障害者における「移動の平等」

星加良司氏(以下、星加):ただいまご紹介いただきました、東京大学の星加です。よろしくお願いいたします。

実はこのセミナーは、もともと私が話をさせていただく予定ではございませんでした。同じ東京大学の同僚なんですが、熊谷晋一郎さんという、この業界のスーパースターがおりまして。ひょっとすると、今日お越しのみなさんにも、「熊谷さんに会える」ということでいらした方がおられるかもしれないんですが。ちょっと急遽体調不良等があったということで、代打を命ぜられまして、私がしゃべることになっています。

ですので、十分な話をさせていただけるかどうか、少し不安な部分もあります。ぜひみなさんには、私から話をする内容をただ聞いて帰るのではなく、この機会に聞いてみたいこととか、ふだん考えていること……「こんなことを考えているんだけれども、これはどうなんだろうか?」みたいな話についても(意見を)出していただいて。

それをもとにやりとりをして、今日のテーマになっている「移動の平等」という問題についての理解を、お互いに深めていければいいかなと思っています。ぜひ、ご協力のほどよろしくお願いします。

最後に少し時間を取って、みなさんとやりとりをさせていただこうかと考えていますので、なにか(ご意見やご質問を)ご用意いただければありがたいかなと思っています。

さて、改めて今日のテーマは「移動の平等」ということになっています。こうしたテーマが立てられているということは、裏を返せば、「移動」に関してさまざまなかたちで「平等ではない状態」が現実に存在しているということですね。

実は、これは国際的にも共有された考え方になっています。まだまだこの世の中には、さまざまなかたちで(移動の)権利が侵害されている人たちがいる。そうした人たちに権利があることは、改めて言うまでもなく当たり前のことなんですけれども。

「権利がある」とお題目として唱えるだけでは、その状況は改善しないので、具体的に権利保障をするための枠組みを、世界的な基準を作って進めていかなければいけないということになりました。

みなさんもご承知だと思いますけれども、2006年に「障害者権利条約」が国連で採択されました。日本政府も……2014年ですから、もう5年ほど前になりますけれども、その条約を締結し、「条約で定められたルールを守るよ」という宣言をしたことになっております。

障害者権利条約の条文を読み解く

条約では、さまざまな分野でまだまだ権利が十分に保障されていない状況があると認識されています。そのうちの1つの大きなポイントとして、「移動」の問題がクローズアップされています。

まず第20条では、「締約国は、障害者自身ができる限り自立して移動することを容易にすることを確保するための効果的な措置をとる」と規定されています。「締約国」とは、「条約に批准した国」のことです。つまり、日本を含めた締約国に、こうした措置をとることが義務付けられているというのが、この条約の中身です。

ここで書かれている「自立して移動することを(容易に)できるようにする」というのが、1つのポイントになっている。1つの条文を割いて、そうしたことが規定されています。逆に言えば、「今はそうではない」ということの裏返しでもあります。

私たちは日常生活の中で、さまざまなかたちで移動をする。今日のシンポジウムにお越しいただくために、みなさんも移動してきていただいたのだと思いますけれども、そのように日常生活の中に「移動」というものは、欠かせないものとしてあるわけです。

「そもそも、何のために移動する必要があるのか?」ということについても、考えてみます。例えば(障害者権利条約の)第9条には、「締約国は、障害者が自立して生活し、及び生活のあらゆる側面に完全に参加することを可能にする」……うんぬんと書かれています。

私たちが送っている社会生活・日常生活のあらゆる側面に、「自立したかたちで完全に参加することが、可能にならなければいけない。そのための1つの手段として、『移動の問題』というものもありますよ」というのが、この第9条と先ほどの第20条を併せて読んだときの理解になるかと思います。

「余暇」も重要な要素である

さらに生活の中でも、さまざまな(「移動」の)領域があります。例えば生活の中には「仕事に行く」ということもあるでしょうし、「学びに行く」ということもあるでしょうし、「遊びに行く」ということもあるわけですね。私たちは、そうしたさまざまな活動を生活の中に組み込むことによって、意味のある人生を送れるようになっているわけです。

「生活のあらゆる側面」と言ったときには、当然「あらゆる」側面を含めて考えるべきなのですが、例えば「仕事をしに行く」「学校に行く」「遊びに行く」と3つ並べたときに、みなさんはどれが重要だと思われるでしょうか? 

「仕事」か「勉強」のどちらかを挙げる人が多いのではないでしょうか。今日会場にお越しのみなさんは非常に学習意欲の高い層の方々だと思われますので、「仕事」以外に「学び」も大切にしておられる方が多いかもしれませんね。

一方で、「『仕事』とか『勉強』は重要そうだけど、『遊びに行く』のはそうでもないかな?」と思う方もおられるかもしれません。ですが、障害者権利条約には「遊び」、すなわち「余暇生活」にアクセスすることも、重要な要素として定められています。

第30条には、「(締約国は、障害者が他の者との平等を基礎として)文化的な生活に参加する権利を認めるものとして……」と書かれていて。この「文化的な生活」の中に、「余暇を楽しむ」ということも含まれています。「それを権利として保障しなさいよ」と国に求めているわけですね。

確かに「仕事」や「勉強」という、いわゆるまじめな活動というか、社会の中で重要性が承認されやすいような活動について、それを妨げている要因・バリアを取り除いて権利を保障していくというのは、社会的にもコンセンサスが得られやすい。

そういう「大事なこと」をすることができなくなっている人たちがいるのであれば、それができるようにしていくこと、「そこを平等化していくことは重要だ」ということについては、理解が得られやすいんです。

日本では「文化的な生活」へのコンセンサスが異なる

(一方で)「文化的な生活」というのは、「余暇」という言葉の中にも表れていますけれども、「なんか、余っている部分でやることでしょ?」というニュアンスが、少なくとも日本語の語感には含まれているわけで。「そうしたものはプラスアルファの部分だから、できるに越したことはないかもしれないけれども、後回しでもいいかもしれない」とかですね。

少なくともそれは、社会的な重要性……社会が権利保障をしていくという意味でのテーマとしては、重要性が低いんじゃないかという認識が、実はかなり広がっている。とくに日本では、この「文化的な生活」あるいは「余暇の権利」ということについては、注目度が比較的低いんじゃないかと言われています。

実は、去年の秋に台湾へ行ってきたんです。「障害者の余暇とスポーツ」がテーマになっている国際学会で、そこでは「『遊ぶことは非常に重要だ』というのは、台湾ではけっこうコンセンサスになっている」という話を聞きました。

そのあたりの位置付け方も文化差と言いますか、それぞれの社会の中で捉え方に多様性があるんだなということを、あらためて感じたところでもあります。少なくとも日本では、ちょっとこのあたりは、重要性が一段低い問題として取り扱われやすいと思います。

しかしこれらは、やはり極めて重要なニーズなんですよね。先ほども(申し上げましたが)我々の生活には、さまざまな側面があって、それら……例えば「仕事」と「学び」と「遊び」の3つを、どういう度合いでミックスするかというのは、個人の自由です。まさに、そこにこそ個性が現れると言ってもいいのかもしれないですよね。

ただ、どの要素を欠いても、「私たちの人生を有意義なものにする」という観点からは問題が生じると言えるだろうと思います。もちろん、選べるけれどもあえて選ばない……つまり、「私はもう仕事はしません」という選択を、あえてする。あるいは「遊びは一切しない、ストイックな人生に価値を見出すんだ」ということを、あえて選択するのは当然あり得るし、それもまた個性ですけれども。

しかし、いずれにせよ、「生活のこの側面については、やりたいと思ってもできない」「アクセスしようと思ったときに、大きな障壁がある」という状態があることは、やはり私たちの人生の選択肢の幅を大きく制約してしまうことになりますし、それによって、人生の豊かさというものが失われることにもなってくるわけですね。

障害者に対する「配慮」は十分なのか?

ということで、「移動」の問題を考えるときに、私たちは単に「最低限のニーズを満たすための『移動』の手段が確保されればいい」ということではなくて。その人が、そのときにやりたい方法で……これが、まさに「自立して」ということですけれども。

また、その人が選んだ生活の側面に参加することが可能になるような「移動の自由」というものが、確保されていなければならないと考える必要があるわけです。「にもかかわらず、そうした意味での不平等が今の社会に存在し続けていることが問題だ」ということが、権利条約などの理念的・規範的な表現からも、読み取ることができるだろうと思います。

ここまでのお話で、「『移動の平等』が重要だ」というところまでは、みなさんとある程度認識が共有できたのではないかと思います。その上で、「じゃあ、その『移動の平等』を実現していくために、今求められていることは何か?」を考えるために、少しみなさんにお考えいただきたいことがあります。

障害者権利条約では、国に対して、「障害者自身ができる限り自立して移動することを容易にすることを確保するための効果的なさまざまな措置をとれ」と書いてありましたよね。

ここで、誰に対して措置をとるのかと言うと、それは移動が十分に権利として確保されていない人たち、つまり「障害者」に対してということになります。「そうした障害者が移動できるようなさまざまな措置を、これから各国で取ってください」ということを書いていたわけです。

そのことから、おそらくみなさんは、「これまでも障害者に対する配慮はいろいろやられてきているけれど、まだまだそれが足りないんだ」「まだまだできることがあるにもかかわらず、それが不十分な状態であるために、『移動の自由』や『移動の平等』が達成されていないんだ」と理解されるのではないでしょうか。

さて、ここで、現在の社会で「移動」に関する配慮をより多く受けているのは、障害のある人か、障害のない人かについて考えてみてください。

おそらく、一般的で素朴な理解としては、障害者というのはいろいろなかたちで配慮や支援が必要な人たちだから、これまでも社会の仕組み・制度として、あるいは自発的な取り組みとして、障害者に対する配慮はそれなりにやられてきた。もちろん、それでもまだ足りない部分はあるだろうし、それは問題だけれども、障害のない人と比べれば、障害者に対する配慮は多くなされているはずだ、というのが一般的な理解のあり方ではないかと思うんですね。