産業応用を通じて数学のさらなる発展に挑戦

―純粋数学の研究者である先生が、産学連携をご担当されているというのは非常に異色だと感じます。

若山正人氏(以下、若山):産学連携を担当した当初は、数学者であるということで、産業界の関係者などは戸惑われたこともあったようです。その上、ウェブなどから分かるこれまでの研究業績や論文がすべて「純粋数学(ピュアマス:数学のための数学)」の分野に見え、数値計算やシミュレーションなどを駆使する工学などに関係する「応用数学」がなかったことも、不安を覚えられる一因となったようでした。そもそも、数学を純粋と応用に分けてしまうこと自体も、あまり良いアイデアではありませんが。

ただ、理事になるずっと以前から私は、純粋数学の研究を進める一方で、数学の産業応用促進にも取り組んできました。私が数理学研究院長に就任した当時、九州大学は数学科博士課程の入学者充足率がきわめて低く、その改善が喫緊の課題となっていました。だがもし博士課程の学生を増やすのであれば、彼らの博士号取得後の進路も、これまでのアカデミア以外に考える必要がある。

しかし、当時の数学研究者の産業界への就職先というと、日本では金融工学分野などを含めてさえ非常に限られたものでした。ただし海外に目を向けてみれば、名だたる大企業でも多くの数学研究者が活躍していました。金融系は当然として、今で言うところのGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)やPixarなどです。また、オーストラリアでは農業や医学などの世界で、統計に強い数学者が活躍していました。

「海外で成功しているのであれば、日本の産業界にも数学研究者の需要はあるはずだ」。そこで、「数学によって産業界の課題の解決に寄与する」ことを目指し、また既存の数学の外の問題を得て新しい数学が誕生することへの期待も込め、国内初の産業数学の研究拠点「九州大学マス・フォア・インダストリ研究所」の設立を立案しました。「20世紀の数学は、現代社会でほとんど活用されていない。もっと社会に数学の研究成果を打ち出すべきだ」と主張したのです。設立に至ったのは、2011年のことでした。

―研究所設立後の反応はいかがでしたか?

若山:工学系などの領域の研究者からはたいへん好意的に受け止められました。研究所の設立前やその後も、GCOE(文部科学省 Global COE Program)での活動を含め、さまざまな学会に招聘していただき特別講演などの機会も得ましたし、「数学研究者と一緒に共同研究ができるのであれば、ぜひ組みたい」と声をかけてもらいました。特に海外研究者の反応は上々でした。また、多くの応用数学の研究者と知り合うことができたことも、結果として、その後の活動の幅を大きく広げることにつながりました。

産学連携の意義は「社会への貢献」「研究の安定的継続」と「多様性による新たな発見」

―そのようなマス・フォア・インダストリ研究所の設立などがあって、現在は九州大学の産学官連携担当をお務めになっているわけですね。同大では他にどのような産学連携の取り組みがあるのでしょうか。

若山:もともと九州には、八幡製鉄所に代表される重工業や、それを支える豊富な石炭資源による産業構造がありました。大げさに言えば、"日本の産業革命は九州から始まった"と表現できるかもしれません。そのため、九州大学は、創立基盤となった医学とともに歴史的に工学やものづくり、とくにエネルギー研究や材料科学などに熱心に取り組んできた経緯があります。研究技術の産業応用にも熱心な風土がありました。

現在、九州大学では、「九州大学学術研究・産学官連携本部(AiRIMaQ:Academic Research and Industrial Collaboration Management Office of Kyushu University)」が中心となって、受託研究・共同研究や技術指導、技術相談、大学特許の活用などに対応し、産学連携を推進しています。特筆すべきポイントとしては、学生向けプログラムとして、起業家(アントレプレナー)育成を目指した活動を推進していることです。

九州大学の卒業生である台湾出身の著名な米国人起業家からの寄付を基盤にして2010年に誕生した「九州大学ロバート・ファン/アントレプレナーシップ・センター(QREP)」では、アントレプレナーシップ(起業家精神)に関する教育プログラムの提供や、外部との連携交流などを行っています。また、2年前に誕生した、起業を目指す学生のサークル「九州大学起業部」からは、「AIと深層学習に基づく病理画像診断」の技術開発を目指す学生ベンチャー第1号も誕生しています。

一方で、教職員向けには2016年より「大学発ベンチャー事業シーズ育成プログラム(通称:九大ギャップファンド)」によって、産学連携を推進しています。実現性の高い提案に対して、その実現可能性の検証に必要な資金およびメンタリングなどを提供するプログラムです。

―最近はどの大学でも産学連携が活発です。なぜこれほど重要視されているのでしょうか?

若山:その理由は2つあると思っています。ひとつは、大学を持続的に運営していくためには安定的な資金確保が必要であるということです。それによって、新しい研究と人材育成を進めることができます。しかし、国からの運営資金だけでは全く足りません。

もうひとつ、これは数学者である私が産学連携の世界に足を踏み入れた理由でもあるのですが、ある学問が当該分野の既存の課題のみにしか関心をもたないでいると、学問は縮小してしまいかねません。

たとえば20世紀の数学は、「数学界の未解決の問題」の追求に邁進してきた面があります。それが学問の発展においては不可欠なことは当然です。しかし、高性能の計算機が登場し、AIやビッグデータなどデータの新たな利活用手法が発達してきた現在、社会には新たな数学的問題が発生しているはずなのです。それを見過ごしたままにしておくことは、数学の半分しかしていないことにもなりかねないと思いました。しかしそこには、優れた研究人材の存在が不可欠です。

19世紀における数学の発達を概観すると、産業界からの「技術課題のバックグラウンドになっている物理学上の問題を解決してほしい」という要請に端を発して、既存の数学の発展のみならず、多くの数的研究が進みました。そうした時代が、別の形で今再び訪れています。「内」だけで問題を考えるのではなく、「外」で発見された問題に挑むことで、大きな発展が期待できる。産学連携の意義はそこにもあるのです。

私は、大学の究極的な使命は「人類の知的財産を生み出し続けること」だと考えています。そのためには、「大学の運営資金の持続的調達」と「新たな研究課題の発見と課題解決に貢献する人材の育成」が不可欠です。社会との接点を多くもつことで、かえって大学の存在意義も明確になると思います。大学にとっての産学連携の意義は、このあたりに集約されるといえるでしょう。

―――学問を発展させるためにこそ、産学連携が必要だということですね。

若山:ただ、まだ課題もあります。九州大学の産学連携における目下の課題は「秀れた支援人材の不足」です。たとえば、産学連携では知的財産(知財)の管理に詳しい弁理士等の高度人材が必要ですが、九州が日本の1割経済といわれる中にあっても、九州全域の弁理士数は全国の1.9%にしか過ぎず、数さえも少ないのが現状です。

また、関係者に話を聞くと、大学の知財管理業務は多様で難しく、しかも報酬は少ないために、特許事務所などからはあまり歓迎されない傾向があるようです。現在の知的財産管理では海外とのやり取りも必要で、弁理士にはある程度秀でた語学能力と経験が必要となりますから、大学としてはそうした人材を職員として雇用したいのですが、終身雇用ができるポジションの確保の難しいといった雇用契約の問題もあって、そう簡単ではありません。

「経営の専門家」の不足も深刻です。専門的知識と経験を持つ経営者候補となると、弁理士と同様に東京に集中しており、地方では圧倒的に不足しています。だからといって教職員が役員を兼任すると、今度は利益相反の問題や場合によれば本務である教育研究時間の十分な確保への影響等も生じます。

実は、LINK-Jに参画した理由のひとつには、そうした東京一極集中の状況において、九州大学の活動を世の中に知ってもらい、研究の後押しとしたいという思いもありました。また、九州大学にはビジネススクールがあり、公務員や会社員など社会経験を積んだ人も在籍していますから、彼らの中から、将来の九大発ベンチャーの「社長候補」となる人材が誕生することも期待しています。

ライフサイエンス領域における「数学」の可能性

―LINK-Jはライフサイエンス領域における産学連携を支援していますが、数学はライフサイエンスの課題にも活用できるとお考えですか?

若山:ライフサイエンス領域における数学ということで言えば、たとえば「限られたデータの中から有意な結果を抽出する」ための手法としての「統計学」は以前から活用されていました。これに対して、幾何学や代数学などとして発達した「純粋数学」あるいは「理論数学」の成果が利用される事例は、ほとんどありませんでした。ところが、コンピュータの飛躍的な性能向上に伴い、最近ではライフサイエンスの課題解決にも数学が活用されるようになりました。

その一例が「トポロジー(位相幾何学)によるタンパク質の構造分析」です。15年ほど前、この研究報告を聞いた時は驚きました。トポロジーは20世紀に発達した純粋数学です。あてはまる例はあるものの理論が主体です。

しかし、現実課題はときとして非常に複雑なために、計算が追いつかず抽象的に述べられた理論を適用できる現実的な有用例がなかった。単純で小さなモデルならトポロジーで目に見えるように説明できても、複雑なタンパク質の構造分析には応用できなかったのです。ところが高性能のコンピュータの登場によって、高度で複雑な計算が可能となり、現実に存在する物質の構造分析にトポロジーの手法・理論を応用できるようになったのです。

このような状況が生まれれば、前述した「外の問題」に対応しようという動きや、そこから新しい学問が生まれることも期待されます。たとえば、未発見の構造を発見するにしても、ただ漫然と実験を繰り返してもなかなか成果が得られないことも多いですし、実験が足りているのかどうかを判断するのが難しいこともあります。

しかし、数学的な理論と計算によって「この部分に未発見の構造が存在するはずだ」と特定できれば、実験を通じて発見をすることもより容易になることもあります。

―電算機の発達と言えば、AI技術も急速に発達しています。この技術もライフサイエンス領域に寄与できるのでしょうか。

若山:現在のAIは、自身の回答に対してその過程や理由を説明することができないという課題があります。ここがブラックボックスのままでは、安心して、社会応用できないと考えています。

その一方で、画像診断など視覚に依存する領域については、AIによって相当な部分が代替可能になるでしょう。また、「結果の均一化」にも優れています。ライフサイエンス関連の研究は、研究者の手技や主観に依存する部分もが大きく、他者による結果の再現が難しいという課題があります。

もし、実験機器にロボットを通じてなどAIを円滑に導入できれば、研究者による実験結果の誤差を減らし、実験の再現性を高めることが可能になります。それは「科学研究の適正化」という意味でも歓迎すべき流れです。とはいえ、いかに優れたAIが登場しても、最後に判断をするのは人間の仕事として残ると思えます。今後は、人間と AI がどう協働していくかという点にかかっています。

異分野の研究者が対等な立場で議論できる場が大切

―数学はライフサイエンスの発展に大きな役割を果たしそうですね。

若山:数学は非常に面白い学問です。しかしながら、なぜ物理学など他の領域で数学が役立つのかについて、私たちはうまく説明するロジックを数学の中にも外にも持ちません。かのアインシュタインをして、「経験とは独立した思考の産物である数学が、物理的実在である対象とこれほどうまく合致しうるのはなぜなのか?」といわしめたほどです。

事実、数学が現実の社会に応用できるというのは実は不思議なことなのです。しかし、数学は他の学問の課題解決に役立ってきました。その中には、「素因数分解と公開鍵暗号技術」のように、発見後2,500年以上を経てから社会実装された事例もあるほどです。また、CT(コンピュータ断層撮影)の原理は数学者J.Radonが発見しているという例もありますので、生物学や生命科学の分野でも、数学の活用が進み始めるでしょう。

九州大学が学術交流協定を締結しているイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校は、新たに機械学習などの数学や統計学と物理学の教育にも重点を置いた医学部を新設しました。これまでは生物や化学を修めていることが医学部の前提でしたが、今後は、たとえばAIを医療現場で正しく利活用できるような医師、あるいは流体力学が理解できるような医師を育成するためでしょう。

これからは、日本の医学教育においても、そうした視点が求められると思われます。私もまた、「ライフサイエンスと数学を結びつける活動をしたい」と考えています。

―最後にLINK-Jに対する期待をお聞かせください。

若山:産学や分野の異なる立場の人たちが、対等にそれぞれの立場から協働ができる場所は、非常に貴重であり有用です。これまでにも、たとえば医学部主導のコホート研究での統計学的解析を数学研究者が依頼されることはありましたが、それはあくまでも助手的な役割に過ぎず、研究の根幹には関与していませんでした。これでは数学の方も、真面目ではあっても本気になりません。

それに対して、最近の「医工連携」では、医学部と工学部の研究者が共同プロジェクトとして、最初から、対等な立場で、共同研究を推進しています。今後は数学研究者の立ち位置もそうであるべきだと思っていますし、LINK-Jにはその牽引役としての役割を期待しています。