幸せかどうかは人が決めてくれればいい
青木耕平氏(以下、青木):僕は、幸せかどうかは人が決めてくれればいい、って言ってるんですよ。要するに、自分で自分が幸せかどうか、わからないから。周りの人が見て「ああ、幸せそうだな」って言うなら、じゃあ幸せなんでしょって。
だけど「幸せなの?」って聞かれたら、うーんって考えこんじゃうんですよね。46歳にもなれば、幸せかって聞かれて、うーん……ってなっちゃうというね。
小野裕之氏(以下、小野):(笑)。
青木:だから、決めてくれればいいと思ってるというところがあるとすれば、例えば(今日のイベントに出るときも)「今日は嫌われるぞ」でもなく、「今日は絶対、みんなの気持ちをつかんで帰るぞ」というような心意気もなく、やってきちゃうような。
逆に「これでいいんだろうか」とは思っていますよ。みなさんがたぶん今日、お金を支払って来てくださってるという話を聞いてるので、それにはすごく応えたいっていう。
質問者1:なるほど(笑)。
青木:価値あるものにしたい、とは思ってるんですけど。ただ、そういうものがないようなところはあると思いますね。それは別にいいとか悪いとかじゃなくて、やっぱり世代的に、いろいろな情報がもう残ってる時代じゃないですか。アーカイブされている時代だから。
各世代の実験の結果が、全部残ってるんですよね。こういうふうに見せてみた。それで、逆に振れてみた。中間をやってみた、とか。要するに、コンセプチュアルに自分を表現するということに関しては、すでにファッションのアーカイブみたいなもので、もういっぱいいろいろな事例があって。
それで「もう、これ無駄じゃね?」って、なってきてるんだと思うんですよね。コンセプチュアルに、すごく破天荒っぽく見せる人って、けっこう団塊の世代に多いじゃないですか。それでわかった、ってなっちゃう。「すごいなー」というよりは、「そういう人、よくいる」みたいな感じになっちゃう。「いやー、いるよね」という。
逆にそうじゃなく、今の若い人とかであるとしたら、「過剰に下から来るマン」みたいな人もいるんですよね。
小倉ヒラク氏(以下、小倉):過剰に下から来るのは、わかる。
奇をてらい続けた先にある“普通”
青木:わかるでしょ。そこまで下から来ると、それはガードポジションに引き込もうとしてる、としか思えないんだよなって。そういうのもいたりとかね。だから、思惑がありすぎることのトゥーマッチさみたいなことが、アーカイブに触れてきている人たちは、たぶんある程度なんとなくわかっちゃってるから。
どちらかというと、なんだか変に恣意的に自分をコンセプチュアルに提示したくないなという気はある、というコンセプトになっちゃってる。
(会場笑)
質問者1:なるほど(笑)。それもまた、みたいな感じですね。
小倉:高橋源一郎さんと、翻訳者の柴田元幸さんが、現代日本小説とは何か、日本文学とは何かというような本を書いてるんだけど。最終的に、すごく綿矢りささんを褒める、という展開になってるんだよね。
綿矢りささんの小説って、読んだことある人はわかるけど、普通の青春小説なの。それで、その二人の褒め方は、「いや、綿矢りささんの小説はいいんですよ」「風景描写がすごくよくて、心理描写がすごくよくて。青春って感じで、ぐっと来るんですよ」という、何周か回って普通っていう。
(会場笑)
小倉:日本文学というのはそういう意味で、普通にエモいものをいかに外すか、というね。だから、ストーリーの語り口調を全部破壊してみたり。ある種、奇をてらうことをずっとやっていった先に、やっぱり「夕焼けの描写とか、ぐっと来るよね」という話になっているということが、なかなか示唆的だなと思っています。
高橋源一郎さんと柴田元幸さんという、さんざんもっぱら現代小説と現代文学の現場にいる人が、もうね、なんて言うんだろう。マニエリスム(様式主義)に飽きてるんだよね。それは、わりと「平熱でいいじゃん」という話にもなるんで。
だから、僕らで共通しているのはたぶん、奇をてらうというか、なにかしら「自分はこういう存在であるという名乗りを上げて、何か事をなす」ということをしないと結果を出せない。そういうものに対して、異議を唱えたい気持ちは2ミリぐらいはある。
小野:(笑)。
青木:あるかも。そこはあるね(笑)。わかる。なんだかマッチョな建付けに対して、「弱くても勝てます」と言いたいような気はある。
小野:それはあるでしょうね。
語り尽くされた普通の物語よりも、おもしろいもの
質問者1:それは、どこらへんから来ている気持ちなんですかね?
青木:なんですかねー? 要するに、普通の物語って……。
小野:モデレータ、こっち(質問者)になっちゃってる(笑)。