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SDGs LIVE #1 持続可能な社会のための教育を考える(全5記事)

宮台真司氏・小島慶子氏・谷崎テトラ氏に学ぶ、「不安」にとらわれない生き方

2019年5月16日、EARTH JOURNALが主催するイベント「SDGs LIVE #1」が開催されました。国連が推奨しているSDGsをより多くの方に広めるために、 それぞれのジャンルの専門家を招き、 現状の問題点や実現に向けての課題について語り合います。第1回となる今回のイベントは、社会学者の宮台真司氏とエッセイストの小島慶子氏をゲストに招き、子育ての経験や専門分野の知見から、SDGsの目標4にあたる「質の高い教育」をベースに、これからの社会を支えるための教育についてディスカッションを開催しました。本パートでは、どのように不安を受容するかや、利他心を育む学びについて語りました。

「不安であってはならない」と言われるほど苦しいことはない

谷崎テトラ氏(以下、谷崎):そうなっていない理由は何なんですかね? なぜ、そうなっていないんですかね?

小島慶子氏(以下、小島):ねぇ。やっぱり不安じゃいけないからじゃないの? 私は不安障害という病気なんですけれども、もう10年以上、不安障害と二人三脚で。(横を指しながら)いつもここに不安障害がいるんです。

谷崎:いつも、絶えず不安がある。でも、多くの人がそうなんじゃないですか? 僕たちは不安によって生きている。だってSDGsに関しても、「地球環境やばいよ」って、いうことが……。

小島:限定的に説明すると、不安障害、全般性不安障害というのは、「理由のない絶え間のない不安感で、本当に生活が困難になる」ものなんです。それ(症状)はよくなったり悪くなったりする。今なんかは別に良いんですが、でも悪くなるときもあったりする。

谷崎:なるほど。

小島:さっきの不安の話に戻るけれども、やっぱり「不安であってはならない」と言われるから不安なんですね。

宮台真司氏(以下、宮台):そうです。だから不安を埋め合わせしようとしちゃうわけ。埋め合せる必要はないんですよ。

小島:そう。ブタさんたちも……。ブタって言うけど、やっぱり私のなかにもブタとクズとがいるの。

宮台:いないよ! 埋め合わせしてないじゃん。

小島:でも、いるのよ。だって、わかるんだもん。宮台さんがブタとかクズと言っている人の気持ちがわかるということは、シンクロしているわけ。私は宇宙人の気持ちはわからない。なぜかというと、私のなかに宇宙人はいないから。

だけど、やっぱりブタとかクズって言われる人たちの吐いている言葉を聞くと、腹が立つんだけどわかるんだよね。「いつかの私だったかもしれない」って思うの。だからやっぱり、私の不安と彼らの不安は通底していると思う。やっぱり「不安であってはならない」と言われることほど、苦しいことってないんですよ。

宮台:そう。

人の抑圧を減らし、ポテンシャルを高めるメッセージとは

小島:だから、「不安であってはならない」というメッセージが、どこからどのようなかたちで出されているのか、そのメッセージに抑圧されている人たちに、「不安でもいいんだよ。大丈夫。OK! 生きていける!」というメッセージを、どのようなかたちで与えるかのほうが大事な気がします。

宮台:それがまさに、フロイトの神経症の治療だったよね。つまり、不安には明確な原因がある。それを彼はトラウマと言ったけれども、そのトラウマがある以上、そういう症状が生じるのは当然なんだと理解することによって、不安から自由になるんです。

小島:教育もそうだと思うんだよね。「いい子であらねばなりません」じゃなくて、「残念ながら、がんばってもそこそこいい子にしかなれません。でも、そこそこいい子でも、あるいはあんまりいい子じゃなかったとしても、OKだよ」とか、「あなたの居場所はあるし、それでも生きていけるんだよ。人間ってそんな完璧なものじゃないから」というようなメッセージを与えるほうが、むしろその人の抑圧を減らして、ポテンシャルを高める気がする。

宮台:それがさっき申し上げた、つながることの効能なんですね。だから今、人類学のブームが20年続いているけれども、人類学の中心には、多視座主義(マルチパースペクティビズム)というものがあるんですね。

その本質は、例えば、森が見ているとか、空が見ているとか、ご先祖様が見ているといった、「何かに見られている」という感覚なんですね。アニミズムは、もともと精霊や魂は関係なくて、要はいろんなものが自分を見ている。

「見られている」と感じることで、1つの視座から離陸できるんです。例えば、不安だと思う視座がある。でも、不安だと思う自分を見る、別の視座がある。そうしたら、フロイトと同じで、別に不安を埋め合わせて否定する必要がない。不安な自分は、それはそれとする。

小島:マインドフルネスですね。

宮台:そうです。

不安になっても「自分は大丈夫」と思えるようになる方法

谷崎:アドラーとかは、「トラウマはない」と言っているじゃないですか。わりとそこに近いんですか?

宮台:アドラーは実は、モテない人だったんですね。そこは話すとややこしくなるんだけど。フロイトやユングは、絶えず愛人がいたんです。それはなぜかというと、要は相手が都合主義的に不安を埋め合わせるために貼り付けている、言葉のラベルを引き剥がさないといけない。引き剥がすと、ものすごく不安が生じるんですね。だから、クライアントである患者さんにとっては、すごく大きなチャレンジになる。

「いや大丈夫。あなたを愛しているから。あなたも私を愛しているだろう? だから安心して進みなさい」というのは、一般には「父親的な愛」=ラポールと言われているけど、本当は恋愛なんです。恋愛であるがゆえに委ねている。委ねているから、言葉のラベルを引き剥がされて不安になっても、自分は大丈夫と思える。

実は、アドラーには愛人がいたことがなかった。なので、言葉のラベルを貼り替える、引き剥がすという処方箋を放棄したんですね。「プライミング」と言いますけれども、未来に自分が実現したい状態からバックキャストし、そこに視座を置いて振り返って見た時に、いま自分があくせくしている視座がいわば「キャンセル」される。キャンセルというか、ちょっと横に別れるんですね。それによって自由になる。これがアドラーの心理学の仕組み。

小島:ふーん。

宮台:実は僕はね、カウンセリング的なことをする時、あるいはワークショップでは、必ず(フロイトの考え方とアドラーの考え方の)両方を使います。どちらもすごく意味があるからですよね。

谷崎:それを今回のテーマの教育に結びつけてみると、まさに今、めちゃめちゃ深い部分の話をされたと思うんです。それが今、社会に実装されていない。SDGsでは1つの目標になっているんだけれども、「もしかしたら、それだけでは足りないかもしれない」ということを、おっしゃろうとしているのかなと思うんです。

今、宮台さんがおっしゃるような、つながりを回復するような教育や学びは、どういうかたちで現れるんですか?

損得計算ではない生き方を教えるのは「体験教育」

宮台:僕は昔、「体験教育」ということを主張して(元文部官僚で、京都造形芸術大学教授、映画評論家でもある)寺脇研をサポートしておりましたが、もともとこれは、これはジョン・デューイという、20世紀前半のアメリカのプラグマティストが言っていることです。

みなさん、あまりご存知じゃないかもしれないけど、プラグマティストは「実用主義」という訳語は完璧に間違いで、正しい理解は「認識よりもコミットメント」ということです。

真理を理解しても体が動くとは限らないじゃない? だから、体が動くには心が動くもので、人は無謀だから「やめろ」と止めたとしても、「俺があいつを助けに行くぞ」というふうに、心が動く。これをプラグマティストは「内なる光」と言うんですね。エマソンの言葉です。知識を与えることはただの手段で、目標、ゴールは「内なる光」を灯すこと。

だからまず、それには損得オンリー、ロスアンドゲイン、損得カリキュレーションというものから逃れさせる。それをやめろと言っても、実は「内なる光」がわからない人はどうしていいかわからない。

「損得じゃない生き方なんてあるんですか?」「あるんだよ!」って言ったって、わからない。だから、それを伝えるのが、実は経験と学習なんだというのがジョン・デューイの問題設定なんですね。

うちにはたくさんの生き物、昆虫とか爬虫類がいます。実は目が合う動物かどうかは、人間にとってすごく大事なんです。言い換えると、その動物、虫や蛇から見られるという経験をするかどうかが、子どもがその動物に愛着を持つかどうかの決定的なポイントなんです。それは経験的にわかる。

あともう1つは、コンテンツ。映画などです。例えば、最近の日本人の作った恋愛映画は、試写会に行ってもだいたい「用事を思い出した」とか言って、途中で抜けます。それぐらいクズだらけです。

ところが、僕が生まれた1950年代の溝口健二とか増村保造の映画はすごいですよ。こんなにすごいものが描けるっていうことは、本当に経験値が高いんだろうな。いろんなことがわかっているんだろうな。知的な理解じゃない。テクストではなくコンテクストに関するものすごく敏感な感受性があるんです。

ところが日本の今の映画って何? だいたい少女漫画。原作のクソファンたちだよ。もう本当に、3分見ただけで経験値がまったく低い人間が、逃避のために思い描いている妄想だということがすぐわかる。

もちろん、小島さんがおっしゃるように、そういうものでマスターベーションしないと不安でやっていけない、現実逃避したいという気持ちもわかる。でも「表現者がそれをやっていいのかよ?」ということなんですよね。

簡単に言えば、「お前、一体何やっているんだよ? 何のために映画を撮っているんだよ? だって、表現者でしょ? 甘やかすなよ、お前!」ってことです。

自らの曖昧さを受容し、人間が不完全な存在であることを学ぶ大切さ

谷崎:SDGsの17項目のなかには、「内なる光」とつながるというものはないですね(笑)。なので、もしかしたら「内なる光」とつながることが人類にとっての重要な学びだったら、それを1つのゴールとして考え、本当に必要ならばそのためのターゲット、もしくは「内なる光」につながるための学びとは何か、という問いが4番(教育)になる。

小島:私ね、曖昧さと不完全さを学ぶことだと思いますね。

谷崎:曖昧さと不完全さ。

小島:はい。やっぱり何でも曖昧なんですよ。矛盾という言い方でもいいですけどね。矛盾や曖昧さに耐える力をつけるということ。あるいは受容する力。あるいは、矛盾や曖昧さを抱えている自分を承認すること。プラス、不完全であることに慣れること。だから、教師は別に完全じゃなくてもいい。私も「あの先生はいい先生だな」と思い出す先生は、やっぱりみんな偏っていますね(笑)。

どこかが不完全だったり、どこかがちょっと変わっていたり。大人が不完全であることを見るのは、すごく学びが多いです。だから言い訳がましいですけど、私も息子たちに障害のことを言っているし、自分が苦手なことも言っています。夫婦関係でものすごくもめていることも、全部言っているんですね。いかに私が苦しんでいるかを実況しているわけです。

自分の矛盾や不完全さに苦しんでいるところを、ある程度ライブで見せている。それは、曖昧さや、人間が矛盾していたり不完全なものであることだと学んでほしいからです。

谷崎:現代の学校教育だと当然、曖昧さなどを教えてくれることは……。

小島:だって、それはオーガナイズにしにくいから。曖昧さだったり矛盾だったり、不完全であることは、ものすごくオーガナイズしにくいし、目標も設定しにくいですよね。「じゃあ、今年はこれぐらいの曖昧さを目標設定しましょう」と言ったって、無理ですから。

利他心や生き物を慈しむ感受性は、どのように育まれるのか

宮台:テトラさんの領域なので、テトラさんに話を振りますが、シュタイナーにはクリティカルエイジ、臨界年齢の概念があってね。「読み・書き・そろばん」は、臨界年齢が高い。つまり、後から取り返せる。しかし「読み・書き・そろばん」ではなく、今おっしゃった曖昧なもの、規定不可能なものに対する感受性は、臨界年齢が低い。つまり、シュタイナーは5歳とか7歳の幼児期に臨界を設定する。

谷崎:7年というのが1つの周期ですね。7歳までと14歳までと。

宮台:でも、真に受けすぎると(だめで)、実はシュタイナー教育の影響で、まさに1950年代後半に生まれた僕たちは「情操教育」と称して、バイオリンやピアノ、絶対音感の訓練をさせられた。僕は犠牲者ですね。

小島:それはきっと、「読み・書き・そろばん」以外のものをやればいいんだ、という単純な誤解ですよね。

谷崎:重要なのは、宮台さんの言い方をすれば、「内なる光」のプロセスになっていなかったことですよね。

宮台:そうなんです。目標がはっきりしている。やっぱりシュタイナーは、プラグマティストの一人に数えてもいいと思う。要は、尊い動機付けです。人を助けたいというような利他心や貢献心、あるいは生き物、動植物、生き物じゃないものを含めた全体を大切にしたいという感受性はそこから出てくる。

人と人でないものを峻別して「人だけ助かればいい」とか、自分と他者を区別して「自分だけが助かればいい」というのは、やはりシュタイナーから見れば病気なんですね。なので、そのような病気にかからないための適切な環境を用意しろ、というところにシュタイナー教育の目的がある。だから、それはデューイともよく似ていますね。

谷崎:僕はどうしても教育というと、学校教育をどうするか、ということを前提に考えちゃうんです。だけど、実はおそらくこの三人は、学校教育をすっ飛ばしています。本当は僕がストッパーになるはずだったので、そこに乗っかってはいけないと思うんだけれども、どこまでも乗っかっちゃおうと思います(笑)。

学校教育ということを外して、リカレント教育を「100歳まで学び続ける」と考えると、僕たちは一体どこに向かって、何のためにどういう学びをするのかということになる。曖昧さというものを学ぶのは、おそらく学校教育ではできないわけですよね。

小島:学校教育は、まさにSDGsの4番目で言うところの基本的な(「読み・書き・そろばん」といったものを学べる場所であるけれど)、曖昧さを学ぶための技術を体得する場所としては……。(曖昧さのようなものは)手ぶらじゃ学べない。その前に文字を読んだり計算を学ぶ場所としては、学校は絶対、社会には必要だと思うんです。

けれども、「いい学校にさえ行かせておけば、何もかもが手に入るというものでもないよ」と思います。だから、学校は大きな「学び」のなかの場所の一つであって、「学び」の場所はいくつもあるし、いくつものタイミングがあることを理解するといいのかなと思いますね。

ガンジーが説いた、魂を向上させるための学び

谷崎:「教育の目的は何ですか?」って、いろんな先生にインタビューするわけですけど……。

小島:今日もね、先生が来ていそうです。

谷崎:基本的に日本ではいい学校に行き、いい会社に入るために学ぶというマインドセットが完全にでき上がっているわけです。だけど、教師に「本来の学びとは何か?」といろいろ聞いても、なかなか明確な答えがないんです。僕はいろいろ本を見ていますが、ガンジーは教育論の本の中で、「人間が学ぶことは、魂を向上させることなんだ」と言うんですよ。

魂を向上させるためにどういう学び方をするのかと言うと、わりとシンプル。まずは親から学ぶ。(そして)村から学ぶ、自然から学ぶ、道具から学ぶ……というようなかたちです。歴史とか算数とかそういう西洋の考え方じゃない。これは、ガンジーが「自分の頭で学ぶんじゃなくて、手で学べ」というようなことを言っているんですよ。

「手工業や農業を知的にやることが、魂の向上につながる」とガンジーは言っているんですね。例えば、村で必要なお米や小麦を作る。その小麦を使って、パンケーキを焼いて、でき上がったパンケーキを誰かにいくらであげて……ということを、生活のなかで必要なものを、知識を使って実践的にやる。小麦は一体どこから来たのかな、ということで地理を学び、歴史を学ぶということです。

そうして「村のなかで起きていることを学べば、世界のことがすべてわかるようになる」と、ガンジーは言っている。なるほどと思ったんですけど、日本の教育の一体どこで、これを学ぶチャンスがあるんだろうかと思うと、なかなか難しい。

小島:すでに高い学歴を身に付けてしまった人にやったらいいんじゃない? 私はときどき勧めることがあるんですけど、自分のことをぜんぜん知らない人と出会ったときに、一切学歴の話をしないで仲よくなる、というのをやってみたらどうかと思います。自分が何大学を出たとか、何高校を出たとか。どこに勤めているとか言わないで……。

宮台:昔、十何年かナンパの実験をしていたときの、僕のやり方ですね。

小島:はははは(笑)。

宮台:テトラさんは、やっとエンジンがかかりましたって感じですね。

小島:でも、本当に自分のことをまったく知らない相手、言葉すら通じない相手との出会いでは、相手との関係を作る力が大事。

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