プロアメフト選手のJ.J.ワット氏が登壇

司会者:それではここで、J.J. ワット氏を演壇にお呼びいたしましょう!

(会場拍手)

J.J. ワット氏:マディソン、この美しい街にご招待いただきありがとうございます。

(会場拍手)

みなさんもご存知の通り、私は過去8年ほどテキサスに住んでいて、そこがとても気に入っています。人々の感じは良いですし、食べ物も美味しいですし、みんなフットボールが好きですから、私にとって有利です。しかし、フライドチーズカードとチョコレートカスタードを注文しても好奇の目で見られない場所に戻ってこられたのは、正直とても嬉しいです。

(会場笑)

フライドチーズカードを流行らせようとしているのですが、なかなか流行りませんね。昨夜は、フライドフィッシュとポテトパンケーキを食べながら、美味しいスポテッドカウ(ウィスコンシンのビール)を飲んでいました。

(会場歓声)

みなさんも1、2杯飲んだことがあると思いますが、ウィスコンシンの外に住むまでは、ウィスコンシンの外でスポテッドカウを見つけるのがどんなに大変かお分かりいただけないでしょう。私はいつもここに帰ってくると、自分のスーツケースをスポテッドカウでいっぱいにして、パブロ・エスコバルのように密輸出して帰るんですよ。

(会場笑)

ここにおられる方の中でテキサス在住の方、私の冷蔵庫にはストックがたくさんありますよ。

真面目な話に戻りますが、私は今日この場にいられることを非常に恐れ多く、そして光栄に感じています。まず、学長に感謝を述べたいと思います。そして学部のみなさん、上級職員、もちろん2019年ウィスコンシン大学卒業生のみなさまにもお礼を申し上げたいと思います。

(会場拍手)

私が「今日のスピーカーになってください」と初めに言われた時、数日後にヒューストンで会見があったので、プレスの方々が一緒にいました。彼らは「スピーチをもう書きましたか?」と聞いてきたので、私は「いいえ。私はスピーチを書きませんよ。」と答えると、「では、プロンプターに何を出してもらうんですか?」と聞かれました。それで、「何も出してはもらいませんよ。なんでもいいですよ」と答えました。

(会場笑)

スピーチライターに原稿を依頼しなかった理由

そしてその後、非常にたくさんの人が、スピーチを書くのを手伝ってあげようと言ってきました。プロのスピーチライターの方も私にスピーチを書いてくれようとしました。みんなが「スピーチを書くのを手伝ってあげるよ。書いてあげるよ」と言ってくれました。それに対する私の答えが正しい答えであったと思いたいですが、私は「大学は、あなたが何を言いたいかではなく、私が何を言いたいかを聞きたくて打診してきたんだと思う」と言いました。

(会場拍手)

ありがとう。スピーチライターが私のために書けることではなく、あなたが聞きたいことは何かを考えながら自分で書くのでもなく、みなさんは、私が今まで学んできたことは何か、ウィスコンシン大学が教えてくれたこと、キャリアが教えてくれたこと、私が今まで乗り越えてきたことから学べたことをお聞きになられたいのだと思います。

今日ここにいらっしゃる方だと思いますが、ソーシャルメディアを通して私に「卒業証書をもらうのに、私は4年間苦労してきたというのに、スピーチの準備をしてこないとは何事だ」と言ってこられた方がいました。

(会場笑)

まず初めに言いたいのは、「落ち着いて」ということです。

(会場笑)

落ち着きましょう。大丈夫です。スピーチを書き起こさないからといって、準備をしていないというわけではありません。YouTubeのさまざまな方の卒業式スピーチを見てきましたから、大丈夫です。

(会場笑)

みなさんと同様、私もたくさんのWikipediaを読みまくって、昨夜、すべてを詰め込んで、ここにある紙切れに何かを書き込んできました。

(会場笑)

私は準備してきました。よく考えてきました。ビデオを見ながらいろんなことを学びました。その中の一つに、スピーチをする人はリストを作るのが好き、ということです。人生のリストです。ルールとかゴールとかやるべきことのリストです。

そこで私は思いました。「私はリストを作るタイプの人間ではないな。もしリストを書いたとしても、会場にいる人たちは自分よりずっと頭がいいし。そんな人たちに、人生をどのように生きるべきか、私が言うべきではないし」。そして、自分のスピーチを書き始めました。実際に書いたのではなく、頭の中に書き込みました。

モットーは「夢は大きく、努力は惜しまず」

私が話したかったのは、「夢は大きく、努力は惜しまず」ということです。私はまだ下級生だった時に、財団を作りました。この学校の法律部から非常にたくさん助けてもらいました。私が「501c3(非営利公益法人)」の手続きをするのを一緒にやってくれました。財団を始めるにはどうしたらいいか、始めから一緒に助けてくれたのです。

そして、夢を大きく持ち、努力を惜しまないと言うことは自分のモットーとなりました。なぜなら、この世界の中で自分が欲しいものと同じくらい大きい夢を持つべきであると、私は心から信じているからです。決して他の人に「そのような夢を叶えるのは無理である」と言わせないでください。私の先生の中にも、「『いつかNFLの選手になる』という私の夢なんて叶いっこない」と言った人がいました。しかし、私を見てください。

(会場笑)

同時に私を信じてくれた人たちもいました。そのような人たちは、私がここに来るために助けてくれました。ですからみなさんも、自分の欲しいものと同じくらいの大きな夢を持つべきです。他の人に口出しさせないでください。その代わり、その夢を叶えるために進んで努力するべきです。自分の夢を叶えるために、進んで、時間と努力とエネルギーと犠牲を払うのです。

そんなわけで、自分が今日みなさんにお伝えしたいことを考えていたのですが、どのように言うかを整理していましたら、悔しいことにリストが出来上がってしまいました。ですから、今日みなさんに、自分の夢を追うにあたり学んだ4つのことをお話ししたいと思います。

(会場笑)

私は今日ここに来るまで、自分の夢を追い続けてきました。この先にも夢はもっと続いていきます。しかし、ここまで来るのに自分が学んできたことは多いので、今日はそのことについてお話ししたいと思います。

私はこのスタジアムから45分ほどのウィスコンシン州ピウォーキーというところで育ちました。そうです、ご存知の通り小さい街です。ですから、みなさんがそこから来られたわけはありません。みなさんが嘘をついていらっしゃるのがわかります。ありがとうございます。

(会場笑)

ウィスコンシン州で生まれた人の子どもの頃のクローゼットの中には、3種類しかありません。緑と金色、赤と白、そして迷彩です。

(会場笑)

2019年には明るいオレンジ色も入っているかもしれません。私は義務的にブレット・ファーブルのジャージを持っていましたが、本当は赤と白のユニフォーム、ウィスコンシン・バジャースの選手になりたいと思っていました。実を言うと、私は小さかった時ホッケーの選手になりたいと思っていました。バジャースの人たちとスケートもして、すごく楽しくて、ここでホッケーの選手になりたいと思っていたのです。

自分の夢を見出したきっかけ

しかし、成長するにつれ、好きなものがフットボールに変わりました。2005年にこのスタジアムで、初めてのフットボールゲームをしました。みなさんも初めてこのキャンパスやこのスタジアムに来られた時のことを覚えてらっしゃると思いますが、私もその日のことをすべて覚えています。

私はみなさんの記憶に含まれてはいないと思います。そしたら自分がすごく歳をとっているように感じてしまいますから。今日ここにきた時、私のことを描いた絵を持ってきてくれた人がいたのですが、「自分が8年生(中学2年)の時に描いたんだ」と聞いて、心が痛くなりました。私は30歳になったばかりなのに、年寄りのような気がしているんですよ、みなさん。

(会場笑)

それはいいとして、私が試合のためにここにきた初めての日、テールゲーティング(車を停めた駐車場で停めた車の後ろでパーティーをすること)をしていました。今でもあの時のソーセージの匂いを覚えています。コーンホール(ゲーム)をして遊びました。

少し寒くて、木の葉の色が変わりつつありました。本当に魔法のような時間でした。みなさんも私が話している意味がわかると思います。そして、私がこのスタジアムに入っていくと、バンドの演奏が聞こえました。そうですね、バンドに拍手を。

(会場拍手)

私はその時、伝統・歴史を感じることができました。この場所には、何か特別なものがあるのです。その日、フォースクォーターのジョンストックが終了25秒前に、そこにあるエンドゾーンでタッチダウンを決めて、ミシガンを破ったのです。

私はその辺にあった席に座って、「これだ、これが自分の夢だ。ウィスコンシン・バジャースの選手になるんだ」と思ったのを今でも覚えています。しかし、コーチのスタッフは同意してくれませんでした。彼らは、私はタイト・エンドでプレイするには小さすぎると言って、奨学金をくれることはありませんでした。でも、フェアな話をすると、確かに私は6.5フィート(195.6センチメートル)でとても痩せていて、手足が長く、ちょうどカーディーラーの店頭にある風船人形のような体型をしていました。

(会場笑)

スタジアムの整備員をしながら夢見た、バジャーズでのプレー

それで、私はセントラル・ミシガン大学に行って、そこでタイト・エンドとしてキャリアをスタートしました。私はスターターでした。私たちはカンファレンス・チャンピオンシップで優勝しました。それでも、自分はここではないどこかに所属しているべきだとずっと感じていました。

そして、その「どこか」とは、ここのことだったのです。やはりバジャーズ(ウィスコンシン大学のフットボールチームの名前)になりたかったのです。その後、私は転校してこの大学に入りました。多くの人が、私が生活の足しにと在学中にピザ配達をしていたのをご存知ですが、今からお話しすることはほとんどの人が知らないと思います。なぜなら、公にこの話をしたことはないからです。

私はこの大学にきたあの年、このスタジアムの整備員だったのです。信じられなければ、ディック、ダリル、ジェフなどに聞いてみてください。彼らがまだここで働いているか知りませんが、少なくともその中の誰かがまだ生きていてくれることを願います。彼らは素晴らしい人たちでした。

(会場笑)

なんちゃって、内輪ジョークです。私たちは座席をきれいにして、床をパワーウォッシャーで磨き、手すりにペンキを塗りました。特に記憶に残っているのは、ある日、そこのセクションAでその手すりにペンキを塗っていた時——そうですよ、その手すりのペンキは私が塗ったんですから、汚さないで。ちょうど15分休みだったので、そこに座って休んでいました。

私は誰もいないフィールドを見て、「そのトンネルを駆け抜ける姿を想像してみるんだ。あのユニフォームを着てフィールドにいる姿を想像してみるんだ」と自分に言い聞かせました。それは、私の夢だったのです。それで毎日、春の練習の間、トレーニングキャンプの間、私はあのオフィスに通いました。あのバルコニーが見えますね?

右から5番目の窓にあるオフィスは、チャーリー・パートリッジという私のディフェンスラインのコーチのオフィスでした。私はタイト・エンドからディフェンシブ・ラインに移されました。毎晩夜10時、スターティングメンバーとの練習やコーチの会議が終わって、みんながとっくに帰宅してしまってから、パートリッジコーチは私のスカウトチームの録画を一緒に見てくれました。

そして、私の手をどこに置いたらいいか、フットワークはどのようでなければならないか、敵チームのオフェンスのどこを見たらいいか、などを教えてくれたのです。彼は私にオフェンスラインのプレイ方法を教えてくれました。