12歳で全盲になった大胡田氏が出会った本
西田陽光氏(以下、西田):私なんか、歯が抜けたり腰を痛めただけでも絶望しがちなんですけど、大胡田さんは12歳まではお見えになった目が、ある日突然、全盲になるということは、どんなお気持ちになられましたか?
大胡田誠氏(以下、大胡田):僕の場合は、まず不便ということはありましたよね。本も読めなくなったり、外を自由に歩くこともできなくなってしまって、いろんなことができなくなって、まず不便というのがありました。
当時の12歳というのはけっこう多感な時期ですので、いろんなことができなくなった自分を誰かに見られたくない、という思いがありました。「かわいそうに」と思われているんじゃないかなとか、あるいは「あんなこともできないのか」と笑われているんじゃないか。
そんなふうに思っていた頃、仲の良かった友達ともだんだん疎遠になってしまって、ちょっとした引きこもりのような状態になっちゃって。周りのみんなよりも劣った存在になってしまった。そんなコンプレックスを抱くようになったのが12歳の私だったんです。
西田:それを克服できたのは、どんなきっかけでした?
大胡田:いろんなことが複合的に作用したんだろうとは思うんですけれども、一番大きかったのは、やはり中学校に入って、点字の勉強をして図書館で本を探していたときです。中学校2年生の夏休みに、宿題で読書感想文を書く必要があって、本を探していたんですけれども。
たまたま、『ぶつかって、ぶつかって。』という本がみつかったんです。
この当時は、目が見えなくなって、あまり時間が経っていませんでしたので、いろんなところに頭をぶつけたりして、たんこぶが絶えない状態でしたし、人生のいろんな可能性が閉ざされてしまった、人生の壁にぶつかってしまったというような思いでもあったんです。
なので、この『ぶつかって、ぶつかって。』という本が気になって。ページをめくってみますと、この本は私と同じように、全盲の障害を持っているけれども、日本で初めて、点字を使って司法試験に合格をした弁護士の書いた本でした。
竹下義樹という弁護士が書いた本だったんです。この本を読んで、とても驚いたわけです。全盲になってしまって、いろんな可能性が閉ざされた。そんなふうに思っていたけれども、それは自分の思い過ごしだったんじゃないか。
まだいろんな可能性が自分には残されていて、それを開花させることができれば、自分で人生を変えていけるんじゃないかな。そんなふうに思ったんです。この当時は、さっきも言ったように、周りのみんなに劣った存在になってしまったというコンプレックスを抱えていました。
けれども弁護士になって、もちろん弁護士というステータスのある仕事に就くということも、ひとつの意味があったと思いますけれども、それに留まらずに、なにか困っている人のために、働くことができる。
そうしたならば、今抱えているコンプレックスからも自由になれるんじゃなかろうか。そんなふうに思って、弁護士を目指すようになった。結局、弁護士になることができたのは29歳でしたので、憧れを持ってから15年間かかったんですけれども。
自分が目を悪くして、そんなコンプレックスを抱えている中から、最終的に立ち直ったのは、たぶん弁護士の試験に受かった瞬間だったかなと思うんです。
自分で人生を変えられるんだということを、確証をもって実証できた。だから、そういう意味では、長い長い戦いでしたよね。15年くらいずっとずっとコンプレックスと戦ってきたと思っています。
「凡人ではできなさそうなこと」への挑戦
西田:言うは易し、行うは難し、なんですけれども、この自存する(注:他の力に頼らず自らの力で生存していくこと)という感情は、わかっちゃいるけど大変ですよね。
そういう意味では、高橋さんすごいですよ。私は20年前から存じ上げているんですけど、親御さんは学校の先生、お母さまも幼稚園の先生で、どちらかというと公務員で、硬い家庭なんですけれども。
(高橋さんは)ヤンキーっぽいけれども、読書好きのヤンキーだし、親に心配をかけたくないから、夜中にバイクに乗ったりしながらも勉強をしたり、変わったヤンキーの在り方をしていたと思うんですけれども。
その上、普通はお金がなくて、学歴がなくて。そういう経験もないと、カクテルに憧れたからバーテンダーになって、お店持っちゃおう! って思わないですよ。(高橋さんは)思っちゃいましたね。
高橋歩氏(以下、高橋):意外と、もちろん、ショックの度合いはまったく同じというわけではないけど。だけど、俺も本当に親父は小学校の先生、おふくろは幼稚園の先生。大学行かなきゃ人生終わり。という家庭内の洗脳のもとで生きてきて、ちょっと尾崎豊とか、ブルーハーツとか、長渕剛を聞いて逆らってはみたものの、家族の縁は切られたくないから、一応受験勉強はするという感じで、ずっと20歳まで生きてきて。
二流だの三流だのの大学になんとか入ったけど、俺は夢とか持ってチャレンジしたいけど、そういうことで飯を食っていけるのは限られた人だけで。俺は親にはっきり、悪い意味じゃないけど「お前は凡人というか、特別な才能を持って生まれてないんだから、ちゃんと大学出て、良い会社入るということで十分でしょ」と。
そういう空気の中でずっと生きてきたけど、俺の人生そうなっちゃうのかなって。でも、夢を持ってがんばってる人かっこいいな、というぐらいだったけど。
さっきの弁護士への挑戦ということで言えば、俺はちょっと質があれかもしれないけど、トム・クルーズが主演した『カクテル』という映画を見て、バーテンダーになって自分のお店をもって、好きな音楽とか、好きなお酒に囲まれるというのに憧れて。
仲間と借金して、初めて「凡人ではできなさそう」と言われてたことに挑戦してみて、店が繁盛したんです。さっきの(大胡田さんが)弁護士試験に受かったというところと、中身は違うけど。
何か1つ結果を出した瞬間に、周りが180度変わる
高橋:店が繁盛した瞬間に、バカにしてた人たちがみんな、急にワーッと180度変わって、「高橋くんって、俺が育てたんです」という人が十何人くらいできて。みんな、「素人が自己満足で飯食えたら誰も満員電車乗んねえよ」と言ってたのに、「昔から歩君は発想が独特だよね!」って。
同じことを言ってやってるのに、1個結果が出た瞬間に全員変わって、みんな味方になって応援団になるというような体験をした時に、なんか「世の中はこういうふうにできているのか」というか。
親も愛を持って言ってくれてたんだよね。だけど、俺を囲んでいた大人が言っていた、「一般の人は夢を叶えたり、好きなことで飯を食っていくことはできない」「ああいうことをできるのは特殊な人だけだ」というのは嘘じゃん。
そういうのは、自分のお店が成功したという体験で、開けたというか。そこからは完全に人間が変わったというか。もう「やりたい」って本気で思って「俺、成功するか失敗するか」というものの考え方ではなくて、「成功するまでやれば必ず成功するじゃん。だから絶対やめないよ」という感じ。
(俺は)センスがないから、けっこう遅いんだ。天才はいきなりうまくできる人。だいぶ学びが遅いんだけど、粘るから、結果うまくいくっていう。そうやってやっていけばいいんだって気づいたから、その後、本当にやりたいなということをやってきて。
出版社を作るとか、沖縄にビーチロックビレッジを作るとか、いろんなことをやってきたけど、全部同じパターンで。きっかけは、「あ、できるじゃん!」「大人の言うこと嘘じゃん」という。お店が1回成功するまでやったことは、(大胡田さんが)弁護士に合格した時に、「あっ」と思ったのと、たぶん感情としては近いところだったのかなという話で。
よく後輩たちに言っているのは、「一発がんばれ」「1個自信がつくところまでがんばれ」ということ。そしたらその後、やりたい放題な感じで、どんどんチャレンジできるようになる。失敗しなければ、ずっと一緒なんで。今話していて、そういうことを思いました。
生きづらくなりつつある世の中をどう変えるか
西田:竹井さんは経営のステージでクールな、非常に論理性があって、非常に仕組みとかさらさらとやってのけるように見えるんだけど、やっぱりすごい情熱の人だなって。
ちょっと繊細なことに触れさせていただくんですけれども、一生懸命、社会に貢献したいと思ってがんばっていたら、妹さんが亡くなってしまったっていうことを受けた時に、やっぱりいろんな衝撃を受けられたと思うし、今のがんばりにつながることは、どうお感じになって……。
竹井智宏氏(以下、竹井):そうですね。あんな仕事をしているので、あれなんですけど、ゼロイチが好きなんですね。だから高橋さんとすごく共感するところなんですけれども、学生時代からそんなことをいろいろやってきました。
その中で、東北の活性化にはベンチャーが必要だなっていうことで、ベンチャーで仕事をしていたんですが、突然に、妹が自殺してしまうっていう悲しい出来事がありまして、家族としては本当にどん底までいきまして。
ずっと家の中も、お通夜みたいな状態ですし、私としてはすごくショックだったのと、「なんで、こんなことが起こってしまったのだろう」っていうことをすごく考えさせられました。
ただ、翻ってみると、全国に2万人とか3万人とか自殺する人が年間にいるんだなっていうのを、そのとき初めて突きつけられて、こんなとんでもない悲惨な状況になっている家族が、逆にそんなにいるんだって思ったんです。
その中で考えたのが、「だんだん世の中って生きづらくなってるんじゃないかな」って。それが故に、自分なんか図太いので感じないんですけど、センシティブに感じる人が、先に亡くなっていって、ある種、警鐘を鳴らしてくれているんじゃないかなと思ったんです。
世の中が「このままだと大変なことになるぞ」という警鐘を鳴らしているのかなと思って。だとしたら「だんだん悪くなるっていうトレンドを変えないといけないんじゃないか」と考えている。そのためには、何をしたらいいのか。自分の力も限られているし、何人前もあるわけでもないし、何をどうすればいいんだろうという感じで悶々としていて。
ただその中でも、東北のベンチャー支援、私の前職の仕事をさせてもらっていたんですね。このままでも、もっと違うかたちをしなくちゃいけないんじゃないかって悶々としていたら、東日本大震災がどかんと2011年に起きまして、これは大変なことになったって。
東日本大震災の後の360度のがれきを見渡して
竹井:その時に私が所属していた会社は、あんまり震災復興支援とか積極的ではなかったのね。仙台が本社なのに、ぜんぜん積極的じゃなくて。
いや、「あんなことに関わったら会社がどうにかなっちゃう」「騒ぐな」と言うから、それは違うだろうと。この渦中にいる身として、自分たちが真っ先にそれをやらなくちゃいけないんじゃないかと思って。
それで、被災地のがれきの真ん中に立って見渡すと、(テレビなどで)見られた方もいらっしゃると思うんですけれども。360度のがれきという状態って、「これ誰が片づけるの?」という。テレビで見ているとまた違うんですよ。迫力……迫力っていうと陳腐ですけれども。すごく違って。「これを誰がやるんだ?」と思った時に、今まで自分はけっこう当事者になれてなかったなって思って。誰かが直していくんだろうって思った部分もあるんです。国がやってくれるだろうと思ったけど。
「いや、これ自分たち一人ひとりが率先してやらないと絶対」、もちろん「元通りにはならないし、その後の復興というのもないな」と思って、それで「自分でやらなきゃいけないんだ」って。
やれるかやれないかは別にして、やらなくちゃいけないんだって変な使命感がすごく強く起こって、それでその時勤めてた会社を飛び出して、今のMAKOTOを作ったんです。
西田:ちょっと家族の死に触れさせていただくんですけれども、家族の死が、身近な人が亡くなると、その時、自分は「なにかできたんじゃないか」って喪失感にすごく駆られたり、自分を責めることが往々にしてあるし、私の友人が世界の戦争の紛争地支援をしている時も、そのクラッシュがすごく大きくてもういいと。「生きる……別に」って。生きる希望というか、生きる力を失ってしまうんですけれども。
例えば、親御さんが死んでしまった子どもたち、孤児がいますよね。そのために靴下を編んであげてっていう、自分のためには生きる力を失うんですけれども、もっと大変な人のケアをすることによって、クラッシュした時の気持ちを蘇生させていく。究極のところ、自分のためにがんばるのはコントロールをしてしまうんですけど、誰かのためと思った時にすごい力が出る。
人は誰かのためにならエネルギーが出せる
西田:人間ってすごい力を持っているなと感じたのは、飯田橋のホーム。ホームと電車の間がすごく離れているんです。そこで(私と)渡っていた子どもが急にいなくなったので、「ああ、神隠しって本当にあるんだ」って思ったんですよ。「どうしよう」と思ったら、下から「ママー」って聞こえて、(電車のすき間から線路に)落ちてたんですね。
電車が(ホームに)停まっているのは短時間ですからね。子どもを救おうと思って頭を突っ込んだら、電車が行ったら私の頭、かすって死んじゃうなって思った。でも、そんなふうに考えないで、一応、お母さんだから命捨ててでも子ども助けなくちゃって。そこに自己愛もあったんですかね。躊躇したんですけど、頭突っ込んで、引っ張ったんですけど。
たぶん通常だと、5歳くらいの子でも引っ張り上げられないと思うんです。ところがシューっと上がったんです。そして誰かがすぐ、(電車を)停めに行ってくださったんですけれども、火事場の馬鹿力って本当ですね。
ですから誰かのために何とかしようと思うと、本当にエネルギーというか、人間って不思議な生き物なんだなって実感したことがあって。
それも自分のためだとギブアップしやすいんですけど、「誰かのために一生懸命やろう!」と思った時、人間ってすごい救われるし、それによってエネルギーが出てくるという。長く生きていると、いろんな経験をするので。昔言っていた、「嘘つき、そんなことが世の中にあるもんか!」「奇跡なんかないよ!」ということは、やっぱり感じる機会が多くなります。
ですから、お若い方には自分が鬱々としている時は、やる気もないボランティアでも顔を出してみようかとか、「誰かのためにやる機会をすることによって、人って救われるんだなー」ということが、お伝えしたいことの1つなんです。そういう経験ありますか?
悲惨な体験を持った成功者が現れる理由
竹井:そうですね。ある意味、身内が亡くなるってすごいショックなので、そこに対する回復活動が起こるというか。妹のケースでは、完全に私が前向きな推進力に変えて、使命感をもって感じて、しかも震災というのもあったので、やってきたんですけれども。
またそれも息子のケースですと、さらに複雑で難しい問題があります。同じ身内なんですけれども、もうちょっと息子は違うかなって。というのを、生々しい話で感じてはいます。
西田:スタンフォード大学って、みなさんご存知かと思うんですけど、あの学校はスタンフォード事業っていう、鉄道王として非常に成功された方の息子さんが10代半ばで亡くなられたんですね。それで、この地に「息子と同じような子どもが将来のため」と思って創られた学校だったんですけれども、学校だけ作っても企業がないと地元にぜんぜん仕事ができない。
みんなシカゴとかニューヨークに行ってしまう。それで、スタンフォード大学ができて、ずいぶん経ってから、(フレッド・)ターマンさんというシカゴ大学を出たエリートの人が来てくださった。ガレージから始まった、ヒューレットパッカードの(創業の)ストーリーはみなさんご存知だと思いますけれども。
アメリカでも、銀行は信用のない人にはお金を貸さないんですね。そうすると、ターマンさんが保証人になる。無理に言っても、どこの馬の骨かはわからないと誰も相手にしない。ターマンさんが「私は、シカゴ大学を出たターマンでございます」というと、ほほう、といって相手にしてくれるから、それで営業してあげる。
そういう先例を作られたことによって、スタンフォードを中心にした起業家のエリア(今のシリコンバレー)ができたという90年の歴史があるんですね。ですから、そういう意味では本当に竹井さんがやっていらっしゃるのは、新しいスタンフォード活動ではないかなと私は思っているんですけど。
竹井:すごく持ち上げていただいてあれなんですけれども、私は去年、息子の悲しいことがあって、いろいろと少し本を読んだりするなかで、新しく見つけた話が、ポスト・トラウマティック・グロース(トラウマ後の成長)という話があることを知りまして。
それは要は、すごく悲惨な事件からのあと、それを経験した後に、ものすごく成功する人がいる。先ほどのスタンフォードさんも、この例だと思うんですけど、それをけっこう人は美談にしがちなんですけど、当事者にとっては、実は美談でもなんでもなく、相当ヘビーな心理的なショックで、もう生きていられないっていう状態になっちゃうんですね。
そこから生きていくためには、成長するしかないっていう。生きるための最後の手段っていう感じで成長されているらしく、「それを糧に成長しました!」みたいな感じじゃなくて、成長を自分に課している、みたいな。もうギリギリの感じの話なのかなっていう。
お互いに支えあうことが「生きる力」になる
西田:本当に困難な時期に追いやられた人たちが生きるためには、例えば、毛利が広島のエリアから山口に領土替えされました。山口のほうがいろんな意味で厳しいです。それで、吉田松陰のご子息の方がお話されていたんですけれども、(そういった)厳しいところで、(人が)どうやって生きるかというと、支えあうというか、庇い合うというか、1つの分け合いというか、優しさが最後に生かすんです。人類の歴史で。
そういうケアするとか、支え合う、助け合うことでしか生き延びられない文化を持ったところのほうが、優しさが生きる手段になるんですけれども。文化としては、ケアしたり、支え合うとか近所同士とか。
かつての日本社会も、実は支え合うというのは生きる必然だったんですけど、便利な時代でコンビニがあったり、「近所の挨拶なんかめんどくせえ!」と思って暮らせる豊かな時は、(支え合いは)ないんですけど。
震災になった時に、非常に機能したのは、やっぱり支え合うということが、すごい生きる力になる。挨拶をしあうとか。今回の道であっても、例えば、知っている人だったら挨拶してくれますよね。知らない人だと、知らんぷりすると、初めて一人できたら、ちょっとそわそわしますよね。ですから、警察庁の方も知っていたんですけど、ちょっと挨拶ができる人がいるエリアは、犯罪が少ないし。
それから先ほどのハーバードの事例じゃないですけど、人間が不安よりも安心した時のほうが、長生きしたり、脳とか心を守るというのは、実はそういうメカニズムがある。
やさしさとか、愛とか、奥様のことを常に「ラーブ!」っておっしゃっている高橋さんは困難に強い、ビタミン剤を常に打っているような。高橋さんは、自動的にそういう装置が働いているんじゃないですか?
高橋:そうですね(笑)。俺なんか、ちょっとカッコつけて言えば、昔、「やあー、なんかやろうぜ!」って言ってた頃はよかったけど、今、いろいろ世界中に出版社とか店が、そういう支援が募って広がって、ワールドピースみたいなことを喋ったりするようなことが増えてくればくるほど、自分自身に言ってるのは、自分の女さえ幸せにできないやつに日本も地球もないと思うし、自分の家族さえ……。
西田:女って奥さんのことですよね?
高橋:女って奥さん(笑)。愛人とかじゃなくて! 初めて、このツッコミ!
(会場笑)
モチベーションは「妻にかっこいいと思われたい」
高橋:「自分の家族さえ、幸せにできないのに、日本も地球もねえだろうお前!」って自分に言い聞かせていて。俺がノーベル平和賞をとったとして、家に帰って、家庭崩壊とか微妙な人生になってるってことを思った時に。こんなネットとかある時代だから、いろんな人にいろんなことを言われちゃうだろうって。
恐れとか、もちろん俺、本を書いたりして飯を食っているから。そういうときに、そんなことをビビッと発言したりするのが、なんか嫌だと思ったんです。そう思った時に、ちょっと待てよと。もし、全世界の人が俺のことを嫌いでもだいぶ嫌だけど(笑)、家に帰って「さやか」って奥さんね。
さやかがいて、「あ、おつかれさま!」って、「ご飯にする? お風呂にする? それとも私?」みたいな世界があれば(笑)。プラスアルファ、子どもかな。子どもが2人いるんだけど、「父ちゃんおつかれさま!」「父ちゃん最強!」とか言ってくれていれば、正直「もう俺、幸せだな」って思うんだよね。
だからそこが、絶対的なホームっていうか。俺は結婚して、より自由になったし、子どもができてより自由になったと思うのは、絶対的なホームができたことで、極端な話、他の全員に嫌われても俺の幸せな人生はあるっていう。
なんかそういう気持ちがすごくど真ん中にあって。だから俺はそういう意味では、未だに「さやかにかっこいいと思われたい」っていうのがメインのモチベーションで。
例えばだけど、仲間はけっこうみんなIT社長とかになっているから、さやかが「金持ちがいい」って言わないから、こんな生活してるけど、もし家のリビングで、さやかが「なんかホリエモンとか通帳に50億とか入ってて超かっこいい!」とか言ってたら、俺、即「投資部」とか作るよ。
(会場笑)
「高橋社長変わっちゃったな」って言われてもいいから。そういう人生ですかね。
身近な人はいつまでもいるとは限らない
西田:大胡田さんも、目が見える弁護士さんで、ばりばりの方はたくさんいらっしゃるんですけど、すごい財産持っていらっしゃるのは、ご夫妻とも全盲でお子さんを二人育ててらっしゃるんですけども、ご夫妻だけではケアできない問題とかいろいろこれからも出てくるし、今もあると思うんですけど、お仲間がときどきよくご一緒に食卓を囲んだり。
また、例えば、お客さまである顧客である、刑に伏す方が、弁護士さんとして大胡田さんが現れた時に、最初は「大丈夫かな?」と思うかもしれない。でも、全盲の弁護士さんがこんなに自分のことを思ってくれたり、一生懸命やってくれたり、逆にいろんなふうに救われていくという。
言葉とか、理屈ではない、世の中のすごい大事なことって、言語化できないとか、肩書とかそういうことではない、その人の生きる姿みたいなもので救われるということで、いろんなエピソードを持ってらっしゃると思うんですけど。
ご自身のことで、わりと謙虚な方なので言いにくいかもしれないけど、ちょっとそういうエピソード教えてください。
高橋:ラブトークですか(笑)。
(会場笑)
大胡田:そうですね、わりと謙虚な方なので、なかなか語らないんですけれども。
(会場笑)
私も実は、とても身近な家族を自殺で亡くしたことがあるんです。母なんですけど。私が弁護士になって、2年ぐらい経ってからですかね。私は東京に住んでましたけれども、ある時、「お母さんが、マンションから飛び降りたんだ」って弟から夜中に電話が入って。もう、ゾッと、なんか一気に世界が変わるわけですよ。
それまで生きてきた安穏とした社会から、なんか勘で、僕は目が見えないけども色が失われるみたいに、社会がガラッと変わる、そんな瞬間があったんです。
私の場合には、これを助けてくれたのが、やはり妻だったんです。当時は、まだ結婚してなかったんですけど、だいぶ長いこと付き合ってまして、付き合ってるだけでいいかなって思ったんですよね。
お互い、もういい年だし、結婚とかしなくてもこのままだらだら仲良くいけばいいやと思ってたんですけど。母が亡くなって、しかも突然亡くなってしまって、「身近な人っていつまでもいるわけじゃないんだな」ということが身に迫ったんですよね。
どうしても今、妻を失いたくない。そうして、妻が幸せになるために、私が何ができるのかなっていうことを真剣に考えて、それが結婚だったわけですけど。目の見えないお父ちゃんとお母ちゃんなんですけど、目の見える子どもが2人がいまして、7歳の女の子と6歳の男の子を二人で育てているわけなんですけど。
人生のどん底にいた時も家族が支えてくれた
大胡田:そうはいっても、二人ではとても育てきれないわけです。目が見えていたって、子育ては相当大変なわけですけど、見えないとさらに輪をかけて大変でして。
例えば、妻の家族、義理のお母さんに、ほぼ住み込みのような状態で助けてもらっているし、近所の人たちとか、私の友達なんかにも、折に触れて助けてもらっています。
例えば、子どもが小さい頃って爪を切るのってけっこう大変なんですよね。子どもは動くし、子どもの爪って本当に花びらみたいに柔らかいから、そういうの見えないとなかなか切れなくて、そんなときには近所に駆け込んで、「ちょっと爪切ってくれませんか?」なんて言って、だんだん仲間が増えてきた。
これって結局、子どもたちにとっても良いことだと思うんですよね。お父ちゃんとお母ちゃんががんばっている姿って、もちろん大切なんだけど、お父ちゃんとお母ちゃんが、仲間を作って、チームで子育てをしているところを見せることによって、なんか人生って、「別に自分でがんばらなくてもいいのかな」っていうのかな。
「できるときにできる人を見つけられればいいのかな」ということを教えていけてるのではなかろうかと思っているところでございます。高橋さんが言っていた、最大のモチベーション。さやかさんにモテたいってこと。私も同感です(笑)。なかなかこれ、伝わらないですけど。
高橋:これからその話から入った方がいいんじゃない(笑)。「俺的にはマジで一番大事にしてるのは~」みたいな感じに。
(会場笑)
大胡田:口調から変えないといけない。俺の女もね、幸せにできないようじゃ……(笑)
(会場笑)
本当に家族の存在は大きいなって思いますね。話がいろんなところに飛んじゃいますけど、私が本当にどん底にいた時に、身近にいて助けてくれたのが妻でした。今、妻のために私は最大のことをしたいな、という思いでいるのも事実です。
なにか、トラウマティック・グロースがあったのかなと思うと、まだそんな大きな成長はないかもしれないけど、私にとっては身近な人の大切さを知った。一期一会の大切さを知ったことが、僕なりの成長だったのかもしれないですよね。そんなところです。