何かを諦めざるを得ない状況に追い込まれている人々
宮台真司氏(以下、宮台):よろしくお願いします。
奥山晶二郎氏(以下、奥山):最初に、これ(『超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる』)を読まれた方は、今日何人くらいおられますか?
(会場挙手)
宮台:少ないですね。
奥山:そうですね。まあ、これを機に読んでいただければ。今日は、私から質問をすることで場面転換をしていかないと、たぶん宮台さんがずっとお話しされてしまいます。
菅野久美子氏(以下、菅野):(笑)。
奥山:それはそれで多分おもしろいと思いつつ……いろんな切り口があるテーマの本であると思うので、何個か質問を考えさせていただきました。一応それに沿って進めたいと思うんですが、盛り上がったら流れに身をまかせるというかたちでいきたいと思います。ただ、最初のところは楽屋の中でもむちゃくちゃ盛り上がって、核心とも言えるかもしれません。
「幸せな孤独死」と仮タイトルにつけさせていただきました。本の中には、セルフネグレクトという言葉が出てきます。自分でひきこもってゴミ屋敷になってしまったり、自分の意思でそれ(孤独死)を選んでいるという場面です。
「その人がいいと思っているんだったら、それでいいんじゃないか?」という議論もある一方で、私自身は「本当にそうなのかな?」と思いながら読みました。その点について、まず宮台さん。
宮台:ちょうど5年くらい前に、「恋愛できないんじゃなくて、恋愛しないんだ!」とか「一生結婚せず、恋愛もしないで、一人で生きる時代、いいじゃないか!」という発言が、インターネット上に目立つにようになりました。孤独死も同じでして、「独りで死ぬのも、いいじゃないか」などといった、僕に言わせると「クズ発言」が出てくるようになりました。クズであることは簡単に証明できます。
もし、みなさんに、心が豊かで親しい友達がいて、その友達がそういうことを言い始めたら、どう思いますか?
「こいつはなにか諦めて、それを後から正当化しているな」と必ず思うはずです。人間は認知的な整合化をする動物です。自分に不可能なことを望み続けると傷ついちゃうので、傷つかないように「もともとそういう望みを持っていないんだ」と自分を言いくるめるんですね。
そうすることで、叶わない望みを求め続けることによって尊厳が傷つくことを避けようとするわけです。精神科医や精神病理学者であれば、誰もが知っていることです。みなさんも御存知のはずですね。
「誰とも付き合わないで、独りで生きるのが気楽なのさ」と言っている人たちは、なにかを諦めざるを得ない状況に追い込まれているのだと想像しなければなりません。その上で、本当にそれを諦めなければならないのかを、考えるべきなのです。
「幸せな孤独死」は自己欺瞞から生まれる
菅野:私は『東洋経済オンライン』という媒体で、年末から複数回に渡って孤独死の記事を書いています。毎回、大きな反響があるのですが、Twitterやブログなどの反応を見ていると、「孤独死の何が悪い!」という反応が一定数あります。あとは「将来の自分が孤独死するかもしれない」というものも多いです。この孤独死がなぜ悪いのかという問いの答えを、宮台先生にぜひお聞きしたいです。
宮台:いま申し上げたことを、別の言葉で言うと、見たくないものを見ないことによってセルフイメージを持とうとする、浅ましい人たちが多いということです。「諦めたから、仕方なく一人で過ごすことを苦しくないように工夫しよう」というのであれば、マシです。自己正当化を自覚していないことが浅ましいのです。
逆に、浅ましくなくて、「孤独死は自分の将来の望ましくない問題だな」と意識できる人には、そのあとに「でしょう? だったらどうしたらいいと思う?」というコミュニケーションを続けることができます。ここにいらっしゃる方々がそうです。
だから、「幸せな孤独死」などと真顔で言うような自己欺瞞的な人間は、自らコミュニケーション回路を閉ざしてしまっていると言えます。残念としか言いようがありません。
奥山:この孤独死は「もしかしたら不幸かもしれない」と思いつつ、それ以外の選択肢がない。
宮台:だから「もしかしたら不幸かもしれない」という認識を欺瞞的に消去するわけです。最近、とりわけ男を中心として友達がいない人間が多いので、そうした自己欺瞞を友達から指摘されることもない。冒頭に「もしあなたに親しい友達がいたら…」と申し上げたのも、そうした背景を踏まえています。
奥山:追い詰められてしまう。お手本というかロールモデルとしての最後も、もしかしたら今の世の中では見えにくくなっているのかなという気がします。
孤独死も中高年ひきこもりも8割近くが男性
宮台:友達を作れないという劣等感を、見ないようにしているわけです。あと5年、10年すると、メディカルサーベイランスのカメラが部屋にとりつけられて、孤独死しなくなります。でも、死ななきゃいいという問題じゃない。
セルフネグレクトという病的なあり方についてみれば、ゴミ屋敷にもモノ屋敷にもなるし、人間関係を完全に遮断した状態で引きこもることになる。今でいう「子ども部屋おじさん」の状態ですが、そうして自慰的なグッズに囲まれて生きることが尊厳に満ちていると言えるでしょうか。
孤独死も中高年ひきこもりも、8割近くが男です。彼らは死なないかわりにそういう自己欺瞞的な状態を何十年も永続させます。死ななきゃいいという問題じゃない。僕はもうこの本を二度読んで、幽体離脱のような変な感じになってきて、他人事として読めないんですよね。それは菅野さんの文体もあるなと思います。
冒頭に「自分と孤独死することの間が地続きだと感じている」ということから始まって、そのあと、部屋がゴミやモノであふれることがセルフネグレクトの徴候として語られます。読者の誰もが、一時的に自分がそうなった経験を持つので、自分事に感じられます。誰にでも一時的に生じるセルフネグレクトが、アンラッキーにも回復の手がかりを失った結果、ひとつところに留まっちゃうんだな、だったら自分にもありうるな、と思わざるを得ないんです。
「こうなるか、ならないか」というのが偶然のアンラッキーなのかどうか。僕は、菅野さんの事故物件についての本やエッセイを読んで、前もって危険を自覚していなければ、いざという時に自分でコントロールできない問題だろうと感じざるをえません。菅野さんの文章はその意味で、テーマは違っても人間の弱さを描きつづけています。
菅野:いろいろありますね。
孤独死の手前にある切実な問題
宮台:僕は、菅野さんの本やエッセイをたくさん読んできているので、相当に免疫があります。だから、イベントで「お前ら、そのままだと独り寂しく死ぬぞ!」とずっと言ってきています。これはあとから話したいことですが、「早いうちから、どんな生き方を心がけていれば、セルフネグレクトの状態を長期化させないで済むだろうか」ということを、早くから学ばなきゃいけないと思うな。
その意味で、本を読んだ第一印象は、孤独死を特殊な現象として描いているのではなく、誰もが自分事として納得ができるようなユニバーサルな問題として描き出しているな、ということ。誰もが「すでに」向き合っている切実な問題を告げ知らせてくれます。つまり、死ぬかどうか以前に、尊厳を失ったアローンな生活を続けている膨大な数の人々。ウヨ豚とか糞フェミとかはほとんどがそうだという印象があります。
この間も、ニコ生のコメントを1個1個全部拾って、「友達いないだろう」「あんたみたいなクズを恋人にする人はいないぜ」「ひとり寂しく死ね」と罵倒していきました。相手の反応を引き出すためによくやる手です。すると、「そうだよ! 俺は孤独だよ! 独りで寂しく死ぬんだ!」と大勢が返してきます。
「お前のために死んでくれるやつはいるかい?」「いないよ!」みたいな感じ。結局、ウヨ豚は価値観じゃなく症状ですが、こういう症状を呈するようになったら、もう手遅れだと思います。