリームを持ったりシナリオを持ったりコンテクスト(文脈)を持ったりしているときに、さらに、これをどのようにQualityとして魅せればいいのか……。

例えば、黒澤明は「映画にとって一番重要なのは編集である」と言ったり、亡くなった平尾誠二というラグビーの日本を代表する男は「ラグビーというのはエディティングである」というようなことを言ったりしているけれども。それってなんなのかということをずっとやってきているわけですね。

遡ってみると、生命、シアノバクテリアが海底でできて、異常な条件の中で光合成をやって、地球にまったく無かった酸素圏というのを作って……。その中で生物が多様な進化をしていったときに、いったい何をエディティングしたのかというのが、私が考えてきたことのスタートなんです。

おそらく最初はコンテクスト・フリーな状態を作りながら、コンテクスト・ディペンドに文脈をだんだん強くしていきながら、生物の多様性を維持してきたんだろうけれども……。

そこで編集というのは、例えばコーディングとその組み合わせとコピーといった、「それ」から「それ」への伝達だけではないものが、生命の本来の行為の中にあったのではないか、と。

今風に言うと、compile(人間が扱うプログラムから機械が直接扱うプログラムへの変換)とかcodify(体系化)だけではない、エディティングということが生命の本質の中に潜んでいて、それが例えば、子ども同士が「似てるネ……!」とかね。「ピンときた」だとか「きれいだね」だとか。小学校の頃にかわいい子とそうじゃない自分の好きな子が分かれてしまうような……(いろいろな)ことを起こしている。

(これをネットワークに関連させて)言い換えてみると、今までネットワークというのは、点と点を結ぶ線だというところからずっときたと思います。

さっき武田さんが言っていた船で例えても、船の港もそうだよね。港はportというわけだけど、portという言葉が、reportだとかimportだとかimportantだとか、そういう言葉になってきた。つまり、常に「港、港」で重要なことが起こってきたし、重要な概念が生まれたというのは言語史を見ていてもたくさんある。

しかし、私は、ネットワークというのはそれだけではないと睨んでいる。アイスランドにギャオ(「裂け目」)という地形があるように、割れ目がそのままネットワークになるとか、あるいは脳神経系の自乗的なネットワークとかね。

それはホートン(注:ロバート・エルマー・ホートン。アメリカの水文学者で、経験則に基づく統計によって、1本の河が生み出す支流の平均値がおよそ4になることを明らかにした)の言ったようなネットワーク型になる。例えば、こういう水の中にある充電された電気をガバッとやれば確実に自乗型になるわけですよね。

そのように、ある充電された強力なエネルギーが、異質な……未知な領域に向かってぶつかって行ったときに、そこでリヒテンベルク図形(注:放電の跡を可視化すると樹状や稲妻のように見えるフラクタルの特性をもった自然現象)と呼ばれているようなパターン、いわゆるネットワークを作っていく。

これを活用している編集と文化の歴史、文明の歴史というのがあるんじゃないかというのが、つまり私のずっとやってきたことなわけです。

量を質に転換する装置

松岡:最近、100冊目の本を出しました。『編集力』という本なんですけれども、その中でも、今までの思想や科学といったもの、ロジックだとか三段論法だとか確率的な結論に導いているだとか言われているものが、実はエディティングの仕組みの中で作られているということが非常に多いということを書きました。

編集力 千夜千冊エディション (角川ソフィア文庫)

その中で、今日もすでにいろいろなお話が出ていますが、ある量がある質に転換する、先ほど池上さんもそのことを「相転移」のお話で出されましたが……。そのときにいったい何が起こっているかというのは、僕の編集の本質的な大問題なんですね。ある量に達して定速数に達したりすると爆発したり……。

例えば、星の一生は、最初は水素とかヘリウムからできてどんどん鉄属に……周期表の第3表にきて、鉄属がくると臨界値に達してそこで爆発するか……そうするとノヴァ(超新星)になります。それか、赤色矮星からブラックホールになる。

そこに何かがあるのは確実だし、光優位の物質の世界が物質優位の光の世界に切り替わる。これは南部陽一郎以下ヒッグス粒子までずっと「対称性のスポンティニアス(自発的)な破れ」と呼ばれていますが、そこにあるのは事実なんです。

じゃあ、量がある段階にきて質に転換したときに、なぜそれを質と、Qualityと呼ばざるを得ないのか。クオンの大事なところは、それをQualityと呼んだところにポイントがあるわけなので、じゃあそれってなんなのかというのをやっぱり編集的に明らかにしたいと最近は特に思ってますね。

そのためには、ジェノタイプ(genotype:遺伝子の基本構成)、つまり、こちらは遺伝子的にコーディングで説明できるわけですね。そうではないフェノタイプ(phenotype:劣性と優性の遺伝子の組み合わせによって表現される形質)もある。

それで、最近はエピジェネティクス(epigenetics:個々の遺伝子の発現には「後付け」の生物情報による変化がある)というのが出てきたので、やっと追い付いてきたかというか、「いいぞ、いいぞ」と思っていますけれども……。

あれはコーディングの仕組みだけじゃないんですよ。それ自体の動きとか振る舞いとかがある群になって、ある量になったときに突然それがあるQualityというか、パターンに見える。そういうフェノタイプのことをもうちょっとやらないとまずいなということを感じています。

ということは、ベイズ統計とか確率だけで、今まで金融から社会まで、場合によっては生物学やあるいはコンピュータやそういうものまでが議論されてきたけれども、そうではなくて、ある量をわざと……(笑)。それこそ、クオンのような、ある一定の領域に量をガーッと入れていって質に転換させるような装置がね。こういうものがおそらく統計学とは別に必要になってきているなと思っています。そういう意味では、武田さんが言っている「場」というものがどうも重要だろう、と。

「少数なれど熟したり」

松岡:あとちょっとだけ加えますけれども、それについて私がずっと考えてきたことは、やっぱり日本ということなんですね。例えば、日本の神々が一神教的なロジックではなくて、多神多物型で八百万(やおよろず)の……つまり主語を持てないで、常在もしていない……いつも動いているような動的な状態にある。

お正月もそうでしたけれども、その神を呼んで、それから帰しちゃう。帰っていきますから、その間だけが「松の内」なんですけれども……。

そういうある一定の時間の中で領域を区切りながら、ある種の情報の強烈なことを起こしていったときに、量から質への転換が起こるとすれば、日本のある種の文化の中の仕組みに「結界」と呼ばれたりしてきたものですね。

例えば、お能のように何も無いところに楽器を持ってきて……。あれは全部チューニングを変えてあるわけですね。小鼓は濡らさないといい音が出ないし、大鼓は焙じて乾かさないといい音が出なくて、オーケストラの第1バイオリンのようにはコードが一定じゃないわけですね。だから、「打ち合わせ」と言ってその場で何かを作っていくわけですけれども……。

そのような、何か閉じた「場」の中に情報を放り込んで、インキュベートしてもいいし、いろいろなランダムな動きを見てもいいんだけれども、その中でジェノタイプ以外のフェノタイプができるところをスッとすくって、Qualityに展開していくような方法があるのではないか、と。

おそらく今は、ここから先はあとの議論でもいいんですが、通貨とか非常に変わりにくいもので世界史というのを作ってきたけれども……。ブロックチェーン以降、もうちょっとジェノタイプ型ではない通貨、例えば通貨に時計がくっついてるとかですね。いじり過ぎたら通貨力が落ちていくとか、減衰していくとか……。

そういうものまで考えていくと、『Quality Of Network』の未来というのは、本来からすればというか、(クオン社の取締役を指して)野望さえあれば、新しい世界の枠組みを変えるようなものにはなっていくだろうと思います。

私のモットーはずっとフリードリヒ・ガウス(注:近代数学のあらゆる分野に影響を残したとされる19世紀最大の数学者)の言葉なんですが、それは「少数なれど熟したり(pauca sed matura)」というものです。少なめに見ない限りは新しい歴史的展望というか世界というのは出ないのではないかな、と。それは、非ユークリッド幾何学を作ったガウスが最期に残した言葉なんですけども。そんな感じがしております。

國領:ありがとうございます。量を質に「相転移」させる装置……。

松岡:そうそう。そういうものが必要になってきてるな、と。それがALife(人工生命)のようなものかAIのようなものか、あるいは限定的な地域通貨のようなものか、人間の意識のようなものか、漫画のようなものか。いろいろですね。だけどそれがあったほうがいいだろう、と。

國領:ありがとうございます。

人の顔をした経営戦略

國領:それでは野中さんよろしくお願いします。

野中郁次郎氏(以下、野中):私の分野は経営学です。まあ言ってみれば、理論化が一番遅れている領域かもしれないですが……(笑)。今、問題視してやっているのは、戦略論というのがありまして、いわゆるストラテジーです。

伝統的に経営学もサイエンスを志向しているので、それを徹底化しているのが経済学で……。典型的にマイケル・ポーターや、あるいはゲーム理論とかが有名ですね。

それに対して、ちょっと違うんじゃないのか、本来は「アート&サイエンス」なんじゃないのかという観点から、我々は、戦略論を、もっと人間の顔をしたヒューマナイジング・ストラテジーとして考えているわけなんですね。

昨年(2019年)の7月1日~2日に、エジンバラでカリフォルニア大学バークレー校のデイビッド・ティース(注:ダイナミック・ケイパビリティの提唱者)とか、イギリスのオックスフォード・ビジネススクールのジョン・ケイ(注:新しい企業理論を提唱したエコノミスト)とか、ニーアル・ファーガソン(注:金融史で著名な歴史学者)とかが集まってね。これからの資本主義は新しい重商主義を生み出さなきゃいけない、という『新啓蒙会議』に参加してきました。

あえてエジンバラという地で議論したのは、アダム・スミスのパンミュアハウス(注:亡くなる前の12年間を過ごした場所)があるからです。資本主義の父である、彼の言っている『国富論』が行き過ぎたから株主資本主義になっちゃったのではないかという問題提起がされたわけです。

ただ、実はアダム・スミスは、『国富論』の前に『道徳感情論』というのを書いていて。結局、シンパシーと彼は言っていますが……「同感という倫理をベースにして初めて、マーケットの自由競争のメカニズムが機能するんだ」とちゃんと言っていたわけですね。でも、現代、この側面が忘れられているね、と。

だから「新しい意味でのenlightenment(注:エンライトメントは、啓発・啓蒙の意。また、18世紀のヨーロッパに起こった合理主義的啓蒙運動のことを指すこともある)を発信したい」というのが、このカンファレンスの主旨だったわけです……。

結論は、株主利益最大化を否定し、これからは顧客第一主義で、「株主と向き合うよりも顧客と向き合え」と。まさに環境変化が激しいデジタル時代で、顧客変化に対応するダイナミック・ケイパビリティ(注:変化対応のための自己変革する組織能力)、あるいは最近では、アジャイル・マネジメント(注:顧客との協調により漸進的反復的に迅速にプロジェクトを進行させる手法)とかが重要になるんではないかとの提言がされました。

また、ヒューマン・リソース(人的資源)が提唱されてきましたが、「人間はリソースじゃない」と。(人間は)あくまでリソースを生み出す主体であって、(ヒューマン・リソースとは)従業員のディグニティ(尊厳)を復権させなきゃいけないんじゃないか、と。

それと同時に、他者へのシンパシーと言いますかね。同感というか、共感というか、それを大事にしたマネジメントを考えようじゃないかということで一致しました。ですので、我々は今、このストラテジーというものをヒューマナイジングするというのは、具体的にどういうことかという研究をやっております。

「知識」から「知恵」へ

野中:かつての日本的経営は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という時代があったんですが……。今は、世界ではジャパンはあんまり注目されていないですね(笑)。

まさに我々の日本的経営が劣化した原因は、オーバー・アナリシス、オーバー・コンプライアンス、オーバー・プランニングという、日常の過剰な数値化。フッサールが『危機書』(注:エトムント・フッサール著『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の通称)で警鐘を鳴らしたような現象が再び起こっているなかで、どのように人間性とダイナミックなバランスを取るかということです。

数式による量の世界。いわゆるサイエンスは「アウトサイド・イン」ですよね。こうした「いつでも・どこでも・誰にでも」ではなくて、実は経験の質の世界、「今・此処・私にだけ」という、まさに主観的なアートの世界こそがあらゆる価値づくりの起点になっているわけです。この「インサイド・アウト」と「アウトサイド・イン」というのを、ダイナミックにバランスさせる経営学を作ろうではないかと考えております。

かつて出版した『The Knowledge Creating Company(知識創造企業)』という本では、いわゆるアート&サイエンス、あるいは暗黙知・形式知のダイナミック・スパイラルによる新しい価値創造という命題をやったんですが……。

The Knowledge-Creating Company: How Japanese Companies Create the Dynamics of Innovation

ただ、今はそこからさらに発展して「ナレッジ(知識)」から「ウィズダム(知恵)」だと。まさに現実の変転とする世界の中では、かつてのスタティック・アナリシス(経済学的分析)では、機能しなくなります。

最近出版した、『The Wise Company』(ハーバードビジネススクール教授竹内弘高との共著)では、ダイナミックな世界において、今・ここ、つまりこの只中で、過去・現在・未来、いわゆる幅のある現在を生きぬく企業とは何かを提言しました。そのような経営では絶えず本質を追求し続けるという、ある種の職人道が重要になります……。

The Wise Company: How Companies Create Continuous Innovation

それも個人レベルだけではなくて、マネジメントというのは集合知を創る必要がありますので、共感がベースになって、そこから、個人、集団、組織、そして環境を含むレベルにおける、アブダクション(仮説生成)、ディダクション(演繹法)、インダクション(帰納法)という、知の方法論がすべて含まれるSECIモデル(暗黙知と形式知の転換からなる4つのフェーズをスパイラルに回転することで、知識を組織的に創造するマネジメントのフレームワーク)を展開してやってきたわけであります。

組織的な知識創造ができる組織には、第1にコモングッド(公益)というパーパス(存在意義)があります。2番目が共感、相互主観性の「場」が確立されている。3番目が、まさに(今日のテーマと隣接する)自律分散系と言いますか、いわゆるチームやプロジェクトベースのマネジメントが行われている。コモングッドと共感と自律分散系、この3つが組織としてのベースとなる、知の創造プロセスをどうやってリーダーがやり抜くか。

変化の真只中で知を創り続ける、集合知を創り続けるリーダーシップとはなんであるか、とつきつめていくと、アリストテレスのフロネシス(実践知)に行き着きます。この実践知のリーダーシップが、やっぱりキーになるのではないか、と。

そのフロネティック・リーダー(実践的な知恵を有するリーダー)が備えるべき能力の1つが、善い目的を追求する。2番目に、現実から本質を直観する。3番目に、共感の場を作る。4番目にその本質を物語る。そして5番目にまさにその物語を実現する。そこにはポリティカル・プロセスも含みます。そして最終的には、それを組織の知識として自律分散して育成するという6つ目の条件を出しまして……。一応、エコノミストに反旗を翻そうと……(笑)。

松岡:ずっと……ずっと反旗を翻してる(笑)。

(一同笑)

野中:極めて苦戦をしながらですね(笑)。いかにアート&サイエンスというものを、コレクティブ(集団的)にダイナミックなバランスを取りながら創造できるか、ということなんです。結局、戦略には、経営者の、そして企業としての「生き方」が現れるのだ、と思います。

そして、戦略の本質というのは、1つはプロット、筋立てがあることです。もう1つはスクリプト、要するに「その筋立てをどう実行するか」という行動指針が組織に徹底的に共有されていることです。この2つを確認しながら、「物語アプローチということが、最もヒューマナイジング・ストラテジーが実行されるのではなかろうか」ということを今やっている。未だに結論は出ないのですが(笑)。そういうことです。

國領:ありがとうございます。