アートとビジネスの関係性

遠山正道氏:こんばんは、遠山です。今日は「ウラガワ」をお話するということで、準備をしてきました。これは私がやっている表側のブランドですね。Soup Stockや、最近では海苔弁屋さんなど、そんなことをやっています。

今までやってきたことの「ウラガワ」ということでお話をするのですが、最近の私は、「アートとビジネスの関係性」というテーマでお声がかかることが多いです。なぜかといえば、およそ23年前の96年に、私は絵の個展をやりまして、そこから今日に至っております。その頃からアートとビジネスを関連させてやってきているんですね。

最近は「アートビジネス」といういい方をすることが多いので、こうしてお声がかかることが増えたのでしょう。それは一言でいえば、私は「すべて自分ごと」だということがアートとビジネスの結節点だと思っています。ですから、そんなお話をしたいと思います。

先ほどお話したように、私は1996年に、絵の個展をやっています。これはなぜかといえば、1985年に三菱商事という商社に入りまして、10年ぐらい経ったときに、このまま定年を迎えるのは自分としては満足しないだろうということがはっきりしたからです。「なんかやんなきゃな」と思ったわけですね。

その「ウラガワ」の心情のお話をしますと、当時、私はある情報産業グループの部にいました。面白いソリューションビジネスの優秀な部長がいる、風変わりでユニークな部にいたんですね。

合理的な説明は、合理的な説明で打ち返される

そこにはユカワさんというすごく優秀な部長さんがいまして、その下に中間管理職が15人くらいいる中で、8年目くらいの私は一番下だったんです。あるとき「この部はユカワさんがいなくなったら潰れちゃうよな。存在価値はないな」、「ユカワさんがいなくなったらこの上の人たちはどうなるんだろうな」と思いました。

化学品や機械といったいろんな部門、いろんなところから寄せ集められたような部でしたので、「この人たちはまたそこに帰るのだろうか」と思ったときに、「それって、人ごとじゃなくて俺もそうだよな。ユカワさんがいなくなったら、俺ってどうするんだ!?」と思い、ゾッとしたんですね。

それで、なんかしなきゃと。それに、このまま定年を迎えても満足しないという思いもあり、そんなことから、なぜか絵の個展をやったんですね。これはよく分かりませんね。

当時は合理的な説明はできない、なんてことをいっていたんですが、私は今になって、合理的な説明ができないというのが良かったのだろうかと思っているんです。合理的な説明というのは、合理的な説明で打ち返されますから。だけどこれは、よく分かんない。打ち返せない。

アート側の方からすれば、「サラリーマンが絵なんか描いていい気なもんだ」という感じで、どこを見ても理由が見当たらないというか、八方塞がりな感じでした。だけど、ともかくなんかはやったわけですよね。だから、どっかに理由があったんですよ。

誰にも頼まれていない仕事で、自分に意志があることを知った

たぶん、先ほどの話でいうと、本能的なものというところですかね。ちょっとよくわかりませんが。いまだにそれを言語化することはできていないんですね。

ひょっとすると「苛立ち」というのかもしれない。「このまんまサラリーマンでいいの? 俺」という自分に対する苛立ちなのかもしれないし、あるいは絵が好きだったので、描きたいという「ときめき」という言葉なのかもしれないし、一般的にいえば「夢」なんていわれるかもしれません。

だけど、あまり言語化できないままでやったんですね。でも、そうした理由があるからこそ突破したんだと思うんです。私はこの個展の話をなぜするのかといえば、私にとってすごく大きな出来事であり、それは今日まで続いているんです。この個展をやったことで、三つのことが得られたんですね。

一つは、カッコよくいえばなんですが、初めて自分の意志を知ったというのかな。それまでは慶応大学卒の商社マンで、なんか楽しい暮らしをしていて、最高にハッピーという感じだったんですが、このときに初めて、なんていうのかな。うちでは今でもよく言う言葉なんですが「誰にも頼まれていない仕事場」という言い方があるんですね。

誰にも頼まれてはいませんよね、上司からやれと言われたわけじゃないし、かみさんから言われた、親から言われたわけでもなく、自分の意志でやっていますよね。だから、そのときは33歳だったんだけど、初めて本当の意志表示だったのかもしれないと思った。「あ、俺って意志があったんだ」ということを、このときに気づいたんですね。それが一つ目。

「初めての自己責任」に気づいたアートの仕事

二つ目は、これもカッコよく言えば「初めての自己責任」ということに気づいたということ。先ほども言いましたが、誰にも頼まれていないんで、誰のせいにもできない。会社のせいにも、親のせいにも、上司のせいにもできない。初めての自己責任です。

そして三つ目に生まれたのが「Soup Stock Tokyo」というブランドなんですね。個展をやったことで、私は非常に盛り上がったんです。70点の作品がすべて売れたから。友人に「いや、これで俺の夢が実現した、ありがとう」と言ったら、その友人から「そんなちんけな夢には付き合ってられない」と。「これが夢の実現なんかじゃなくて、こっからがスタートだろ?」と言われました。

もう「すみません」と。「そうだよね、俺なんかの、サラリーマンの素人の絵の手伝いなんかして」。「そんなことだけのために貴重な時間を費やしたんじゃない」と言われたから、「そうだよね」と。

そのときにお世話になった160人の人に手紙を書きました。「みなさんにご恩返しするために、成功することに決めました。何をやるかは未定です」と書いて送りました。そして、いろいろあって「Soup Stock Tokyo」ができたんですね。

(スライドを指して)これはニューヨークでやったときのものです。そのころに、4回くらい個展をやっています。以降も仲間から私「絵の個展をやらないんですか? あったら絵が欲しい」といわれますが、私はもう20年ぐらい個展をやっていないんですね。どうしてかというと、絵を描いて誰かが買ってくれることよりも、自分のビジネスをやっている方が楽しいからなんですよ。個展よりも。

すべてを過去形で書いた企画書

ビジネスはアートに似ていると思っています。これも個展からきているものですが、うちのブランド商品は作品性という言葉のとおり、作品のように作っているんですね。

誰か1人が買ってくれて、眺めてくれるのもありがたいのですが、例えばスープを実際に飲んでくれて、胃袋に入れてくれて、あるいはおばあちゃんにあげたら「美味しかったよ」と言ってくれたような。こうやって、喜びがどんどん広がっていくじゃないですか。絵を描いている場合じゃないと思ったんですね。

「Soup Stock Tokyo」というものができましたが、これはどうしてか。当時の私は情報産業グループのメンバーでしたが、小売やショップなど、そうしたことがやりたかった。でも商社というのは、そうしたものがないんですよ。原料のように、そういった川上の産業ばっかりですから。

いろいろと見渡すうちに、ケンタッキーフライドチキンさんという関連会社があったので、なんとかうまく理由をつけて、店舗に情報を配信をする方法はなど、なんとかいってうまくプレゼンして、ケンタッキーさんに出向させてもらうんですね。

そこに行って、あれをやこれやをやったときに、女性がスープをすすってホッとしているシーンが思い浮かんで、すごく大事なものと出会えた気がしたんです。3ヶ月かけて企画書を書きました。「物語」と書いてある、すべてが過去形で書いてある企画書です。

スープは共感の旗印

ここには「Soup Stockはスープを売っているが、スープ屋ではない」などと書いてありまして、何が書いてあるかと一言でいえば「共感」という言葉が書いてあるんです。スープに共感してくれて集まった仲間と自分たちで、作品のようにものをつくり、お客さんや世の中に提案していく。「いいね」はもちろん「だめじゃん」などとも言われながら。

そこに「共感と関係性」を作ることで、また次の食べ物であったり、物販であったり、サービスであったり、その共感の関係はより広がっていくだろうと。そうしたことが書いてあります。要するに、スープというのが、その共感の旗印というものなんですね。私は、スープ、つまり汁もの、おつゆが好きなんですよね。

今日のお昼もラーメンのようなものを食べました。ラーメンとスープというのは、同じ汁ものだしよく似ていると思うんだけど。弁護士さんでも建設業者さんでも、世の中にいろんな職業や名刺交換をするような会社がたくさんありますよね。いろんな会社があるんです。もしも私がラーメンが好きで、ラーメンという共感を軸にビジネスをスタートしていたとすれば、おそらくぜんぜん違うところに行っているんです。違う会社になっている。

今日、いま、ここに立っていないと思いますね。例えば、今はスマイルズという会社ですが、会社の名前も違っているでしょうね。もしラーメンだったら、きっと漢字5文字くらいで、縦書きで、なんてね。まず集まってくる仲間が、平均体重はきっと10キロ以上大きくて、メンズが多い。

ラーメンの次の業態はなんでしょうか。餃子ですね。餃子の次の業態はなんですかね。ニンニク抜き餃子など、そのくらいしか思いつきませんね。まぁいいですよ。ラーメンは好きだし、いい。だけど会社の様子がまるっきり違うと思います。だから、まず最初に何を大事にして、何を提示するのかということが、ラーメンとスープではぜんぜん違ってくるわけです。