障害者における「移動の平等」

星加良司氏(以下、星加):ただいまご紹介いただきました、東京大学の星加です。よろしくお願いいたします。

実はこのセミナーは、もともと私が話をさせていただく予定ではございませんでした。同じ東京大学の同僚なんですが、熊谷晋一郎さんという、この業界のスーパースターがおりまして。ひょっとすると、今日お越しのみなさんにも、「熊谷さんに会える」ということでいらした方がおられるかもしれないんですが。ちょっと急遽体調不良等があったということで、代打を命ぜられまして、私がしゃべることになっています。

ですので、十分な話をさせていただけるかどうか、少し不安な部分もあります。ぜひみなさんには、私から話をする内容をただ聞いて帰るのではなく、この機会に聞いてみたいこととか、ふだん考えていること……「こんなことを考えているんだけれども、これはどうなんだろうか?」みたいな話についても(意見を)出していただいて。

それをもとにやりとりをして、今日のテーマになっている「移動の平等」という問題についての理解を、お互いに深めていければいいかなと思っています。ぜひ、ご協力のほどよろしくお願いします。

最後に少し時間を取って、みなさんとやりとりをさせていただこうかと考えていますので、なにか(ご意見やご質問を)ご用意いただければありがたいかなと思っています。

さて、改めて今日のテーマは「移動の平等」ということになっています。こうしたテーマが立てられているということは、裏を返せば、「移動」に関してさまざまなかたちで「平等ではない状態」が現実に存在しているということですね。

実は、これは国際的にも共有された考え方になっています。まだまだこの世の中には、さまざまなかたちで(移動の)権利が侵害されている人たちがいる。そうした人たちに権利があることは、改めて言うまでもなく当たり前のことなんですけれども。

「権利がある」とお題目として唱えるだけでは、その状況は改善しないので、具体的に権利保障をするための枠組みを、世界的な基準を作って進めていかなければいけないということになりました。

みなさんもご承知だと思いますけれども、2006年に「障害者権利条約」が国連で採択されました。日本政府も……2014年ですから、もう5年ほど前になりますけれども、その条約を締結し、「条約で定められたルールを守るよ」という宣言をしたことになっております。

障害者権利条約の条文を読み解く

条約では、さまざまな分野でまだまだ権利が十分に保障されていない状況があると認識されています。そのうちの1つの大きなポイントとして、「移動」の問題がクローズアップされています。

まず第20条では、「締約国は、障害者自身ができる限り自立して移動することを容易にすることを確保するための効果的な措置をとる」と規定されています。「締約国」とは、「条約に批准した国」のことです。つまり、日本を含めた締約国に、こうした措置をとることが義務付けられているというのが、この条約の中身です。

ここで書かれている「自立して移動することを(容易に)できるようにする」というのが、1つのポイントになっている。1つの条文を割いて、そうしたことが規定されています。逆に言えば、「今はそうではない」ということの裏返しでもあります。

私たちは日常生活の中で、さまざまなかたちで移動をする。今日のシンポジウムにお越しいただくために、みなさんも移動してきていただいたのだと思いますけれども、そのように日常生活の中に「移動」というものは、欠かせないものとしてあるわけです。

「そもそも、何のために移動する必要があるのか?」ということについても、考えてみます。例えば(障害者権利条約の)第9条には、「締約国は、障害者が自立して生活し、及び生活のあらゆる側面に完全に参加することを可能にする」……うんぬんと書かれています。

私たちが送っている社会生活・日常生活のあらゆる側面に、「自立したかたちで完全に参加することが、可能にならなければいけない。そのための1つの手段として、『移動の問題』というものもありますよ」というのが、この第9条と先ほどの第20条を併せて読んだときの理解になるかと思います。

「余暇」も重要な要素である

さらに生活の中でも、さまざまな(「移動」の)領域があります。例えば生活の中には「仕事に行く」ということもあるでしょうし、「学びに行く」ということもあるでしょうし、「遊びに行く」ということもあるわけですね。私たちは、そうしたさまざまな活動を生活の中に組み込むことによって、意味のある人生を送れるようになっているわけです。

「生活のあらゆる側面」と言ったときには、当然「あらゆる」側面を含めて考えるべきなのですが、例えば「仕事をしに行く」「学校に行く」「遊びに行く」と3つ並べたときに、みなさんはどれが重要だと思われるでしょうか? 

「仕事」か「勉強」のどちらかを挙げる人が多いのではないでしょうか。今日会場にお越しのみなさんは非常に学習意欲の高い層の方々だと思われますので、「仕事」以外に「学び」も大切にしておられる方が多いかもしれませんね。

一方で、「『仕事』とか『勉強』は重要そうだけど、『遊びに行く』のはそうでもないかな?」と思う方もおられるかもしれません。ですが、障害者権利条約には「遊び」、すなわち「余暇生活」にアクセスすることも、重要な要素として定められています。

第30条には、「(締約国は、障害者が他の者との平等を基礎として)文化的な生活に参加する権利を認めるものとして……」と書かれていて。この「文化的な生活」の中に、「余暇を楽しむ」ということも含まれています。「それを権利として保障しなさいよ」と国に求めているわけですね。

確かに「仕事」や「勉強」という、いわゆるまじめな活動というか、社会の中で重要性が承認されやすいような活動について、それを妨げている要因・バリアを取り除いて権利を保障していくというのは、社会的にもコンセンサスが得られやすい。

そういう「大事なこと」をすることができなくなっている人たちがいるのであれば、それができるようにしていくこと、「そこを平等化していくことは重要だ」ということについては、理解が得られやすいんです。

日本では「文化的な生活」へのコンセンサスが異なる

(一方で)「文化的な生活」というのは、「余暇」という言葉の中にも表れていますけれども、「なんか、余っている部分でやることでしょ?」というニュアンスが、少なくとも日本語の語感には含まれているわけで。「そうしたものはプラスアルファの部分だから、できるに越したことはないかもしれないけれども、後回しでもいいかもしれない」とかですね。

少なくともそれは、社会的な重要性……社会が権利保障をしていくという意味でのテーマとしては、重要性が低いんじゃないかという認識が、実はかなり広がっている。とくに日本では、この「文化的な生活」あるいは「余暇の権利」ということについては、注目度が比較的低いんじゃないかと言われています。

実は、去年の秋に台湾へ行ってきたんです。「障害者の余暇とスポーツ」がテーマになっている国際学会で、そこでは「『遊ぶことは非常に重要だ』というのは、台湾ではけっこうコンセンサスになっている」という話を聞きました。

そのあたりの位置付け方も文化差と言いますか、それぞれの社会の中で捉え方に多様性があるんだなということを、あらためて感じたところでもあります。少なくとも日本では、ちょっとこのあたりは、重要性が一段低い問題として取り扱われやすいと思います。

しかしこれらは、やはり極めて重要なニーズなんですよね。先ほども(申し上げましたが)我々の生活には、さまざまな側面があって、それら……例えば「仕事」と「学び」と「遊び」の3つを、どういう度合いでミックスするかというのは、個人の自由です。まさに、そこにこそ個性が現れると言ってもいいのかもしれないですよね。

ただ、どの要素を欠いても、「私たちの人生を有意義なものにする」という観点からは問題が生じると言えるだろうと思います。もちろん、選べるけれどもあえて選ばない……つまり、「私はもう仕事はしません」という選択を、あえてする。あるいは「遊びは一切しない、ストイックな人生に価値を見出すんだ」ということを、あえて選択するのは当然あり得るし、それもまた個性ですけれども。

しかし、いずれにせよ、「生活のこの側面については、やりたいと思ってもできない」「アクセスしようと思ったときに、大きな障壁がある」という状態があることは、やはり私たちの人生の選択肢の幅を大きく制約してしまうことになりますし、それによって、人生の豊かさというものが失われることにもなってくるわけですね。

障害者に対する「配慮」は十分なのか?

ということで、「移動」の問題を考えるときに、私たちは単に「最低限のニーズを満たすための『移動』の手段が確保されればいい」ということではなくて。その人が、そのときにやりたい方法で……これが、まさに「自立して」ということですけれども。

また、その人が選んだ生活の側面に参加することが可能になるような「移動の自由」というものが、確保されていなければならないと考える必要があるわけです。「にもかかわらず、そうした意味での不平等が今の社会に存在し続けていることが問題だ」ということが、権利条約などの理念的・規範的な表現からも、読み取ることができるだろうと思います。

ここまでのお話で、「『移動の平等』が重要だ」というところまでは、みなさんとある程度認識が共有できたのではないかと思います。その上で、「じゃあ、その『移動の平等』を実現していくために、今求められていることは何か?」を考えるために、少しみなさんにお考えいただきたいことがあります。

障害者権利条約では、国に対して、「障害者自身ができる限り自立して移動することを容易にすることを確保するための効果的なさまざまな措置をとれ」と書いてありましたよね。

ここで、誰に対して措置をとるのかと言うと、それは移動が十分に権利として確保されていない人たち、つまり「障害者」に対してということになります。「そうした障害者が移動できるようなさまざまな措置を、これから各国で取ってください」ということを書いていたわけです。

そのことから、おそらくみなさんは、「これまでも障害者に対する配慮はいろいろやられてきているけれど、まだまだそれが足りないんだ」「まだまだできることがあるにもかかわらず、それが不十分な状態であるために、『移動の自由』や『移動の平等』が達成されていないんだ」と理解されるのではないでしょうか。

さて、ここで、現在の社会で「移動」に関する配慮をより多く受けているのは、障害のある人か、障害のない人かについて考えてみてください。

おそらく、一般的で素朴な理解としては、障害者というのはいろいろなかたちで配慮や支援が必要な人たちだから、これまでも社会の仕組み・制度として、あるいは自発的な取り組みとして、障害者に対する配慮はそれなりにやられてきた。もちろん、それでもまだ足りない部分はあるだろうし、それは問題だけれども、障害のない人と比べれば、障害者に対する配慮は多くなされているはずだ、というのが一般的な理解のあり方ではないかと思うんですね。

「『配慮』の不平等」の真意

つまり、仮に配慮の「不平等」があるとするならば、単純な配慮の量に関しては障害者のほうにたくさんあって、障害のない人のほうには少なくなっているという意味での「不平等」がある、というのが素朴な理解だと思います。

ところが、静岡県立大学の先生で、障害者権利条約に関するモニタリングの委員会……権利条約を締結した国が、ちゃんとその条約のルールを守ってやっているかをモニターする機関でも大変活躍しておられる石川准さんという方は、先ほど言った「素朴な理解」とはまったく逆の議論をしています。

すなわち、むしろ障害のない人に対してたくさんの配慮がなされていて、それに比べて、障害のある人に対しては少なくしか配慮がなされていないんだ。そういう意味での不平等があるんだと、石川さんは言っているんです。おそらく、一般的なイメージとはちょっとズレていますよね。

では、なんでそんなことが言えるのかというと、例えば今日の会場に来るときに、電車に乗って来られた方もおられると思いますし、車や徒歩で来られた方もおられるかもしれません。その際、例えば今日の会場にたどりつくために、行き先や目的地がどちらなのかということを示すための、さまざまな視覚情報を頼りにここまでいらっしゃったのではないでしょうか。

目で見てわかるサインや文字情報、あるいは、図や絵や写真もあったかもしれません。つまり、現在地と目的地との関係を示して、「どちらに進めば目的地に行けるのか」を伝えるためのさまざまな方法が、視覚的・ビジュアル的なかたちで、たくさん提供されていたと思います。

もっと単純な話で言えば、信号機があります。「あります」とあらためて言わなくても、みなさんはご存じですけれども(笑)。信号機って、別になくても移動できますよね? みなさん。

信号機がなくても移動はできるんですが、しかしその中でも、安全性をより高めるためにああいうものを作って、移動をより「便利に」というか「快適に」というか、そうできるように配慮されています。あれも基本的には、視覚的な手段によって情報が伝わる。色の変化によって情報が伝わる。そのように、我々の移動を円滑にするための配慮が、街のあらゆるところに存在しているわけですね。

他方で、こうした「ビジュアルの情報」にアクセスできない人たちにとって、同じような役割をする設備・配慮というものは、どの程度あるだろうか? と考えたときに、おそらく圧倒的に少ない数でしか、そうした目的地へ行くための必要な情報であるとか、あるいは移動を円滑にしたり安全にしたりするための情報提供というものは、なされていない。

音の出る信号機が付いていると、「これは障害者向けの特別な配慮だから、障害のない人たちには必要のない配慮が追加的に行われている」と私たちは思いがちです。しかし、実はそうではないんです。私たちの社会を作っていく過程の中で、障害のない標準的な身体機能を持った人たち向けの配慮というのは、すでにたくさん埋め込まれていて。それがあることが、すでに当たり前になっている。

つまり、「それが配慮だ」ということにすら気づかない程度に、私たちはそのことを「当たり前だ」として受け止めてしまっているので、あたかも「障害のない人に対しては、配慮がない」ように見えているんだけれども、よく考えてみると、障害のない人や標準的な人たちに向けての配慮のほうが、実は世の中にはたくさんある。「この(『配慮』の)不平等を是正していくことが、社会に求められていることなんだ」というのが、石川准さんの主張です。

障害者は「依存先」の量が少ない

それから、本来今日登場するはずだった熊谷(晋一郎)さんも、同じような趣旨で、「依存」についての議論をしています。

「障害のある人と障害のない人は、どっちが依存的か?」という問いを投げかけられると、みなさんはどうお答えになるでしょうか? 

これもおそらく、素朴な理解としては、「障害者のほうが、いろいろとやってもらわなきゃいけないこともあるし、他人に頼らなきゃいけないこともありそうだから、依存的なんじゃないの?」「障害のない人は、少なくとも大人になればあまり依存的ではなくなる、自分のことは自分でできるという意味での自立的な存在になる」と思う人が、多いんじゃないかと思います。

実はこれも逆だというふうに、熊谷さんは言っています。熊谷さんがこの話をするときに例に挙げるのが、東日本大震災のときの話です。2011年3月11日に、熊谷さんは東大の駒場第2キャンパスの研究室にいたんです。私も以前は同じところにいたんですけれども、5階にあるんですね。

5階にある研究室で、仕事をしていたと。ちなみに熊谷さんは、脳性麻痺の障害を持った車椅子ユーザーです。それで、地震が起きたので避難しようと思って移動を始めたら、エレベーターが止まっていたということで、エレベーターの前に行った熊谷さんは愕然とします。

そりゃそうですよね。ふだんはエレベーターを使って5階と1階の間を行き来しているんだけれども、それが使えないということがわかった瞬間に、熊谷さんは避難する手段を失ったわけです。

結果的には、その場に人がいて、担いでもらって降りることができたそうなのですが、人がいるかどうかは偶然なので、非常に危うい綱渡りの状況だったといえます。エレベーターの前で一瞬愕然とした熊谷さんの思いというか、そのときの感情は、推測できますよね。

そのエピソードを通じて熊谷さんが何に気づいたかと言うと、「実は、自分はエレベーターという1つの手段にしか、依存できていなかったんだ」ということなんですね。

逆に、普通の……というか「歩ける人」は、移動する手段がほかにいくらでもある。階段という移動手段にも依存することができるし、階段も非常階段と通常の階段がありますよね。最終的には、縄ばしごを使って降りるみたいなこともあると。

つまり障害のない人、立って歩ける人間というのは、移動に関して日ごろからさまざまな依存先を用意されている人たちなんだと。それに比べて、熊谷さんにとっての依存先は、(エレベーターの)1個しかなかった。

つまり、依存先の単純な量、「どのくらいたくさんの依存先があるか」については、実は健常者のほうがたくさん持っている。障害者は、少ない依存先しか持っていない。その意味では実は健常者のほうが依存的で、「依存できる状態で、日常を過ごしていたんだ」ということに、気づいたという話なんですね。

「自立」と「依存」に対する新たな解釈

先ほど(障害者)権利条約のときにも、「自立」というキーワードが何度も出てきました。移動も「自立」したかたちでできなければいけないと。要は誰かによって決められた手段ではなくて、「自分がやりたいように、自分が必要だと思うところに、自分が必要だと思うタイミングで移動すること」ができなければいけないということでした。

この「自立」と「依存」との関係についても、熊谷さんは思考を展開して、おもしろいことを言っているんですね。普通、「自立」と「依存」というのは、反対の意味を持っていると言われています。

英語で言うと自立が「independence」、依存が「dependence」ですから、まさに逆の意味だということなんですね。つまり、「依存的であるということは、自立的ではない」「自立的であるということは、依存的ではない」という関係になっていると、一般的には思われているんだけれども、「実はそうじゃないんじゃないか?」と熊谷さんは言うんです。

さっきの「健常者と障害者で、依存先が不平等になっている」という話を思い出していただければと思います。依存先がたくさんある人のほうが(手段を)選べるわけですよね。選べるということは、どこか1つがダメになってもほかの手段を選ぶことができるし、その分だけ他人あるいは外的環境から影響・制約を受けずに、自分のやりたいことができるような状況が整っている。

つまり、「依存先がたくさんあればあるほど、自立的になるんだ」ということに、熊谷さんは気づくわけです。その意味では、「なぜ障害者が自立的ではないのか?」というか、「自立的に移動したり生活したりすることが難しいのか?」と言うと、それはまさに「依存先が少ないからである」ということを発見するわけですね。

そうした観点からも、依存先というものが実は不平等に配分されていて、その「不平等さ」というものは、一般的に思われているように障害者のほうが依存的なのではなくて、むしろ「健常者のほうが依存的」になることのできる環境が、現代社会に備わっている。

そのことによって、依存先の少ない障害者は、非常に大きな制約・不平等を経験させられているんだと。このように考えると、その意味での不平等を是正していくことが、今の社会に求められていることになると思います。

「現実的」という定義の誤解

「平等」に向かうためのさまざまな社会的な仕掛けというものが、私たちの社会では用意され始めています。その1つが、冒頭でご紹介した障害者権利条約というものです。

それだけではなくて、国内の法整備も進んできています。いわゆる(身体障害者)補助犬法であったりバリアフリー法であったり、障害者総合支援法、それから障害者差別解消法。細かく言えば、その他にもいろいろあります。

こうしたさまざまな法律、つまりルールを設けることによって、これまで不平等なかたちで存在してきた「配慮」や「依存」のあり方を、少しでも是正していく。つまり、障害者にも使える「配慮」や「依存先」を増やしていくことを、こうした法的な枠組みを通じて実現していこうという取り組みが進められています。

ということで、「移動の平等」とは、なにも「すでにさまざまな配慮がなされている、さまざまなサポートがなされている障害者に対して、『もっとよこせ』」という話をしているわけではなくて。まさに「平等を実現しよう」という理念だということになります。

これは、尊重しなければならない理念だろうと思います。ただ、理念は理念として、一足飛びにその理念・理想を実現することは難しいかもしれないので、現実的なアプローチが求められるということも、一方では真実だろうと思います。

ただ、ここで少し気をつけたいことは、「現実的な取り組み」「現実的なアプローチ」というのは、「理念を諦めて現実を追認する」「現実を温存する」ということで、あってはいけないということです。

「現実的」という言い方って、けっこうこういう意味で使われがちなんですよね。「そりゃあ理想はわかるけど、現実はそんなに簡単じゃないんだから現実的に考えろよ」というのは、要は「理想を諦めよう」というメッセージとして使われることが、けっこう多いんですが。そういうかたちで「現実的な取り組み」というものがなされては、まずいんだろうと思います。

あくまでも、先ほど確認した「移動の平等」という理念に近づけるために、「現実のどの部分を、どうやって変えられるのか?」ということを「着実に考えていく」という意味での「現実的な取り組み」でなければならないだろうと思います。

もちろん「移動の平等」とは、単に物理的な環境整備とか、あるいは交通事業社の事業内容としての「接遇の向上」という話だけで解決するものではなくて。もっと幅広く、社会全体・街全体……当然そこに暮らしている普通の人も含まれますけれども、それらをひっくるめた環境要因をトータルで変えていく取り組みが必要になってくる。

実はそのことは、障害者差別解消法などの法的な枠組みの中でも明言されていまして、「社会的障壁を取り除くことが重要なんだ」と書かれています。

「社会的障壁」とは、物理的な意味でのバリアだけではなく、社会における事物・制度・慣行・観念・その他一切のものを含みます。こうしたあらゆる要素が障害者の社会参加を妨げるかたちで機能してしまっていることを認識して、その「あらゆるもの」を取り除いていくことが求められているわけです。そのことを通じて「移動の平等」という理念に近づけていくことが、私たちに求められている。

「当たり前」の中に障壁と不平等を見出す

そのためにはまず、そもそも何が「社会的障壁」で「平等を妨げているもの」になっているのかを、発見し知らなければいけないということです。そのことを発見したうえで、「じゃあ、どうすればそれが解決できるのか?」「完全な解決はできなくても、多少緩和できるのか?」という思考を巡らせて、方法を考えていくことが、次に必要になります。

そのうえで、「今できることは何なのか?」という、具体的な行動オプションが続いてくるということなんだろうと思います。このように考えると、実は、この「社会的障壁を取り除く」というアプローチは、けっこう複雑な知的作業をともなうというか、いろいろと考えなければいけないことがあるということですよね。

今、私たちがまさに「当たり前のもの」として受け入れている社会環境の中に、「実はこの部分は『障壁』なんじゃないか?」とか「『不平等』なんじゃないか?」というものを発見していくには、そのための目の付けどころが重要になってきます。日ごろから、そうした視点を鍛えていくことも重要です。

そのうえで、具体的な方法論につなげていくためには、さまざまな知識を身につけることも重要かもしれないし、柔軟な発想や柔軟な思考をするようなトレーニングをしていくことも、必要かもしれません。

そうした一連のプロセスの中で、それぞれの人が、すぐに取り組めることが必ずあるはずです。「『平等』という理念に近づけるために、今できることは何なのか?」ということを社会全体で一緒に考えていけるような、そうした構えというか機運というか、そういう社会的な空気・雰囲気を作っていくことが大切です。そうすることで、障害者に対してだけではなく、さまざまなかたちで不均衡な社会構造による困難・制約を受けている人たちに対して、生きやすい社会につながっていくんだろうと思うところです。

ということで、あと5分くらい時間がありますので、みなさまからご質問・ご意見・コメントなどがありましたら、ぜひおうかがいできればと思います。いかがでしょうか? 

司会者:先生、ありがとうございます。もし会場からご質問があるようでしたら、ぜひこの機会にいかがでしょうか? 1つか2つ、お答えいただける時間はあるかなと思います。

(会場挙手)

司会者:ありがとうございます。

「移動」に対する、さまざまな解釈

質問者:ありがとうございました。「移動の平等」という言葉ですが、例えば「ある障害を持っていて、駅の構造の問題で電車に乗れない」といったときに、それを代替するような別の交通手段を提供することは、ここで言うところの「平等」になるのでしょうか? あるいは、やはりそれは「電車に乗れるようにしなきゃいけない」ということを言っているのでしょうか?

星加:ありがとうございます、非常にいいご質問だと思います。「『移動』って、何のためにするのか?」という話とも、非常に密接に関わっていると思うんですね。確かに「移動」とは、「移動した先で、なにかをするために『移動』する」という側面が1つありますよね。まさに「『手段』として『移動』する」という側面です。

この意味で言えば、(「移動」とは)とにかく行ければいいわけですね。「移動先に到達すればいい」ということなので、実は、手段は何であってもかまわないかもしれません。その意味では、代替手段がありさえすればいいということになります。ただ一方で、「移動」には、「移動そのものによって、さまざまなものや人と『出会う』」というような、「『移動というプロセス』そのものに意味がある」という側面もありますよね。

とくに、今日の全体テーマであるアクセシブル・ツーリズムの話に引きつけて考えれば、まさに旅行というものについては、移動の中のそうした側面……移動することそのものが楽しみであったり、そこに意味が生じたりするような側面が重要になりますよね。

その意味では、例えば電車という移動手段であることによって、見える景色も違うでしょうし、そこで良くも悪くも触れ合うことになる人もいるでしょう。そうしたものに触れる機会が、「代替手段を提供する」というかたちでは、たぶん満たされないことになるんだと思います。

そういう意味では、「多くの人が用いている移動手段そのものにアクセスできる」ということも、一方では重要なんだろうと思います。このあたりのバランスがどの程度(必要)かというのは状況によって、あるいはまさに移動目的によって、違ってくると思います。

例えば、「仕事に行く」という移動手段であれば、満員の通勤電車よりもタクシーに乗せてくれるなら、そのほうがぜんぜんありがたいわけですよね(笑)。だけれども、「旅」という話になると、「実は電車がいいんだよ」という話も出てくると思います。このあたりはケースバイケースだと思いますけれども、両面があるというのは、非常に重要な視点かなと思います。よろしいでしょうか? 

司会者:星加先生、ありがとうございました。以上で、ミニセミナーの後半の部を終了いたします。質問を考えていてくださった方には、申し訳ありません。ちょっとお時間になってしまいました。先生、ありがとうございました。

星加:どうもありがとうございました。

(会場拍手)