「リモートワークが当たり前」の精神は、SFC時代から

加来幸樹氏(以下、加来):では続いて、平田さん。

平田麻莉氏(以下、平田):はい、5分で。

加来:はい、平田さんは1982年に生まれましたね。

平田:はい。そうそう、そうなんですよねぇ。私の家は転勤族だったんですよ。なんかいろいろ、平凡な人生を歩んできたんですけど。

大学の時は、今の仕事や価値観にもすごくつながってるんですけど、SFC(慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス)という変なところに行っていて。みんなで鴨池っていう池のそばの原っぱで、ラップトップ広げて、寝っ転がりながらカタカタしてるみたいな学校だったんですね。

SFCの学生からすると、もうリモートワークは当たり前みたいな感じで。けっこう大企業とかブランドみたいなものにあんまり価値を感じない人が多いところだったので。むしろ「体制反対」じゃないけど、「自分の名前でやっていくんだ」みたいな、そういう尖った人が多くて。

周りにもフリーランスで、いろんな職種で活躍してる人がいるので、自分がこういう道になったっていうのも、けっこう先輩や仲間の影響は受けてるかなと思いますね。

戦争のリアルな映像を、弁当食べながらメモ

平田:研究会とかでもいろんな研究をしていて、ずっとコミュニケーションに興味があって。SNSの研究で、当時できたてホヤホヤのmixiの社長やSNS上のインフルエンサー的な人にインタビュー行ったりとか、テレビ局でバイトしてたりしてました。

メディアとか情報の影響力みたいなものに昔から興味があったんで、TBSでバイトしてたんですけど。イラク戦争が始まって、臨時バイトということで、通信社から届く映像をずーっと、何時何分にどういう映像が届いたかって記録するような仕事をしてたんですね。

そうすると、ライブ映像で爆撃とかがあって、本当にたくさん人が亡くなったり。アメリカ側のもの、AP(通信)よりも、アルジャジーラっていう中東の通信社だと、本当にすごくリアルな映像が届いたりするんですけど、それを私はお弁当とかを食べながらメモするんですよね。

デスクっていう偉い人とかに「何人死んだ?」って言われて、「30人です」とか言うと、「もうちょっと死んだら教えて」みたいな。やっぱりそういう会話になっちゃうんですよね。だから、そこの中にいて、ちょっと感覚が麻痺してくるというか。かつ、アメリカの資本の会社から来てる映像と、ムスリム資本の会社から来てる映像がぜんぜん違うものを映していて。でもやっぱりその中でも、日本のメディアはわりとAPのものを使いがち。

だから、メディアの中にいるっていうよりも、やっぱり自分が信じられるものをここに届ける仕事のほうが、自分には合ってるかもしれないなと、そういうふうに思ってたときに、『戦争広告代理店』という本を読んで。それでPRという仕事にすごく興味を持ったんですね。

ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争 (講談社文庫)

海外に出て、幸せの価値観の多様さを知る

平田:それでOB訪問をPR会社で働いている先輩にしたら、「最近知り合いが会社立ち上げたから、会ってみる?」みたいな感じで紹介されて。その場でなんかビビッと来て、勝手にもう入ることを決めて。で、新卒採用の予定はなかったんですけれども、半ば勢いで内定をいただいて、そのビルコムでインターンとして働き始めました。一番最初のオフィスを作るところからですね。

あと、転機で言うと、卒論のテーマが「幸福論」だったんですね。当時から、豊かさとか幸せって、もうなんか求めてたらキリないんじゃないかみたいな、そういう問題意識があって。ヨーロッパ1周をバックパック旅行しながら、出会った人に片っ端から「幸せって何だと思う?」「豊かさって何だと思う?」って聞きまくったら、本当にやっぱり多様な答えが返ってきて。

自分なりにそこで得た結論は、幸せの価値観ってすごく多様だっていうこと。そして、足るを知るというか、幸せの閾値が低い人が最強っていうのが、自分なりの結論で(笑)。そういうことをすごく考えるようになりました。

それで、そのままビルコムに入ったんですけど、仕事がめちゃめちゃ楽しくて。スタートアップだし、やっぱりやればやるほど成長するっていうところもあって。上司にはほどほどにしろと止められていたのに、平日は朝8時から、だいたい3時〜4時とかに仕事を終えて、シャワーだけ浴びてまた戻るみたいなことをやっていて。半年間1日も休まずにやってたら、ドクターストップで休職させられてしまいました(笑)。

それで、「休みたくない!」みたいにぎゃあぎゃあ言ってたんですけど、「長く活躍するためにも、今は休め」みたいな感じで説得されて。それで仕方なく休んだんですけど、すぐ飽きて(笑)。

(会場笑)

平田:休職中に大学の恩師がやってる政策シンクタンクで非常勤スタッフの手伝いを始めまして。それで事務所の人たちもそうですし、政治家とか、いろんな方たちの話を聞いて、それまですごく会社人間だったんですけど、視野が広がったっていうのがありますね。政策提言のいろいろみたいなのは、そこで見てたから、今もつながってるというのはあると思いますね。

限られた人生で与えられた命を何に使うか

平田:3ヶ月の休職を終えて職場復帰して、相変わらずガツガツ働いて、26歳くらいでさっきも言った通り、研究者になりたいっていうことで。引き留めもしていただいたんですけど、最後はもう啖呵を切って「私のやりたいことはもはやビジネス界にはない!」みたいなことを言って辞めたんですけども(笑)。

修士と博士課程へ行って、もう研究者になろうと思っていたんですけど、結婚してすぐに子どもができて。子どもができたときも最初すごく戸惑いがあって、なんか私のキャリアはどうなるんだろうとか、これから博論を書く予定だったのにとか。

あと、妊娠初期にフランス出張に行ったら風邪引いちゃって、日本とウィルスが違ったのか、ぜんぜん治らなくて。それでなんか本当にマタニティブルーだったんですね。でも産んでみたら、子どもってすばらしくて、それでまぁしばらくちょっと専業主婦もいいかなぁなんて思いつつ。

2人目までサクッと産んだら、サクッと復帰しようと思ってたんですけど、もともとあった卵巣の腫瘍が悪性化してるかもしれない、つまり、ガンかもしれないって言われたんですね。まぁガンだったらガンでもう運命だから仕方ないだろうと思ってたんですけれども。もし人生に限りがあるんだったら、家族に、親とか夫とか子どものためにやっぱり時間を使おうと思って、大学院を退学しました。

それで、書き仕事は続けてたんですけど、専業主婦的なかたちで1年半過ごしまして。検査がいろいろあったので、実際ガンかもって言われてから切除するまで7ヶ月ぐらいあって。本当にガンだったら子宮も取らなきゃいけないしって言われてたんですけど、なんか「境界悪性」という、取ってしまえば再発も転移もないというものだったので、卵巣を取るだけで済みましたと。

でもやっぱり、限られた人生というか、与えられた命を何に使うかみたいなのは、それ以来すごく考えるようになりましたね。

フリーランサーあるあるトークで盛り上がる

平田:それで、元気になったのでまた仕事しようかなと思って、仕事を始めて(笑)。第2子もおかげさまで生まれて。その時はもうフリーランスだったので、3ヶ月の時に、勝手にカンガルーワークって名付けて、抱っこ紐に子どもを抱えながら働き始めて。

そしたら、2016年10月に、経産省がフリーランスの研究会を立ち上げるというニュースが記事になっていて、それを「私たちの時代キター!」といってシェアしたら、さっき言った通り、大学時代の友だちも含めて、フリーランスがいろんな職種でいろんな仲間がいたので、すごくコメント欄が盛り上がったんですよね。

それで、みんなでランチ会みたいなのをして、フリーランサーあるあるトークみたいなので盛り上がってて。その研究会に呼ばれてるのが、けっこうクラウドソーシング会社とか、人材紹介会社さんとかで、要は業者の人というか、当事者があまりいなかったんですよね。

そのランチ会でも、私も含めて、そういうプラットフォームを使ったことのないピン芸人がすごくいっぱいいる中で、「ピン芸人の声は誰が拾ってくれるんだろうね?」みたいな話が出てたこともあって、「じゃあ、幹事やります」みたいな感じで、わりと軽いノリで設立趣意書を作りました。

その2.5ヶ月後ぐらいですかね。お陰様で設立をしまして。設立発表会の司会を西村さんに無茶振りして(笑)。

(会場笑)

平田:なんか、無茶振りの連続で今まできてるんです。わりと軽い気持ちでというか、思い立ったらすぐ行動みたいなタイプなのでやってみたんですけど、設立から1週間でメルマガ登録が1,500人とか来て、すごく期待の声みたいなメッセージをいただいて。これはけっこうちゃんとやらなきゃいけないと、気が引き締まりました(笑)。

それで、その後、社団法人化とかもして、「あっ、もしかしたら私、会社作ったのかもしれない」と社判を慌てて用意しながら後で気づいたんですけれども。そこからフリーランスのPRプランナーとしての仕事とか、ケースライティングの仕事とかも細々と続けつつ、今このフリーランス協会の活動は、自分のリソースの8割ぐらいを占めてます。すいません、5分以上経ってしまいました。

加来:いえいえ、すごいですね。