バスも自転車もない田園で育った幼少期

アマテラス藤岡清高氏(以下、藤岡):本日は、事業内容ももちろんですが、徐社長の経営者としてのさまざまな側面についてお話をうかがえればと考えています。 まず、徐さんの生い立ちからおうかがいしたいのですが、ご出身は中国でしたね。

徐剛氏(以下、徐):はい。実家は両親と弟1人の4人家族で、父は高校の国語教師、母は中学校の数学教師でした。周りは農家の子どもばかりで、私も農作業の手伝いをしていました。家の周囲は田んぼだらけで、町へは1時間ほど歩いて行きました。バスも通っておらず、自転車もない生活は、みなさんにはイメージできないかも知れません。

8年ほど前に自分が生まれ育った場所に行ってみたのですが、「こんなに狭いところに住んでいたのか」と感じました。今の生活とは大きな違いですが、幼少時に貧しい生活に慣れていたことは、ある意味自分の強さにもなっていると思います。

「エリートは人民に奉仕を」という教育から、社会貢献の意識を抱く

藤岡:ご家庭での教育方針などで、記憶に残っているものはありますか?

:これは中国独特のものかもしれませんが、「長男はその家に責任がある」という教育を受けてきました。具体的には「自分より下の子どもは助けなければいけない」などですね。

一人っ子政策が続いていたので現在はそういう風潮は薄まっていますが、昔の兄弟の多い家庭はみんな同じような教育を受けているはずです。

藤岡:中国共産党の教育にも特徴はありましたか?

:共産党からは、「エリートは人民に奉仕する」という教育を受けました。高い教育を受けたエリートは社会に責任があるということです。そういう感覚はやはりあるので、「自分の利益を追求するのではなく、社会に対して何かしなければ」という意識は強いと思います。

藤岡:そのような教育を受けて、何か実際に行動を起こされたことはありますか。

:起業する前の、1995年に『日中児童教育基金』という組織を作りました。当時の中国はまだ貧しく、学校に行けない子どもがたくさんいました。そこで、日本での募金活動によって日中友好学校を中国に10校ほど建て、奨学金も千数百人に贈りました。

勉強だけでなく、社会活動を通じて組織を作って運営する経験も積んだことで、「次は起業をしたい」と思うようになりました。やはり中国で受けた教育が、意識の中でベースになっているのでしょう。

大学卒業後、中国政府派遣で大阪大学大学院に留学

藤岡:徐さんは中国の大学を卒業後、大阪大学大学院に留学されましたが、その背景や、その後、日本に残った経緯等について教えていただけますか?

:大学に入りましたが、私たちには卒業後の職業選択の自由はありませんでした。「大学や政府に割りあてられた仕事をする」というのが原則だったのですが、その頃に大学院進学・留学という制度が新設され、運良く海外留学の枠をいただくことができました。

その枠はロボット分野で、もともとアメリカに行く枠だったのですが、中国とアメリカの政府間の問題から廃止になり、日本に行くことになりました。日中政府の合意の下、いくつか留学先の選択肢があり、希望を書いた中で大阪大学の辻先生のところに行くこととなりました。

そして、1983年10月に来日し、修士課程・博士課程と研究を続けて1989年3月に学位をもらいました。

天安門事件勃発により帰国を断念

:学位取得後は北京大学の教員として内定を受けていましたが、就職までに半年ほどブランクがありました。そこで、その間だけ知り合いの紹介でATRという研究所で働くことにしたのですが、その時に中国で天安門事件が起きました。

その影響でもう少し日本に残ることになり、もともと所属していた大阪大学の辻研究室から声を掛けていただき、戻ることになりました。結局、助手として3年間、その後講師として3年間勤めたところで教授の定年により研究室がなくなりました。そして、1996年に立命館大学に助教授として移りました。

中国マイクロソフトで大きな刺激を受け、大学教授をしながら起業

藤岡:立命館大学在職中に起業されたわけですが、起業された背景にはどのようなことがあったのでしょうか。

:立命館で、40歳になったときに教授になりました。定年が65歳として、残り25年間そのままでは面白くない。人生1回きりですから、「もう少しチャレンジしたい」「もっと難しいことをやりたい」という思いがありました。

その頃に、サバティカル制度(注:使途に制限がない職務を離れた長期休暇のこと。大学教員に多く採られている制度)を利用して、マイクロソフトの北京にある研究所へ行きました。

そこには起業経験のある人や、アメリカのAppleやSilicon Graphics、DEC(Digital Equipment Corporation)といった会社を経由して来た人たちが数多くいて、大変刺激を受けました。

また、日本では孫正義さんがナスダックジャパンを作ったというネットニュースを見て、「日本もこれからベンチャーの時代だ」と感じました。

サバティカル終了時にはマイクロソフトに残るという選択もできたのですが、日本に帰りました。しかし、あの世界を見てしまうと起業への思いが強くなりました。

藤岡:起業のリスクなどは恐くありませんでしたか?

:ありませんでした。それまでは起業するどころか会社員の経験もなかったのに、変な自信がありました。日本に帰ったのが2000年9月で、会社を作ったのは12月。準備も何もなく、とにかく起業したという感じです。

大学での仕事をしながら起業しました。前例はなかったのですが、立命館は産学連携で有名な大学でもあったので、何とかOKがもらえました。

プロジェクト失敗により、社員が半減する事態に

藤岡:起業されて18年間続けていらしたわけですが、その間にはさまざまな困難を乗り越えていらしたことと思います。例えば、起業当初の資金等はどうされたのですか?

:お金に関しては、いつも運が良かったです。

登記後に、研究室としてある展示会に出展したのですが、ある会社から「これを作ったら、売ってあげる」と言われました。そこで、「作るのにお金がいるから、先に支払いをお願いしたい」と言ったところ、2000万円を貸してくれました。それを元に作った製品を彼らが販売し、売ったお金で借金を返すというような契約でした。大恩人です。

そして、当初の有限会社としての登記を、資本金を足して株式会社に変更しました。株式会社にするとベンチャーキャピタルからの出資が可能となり、その後ジャフコから出資を受けることができました。

ただ、そうやって集まったお金はすぐに使ってしまいました。社員を十数名まで一気に増やしましたが、マネジメントが追い付かず、結局半減したのです。

私を含め、創業メンバーは技術者としては良いのですが、マネジメントができる人間はいませんでした。良い技術者が良いマネジメントをできるわけではなく、それにはまた別のスキルが必要だということです。そして、外部から幹部を採用してみたのですが、結局うまく行きませんでした。

藤岡:もう少し具体的にお聞かせいただけますか?

:あるプラント開発企業が新しい事業分野に参入した際、彼らの持つプラントの図面や写真を私たちがコンピュータの中で三次元化してメンテナンス計画を立てるという取り組みをしました。しかし、先方要望が私たちの得意分野から少しずつズレてしまい、結局失敗に終わりました。その頃に、社員が半分ほど辞めてしまったのです。

私自身のマネジメントが良くなかったのだと反省しました。色々な意味で見通しが甘かったのでしょう。

プロジェクト失敗により、本来進むべき方向が明確に

藤岡:プロジェクトが頓挫し、社員が減ってしまい、その後会社はどうなったのですか?

:結果的には、必ずしも悪いことばかりではありませんでした。うまく行っていなかった仕事を打ち切ることで、本来進むべき方向がはっきりしました。以後は全自動の高精度の三次元計測に集中できるようになりました。

その後の三次元計測が当たったことで資金的にも持ち直しました。三菱重工やトヨタ自動車、オムロン、NECとのプロジェクトを全て成功させたのです。

「ロボットの目」事業への方向転換

:ただ、この三次元計測という事業が大きなビジネスにはならないだろうということも見えてきました。この会社を作る時から上場を目標に掲げていましたが、「このままでは上場はできない」と考え、再度方向転換することにしました。「ロボットの目」を作ることにしたのです。

藤岡:なぜ「ロボットの目」だったのでしょうか?

:我々がトヨタやオムロンと共同開発していた中で、計測技術と並行してピッキングのニーズがあるとわかりました。これまでの産業用ロボットはプログラムされた動きしかできなかったので、対象物が動くと判別できません。そこに「目」を入れれば、対象物を認識してピッキングが可能になります。

当時ロボットの販売台数は世界で12万台。ロボットの目を開発し、標準品をロボットに設置すれば大きなビジネスになると思いました。

ピッキングに対応するには、新たに『三次元認識』という技術を開発する必要がありましたが、それはある意味数学の世界なので実現させる自信がありました。

「目」単独のビジネスから、トータルのロボットシステムへの転換

:そして、この事業を始めて10年ほど経ちましたが、事業としては半分成功で半分失敗という状況です。「半分成功」というのは、私たちがこの分野を牽引し、一定の認知をされたというところです。シェアは5割程度あります。

しかし、ビジネスとしては成功していません。目だけ買っても意味がなく、ロボットの動きの制御――アーム、ハンドなどを誰かが1つのシステムにまとめあげないといけません。しかし、このインテグレーションが難しいのです。

以前は「そこは我々の業務範囲外です」「我々は目だけやります」と言っていましたが、そこでつまづくと結局私たちの製品も売れないということになります。

ここは「発想の大転換をしなければ」と考え、垂直統合つまりトータルのシステムまで我々がやることにしました。

藤岡:社内の反応はいかがでしたか?

:社内では反対が大多数でした。「本当にできるのか」「なぜそんな大変なことをするのか」などさまざまな意見が出ましたが、創業社長の強権を発動して、舵を切りました。

その後は社員の理解も得て、その方向に伸びている最中です。現在は目とアームとハンドで1つのシステムに統合し、物流分野に特化したロボットシステムを作っています。物流倉庫はどの会社でも似たような動きをするので、大量に販売しやすいのです。

文化>戦略>戦術。最上位である文化作りが肝要

藤岡:徐さんが組織マネジメントで大事にされていることはありますか?

:私は技術者・営業マンとしてのお客様の問題を解決することや、投資家にアピールして資金を調達することなどは何とかできるのですが、組織や文化作りについては不得手だという自覚があり、ここは会社を成功させるための大きな課題だと考えています。

私の中では「文化>戦略>戦術」、文化が本来最上位にあるものだと考えています。文化ができていなければ、良い戦術でも実現できません。私は、戦略は得意ですが、文化の部分はまだまだ頑張らなければいけないと思っています。

文化は、採用と密接な関係にあります。どんな人を採用するかで文化はある程度決まり、採用が強ければ強い文化が作れます。逆に、いい人が採用できなければ、文化自体が空論になってしまいます。

藤岡:本当にそうですね。サイバーエージェントなどはその方針がハッキリしていて、新卒採用のみとしてゼロから育てることで会社の文化を根付かせました。

:中国のHUAWEIやリクルートもそうですよね。私たちもそういう方向に動き始めていて、2019年1月から新卒採用を開始する予定です。

創業当初は研究室の学生のみだったのである意味新卒しかいませんでしたが、マネジメント・営業・財務などができる人材が必要だったこと、そして、滋賀という場所がネックになったことなどがあり、全て新卒採用というのは難しいことでした。 しかし、2018年1月に東京進出したことはそういう点からも正解だったと思います。

求めるのは、チームワークを力にして、大きなビジネスを作り上げる人材

藤岡:それでは、現在の会社の状況やフェーズから求める人材像などを教えていただけますか?

:一言で言うと、大きなビジネスを獲物のように狙い、それをチームワークで実現できる人です。

藤岡:一人で稼ぐ人ではなく、チームワークでできる人なのですね。

:もちろん強くなければできないとは思いますが、強い人が集まり、チームワークでもっと大きなビジネスをやれる人ですね。そういう人だらけにしたいです。

現在、私たちは社会から大きな成長が求められており、それに応えなければいけません。そのためには競争にも勝たなければならず、経営にはスピードが必要になります。

結果として大きなビジネスを作り上げていくことになりますから、チームワークを力にして、それらを実現できる人材をぜひ採用したいと考えています。

今は、大きな飛躍の手前

藤岡:最後の質問になりますが、今このタイミングでKyoto Roboticsに参画する魅力についてお聞かせ下さい。

:18年も蓄積をしてきてなかなか花を咲かせられませんでしたが、まさに今、大きな成長の手前に来ています。これからものすごいスピードで成長して行くはずですから、それを体感し、楽しんでいただけると思います。

藤岡:まだまだこれから大きく伸びますか? これからはグローバル展開も視野に入れていらっしゃるのでしょうか?

:これからの方がずっとスピード感のある伸びを実感できると思います。2019年には、中国でビジネスを始める予定です。日本と中国、将来的には北米もターゲットと考えていますが、こちらは少し時間を掛けようと考えています。

また、先ほどの文化の話にも関連しますが、全社員を公平に評価する透明な人事制度を作ることは、今後の社員の成長のためにも必要不可欠と考えています。そして、社員が単に頑張るだけでなく、その成果を社員と会社が配分・分配される仕組みも作って行く予定です。

まだ2合目か3合目といったところですが、必ず実現していきたいと思っています。

藤岡:よくわかりました。貴社の成長を担えるような人材を、弊社でぜひサポートできればと思います。本日は素敵なお話をありがとうございました。