インドで女性差別的な風習に直面し、社会を変えられない無力さを痛感

奥田浩美氏(以下、奥田):私が今までどうやって事業をやってきたかという歩みを少しお話したいと思います。事業をやる前に、私は実はインドのムンバイ(大学)の社会福祉の修士を出ています。このころは、1年目は北から売られてくるような女の子たちの売春婦を収容する施設、8歳~12歳くらいの子たちを更生させるプログラムを担当していました。

2年目はマザーテレサの施設でした。1年目に私があまりにショックで倒れてしまって、「あなたは西洋側の価値観から来てるから、ちょっと楽なところに入れてあげましょう」ということで、2年目に配置換えになったんですけれども。それも私にとってはものすごく重荷でした。

なにも社会を変えられないまま、日本に戻ってきました。ここでの話をすると、本当に半日でも話せるんですけど、今日は時間が限られているので少し省いていきたいと思います。

ですが、私は実を言うと、今年の5月に30年ぶりにインドに行ったんです。なぜ30年も行かなかったかと言うと、実は30年前の25歳のころ、私はなんにも社会を変えられなかったし、なんの爪跡も残せなかったというふうに思っていました。

先進国から留学した私のような人間に……インドにはまだまだ女性に対するたくさんの差別の事柄がありました。例えば、結婚している状態で(夫である)男性が亡くなった場合、奥さんがお葬式の火の中に飛び込むという風習がまだ残っていました。サティー(注:ヒンドゥー社会における慣行で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をすること)と言います。先週もまたインドに行ってきたんですけれども、「表には出ていないけど(サティーは)まだあるんだよ」と言っていました。

なぜ火に飛び込まなきゃいけないかと言うと、まず女性は経済力がない。なので、結婚後に旦那さんが食べさせてあげているとしたら、旦那さんがいなくなったら、つまりフィーディング、餌を与える人がいなくなる。だから、一緒に死んでもらうというような風習が何百年と残っていて。いまだにあるんです。でも、そんなことを目の前に突きつけられて。

そのときに、「浩美は先進国から来ているから、こういう風習はやめさせられるような説得力を持った発言ができるはずだ」というふうに私のところに(相談に)来て。でも、私はそこでなにもできなかった。私の根底に、「社会も変えられない」「なんの変化の爪跡も残せない」という思いがコンプレックスとして残っていて、30年インドに帰れなかった。

30年ぶりにインドを再訪して気づけたこと

でも、これは実を言うと今年の5月なんですけれども、インドに帰ってみて、施設に行ったときに「あぁ」と思いました。「私はなにもできない」というふうに勝手に思い込んでいた。でも、この30年で自分がやったことを考えれば、あのころは火に飛び込む女の人を止められなかったけど、今の私はそれを機にたくさんの変化を社会にもたらしてきたんじゃないかということが、この瞬間にわかって。

ああ、私は若いころのなにもできない……女性は主に「あなたはこれもできないし」ということを言われがちです。あとは自分を責めがちです。実を言うと、私は男女の差というものはないと思っています。ないと思っていますが、社会が違います。社会がそう言いがちです。

そこを頭に入れると、私は人を救えなかったということを悔いても仕方がないなと思って。30年ぶりにやっと自分が前に(出て)行って、もっともっと社会を変えていこうというふうに思いました。

私はいつも、自分が生まれてきたこの体は何のためにあるんだろうということを常に常に考えています。それはおそらく私だけではなく、みなさんそれぞれが生まれてきて、これからいろんな経験をして、何のためにこの体があるのだろうと(思われると思います)。

私は今は4回起業していまして、いろいろな事業をやってきました。90年代はある意味、IT起業のカンファレンス、イベントサポートとして、来る事業、来る事業、ものすごい利益を出していまして。「奥田が歩いたあとは草1本生えない」というような(笑)。そんな時代も過ごしました。

かつイグジットというか、40億円くらいの企業価値を生み出して、私はそこを去ったんですけれども。そんな時代もあり、だけれども、そのあとも「(さまざまな事業を)やっている私の根底にあるものって何だろう」と思ったら、すべてにこの3つが共通していました。

人生におけるキーワードは「愛・希望・叡智」

とにかく根底に「愛」があること。そして、「希望」をもたらせること。でも、真ん中でサンドイッチになっているものが「叡智」です。つまり、私は愛と希望だけでいいんですけれども、世の中にちゃんとなにかを示すときには叡智というツール、武器が必要だったという意味で、私の心の中には愛と希望の間に叡智があるんだなぁと。

そう考えてみると、今までいろんなことをやってきたようで、テクノロジーで人々を幸せにしたいということも、愛と希望をもたらしている仕事ですし。いろんなプロジェクトを作っているのもこれが根底になっている。

ですので、私はこれ(愛と希望と叡智)ですけれども、みなさんがこういう単語として持つとしたら、自分の中にどんな単語があるんだろうということを一度考えてみると(いいかと思います)。おそらく人生はまっすぐには進んでいかないです。いろいろな寄り道をしながら、フラフラするんですけれども。その軸に何の単語があるのかというのは、考えてみるといいかと思います。

先ほどの3つの要素を考えながら、自分の使命を次々生み出しながら、私はいろいろな事業を作っているんですけれども。「自分の使命」と言ったときに、使命って(言葉が)大きすぎて、「私にそんな使命なんて」と思うかもしれませんが、生まれてきている以上、なんらかのちっちゃなものでも使命を抱えていると思っています。

自分のルーツをたどれば、必ずやりたいことが見つかる

私になりに見出してきた4つのポイントなんですけれども。まず自分がどんな時代に生まれたか。そして、自分がどんな場所で生きているか。あるいはどんな場所で生まれて生きてきたか。自分の周囲にどういう人がいるのか。自分が生まれてきたもともとのルーツは何なのか。これは、仮に「お母さんがわからないんです」というようなことも含めて(その人の)ルーツだと思います。

そう考えると、この写真の一番左側が私なんですけれども、これは屋久島の海岸で3歳のときに撮った写真なんです。本当に田舎の子で、3歳から6歳を屋久島で過ごしました。鹿児島県の屋久島で女の子として育つということは、教育も平等に受けられないかもしれないような社会の中で、生き残ってきて。

いろいろなチャンスをもらって、未来のドアを開けまくっていたときに、「あ、私はやはり女性として愛を持って希望を伝えていく存在なんだな」というふうに(思いました)。時代がまた、先ほど言った男女雇用機会均等法の1期生だったところもあり、こういうところ(田舎)に生まれて。でも、私の周りにはITの人たちがたくさんいて、この人たちと組んだら何ができるんだろうとか。

そして最後のルーツはと言うと、私の父も私の祖父も1回海外を目指して、いろいろな運命で日本に引き戻された人たちでした。私の祖父はやっぱり鹿児島で生まれて、昔植民地だった時代の朝鮮に渡り、そこで役人をしていたんですけれども。終戦で鹿児島に戻され、貧乏の中で父が生まれ、父も学校の校長としてインドまで行きながら、また(日本に)戻されというような。

あ、そっか、私はやはりどこか必ず海外とつながるルーツがあるんだとか。そういう思い込みでいいと思います。思い込みでいいので、自分がどんな時代に生まれて、どんな場所にいて、周りにどんな人がいるか。そして、ルーツは何かということを考えると、必ずみなさんがやりたいと思うような、根底から生まれてくるちっちゃな種は見つかると思います。

ビジネスの種は「時代・場所・人・ルーツ」から生まれる

ビジネスって、実はそういうふうに本人の心の中から生まれなくてもいいです。単純にデータを見たり分析したりして、「(世の中には)ここの部分が足りてませんね」というようなかたちでのビジネスの生み出し方もありますし、それが大きくなるケースも多いです。

ただ、今日こちらにいらっしゃっている方々で、まだなんにもビジネスの種がないよという方は、まず1回これ(時代・場所・人・ルーツについて考えること)をやってみてください。自分にどういうことが必要なのか。それが1つです。

私は、実際に先ほどからお話ししているとおり、今の時代の「社会課題の伝道師」だと思っています。つまり、ITのテクノロジーの世界の人たちにすごく囲まれているけれども、テクノロジーはどんどん先に先にいって。よく社会実装という言葉を使いますけれども、私は社会実装という言葉は大嫌いです。

「実装」って、テクノロジーオリエンテッドというか。(まず)テクノロジーがあって、それを社会に落としてあげるよというようなイメージが、私の中でどうしても拭い去れない。本当はもともとほしい世界があって、そこにテクノロジーを寄り添わせる。そういうかたちの製品が世の中にあふれていけばいいなぁと思っています。