創業105年の武道具店代表・森氏登壇

司会者:それではいよいよ、マエヒャク様(※注:=「前の100年」。日本橋で100年以上続く老舗企業)について、私から簡単にご紹介させていただきたいと思います。

本日は、森武道具株式会社で代表取締役を務めていらっしゃいます、森伸雄様にご登壇いただきたいと思います。昭和24年、日本橋の小伝馬町でご生誕され、大学を卒業後、大正2年(1913年)に創業された家業を継いで、これまで武道用品の販売に務めていらっしゃいました。

小伝馬町一の部町会の町会長としてもご活躍されているということで、本日はそういった話も織り交ぜながら、いろいろとご紹介いただきたいと思います。それでは森様、よろしくお願いいたします。

(会場拍手)

森伸雄氏:ただいまご紹介いただきました、森武道具の森と申します。うちの店はそういうわけで、大正2年(1913年)に創業して、お陰様で今年で105年を迎えることができました。よろしくお願いいたします。

今ご紹介いただきましたとおり、私は、小伝馬町で昭和24年に生まれまして。地元の(旧)十思小学校、(旧)久松中学校を出て早稲田大学の経済学部を卒業後、すぐ家業を継ぐことになりました。

ただいま、小伝馬町一の部町会の町会長を務めさせてもらっています。これが町会のユニフォームなので、今日はこれを着てきました。

(会場笑、拍手)

趣味は剣道と言いたいところなんですが、実は剣道は舐めた程度なんです。久松中学校には剣道部がなかったので、高校に入ったときに剣道部に入ったんですが、1日で追い出されたんですね。なぜかと言いますと、久松時代にテニス部に入っておりまして。地方の大会でなんとか優勝しましたので、なにしろ「テニスをやれ」ということで、高校3年間テニスをやっておりました。

剣道が「頭の良くなるスポーツ」としてブームに

これはうちのじいさまとばあさまで、創業者です。うちのじいさまは岐阜の出身なんですね。それで東京へ出てきまして、その頃軍隊へ襟章などを納める会社に勤めていたらしいんです。そこで剣道具というものに出会いまして、大正2年に小伝馬町にて剣道具屋を始めました。

ばあさまは、昭和10年なのにまだ日本髪を結っているんですね。珍しかったらしいです。やはり岐阜の出身で、じいさまは商売が上手だったもんですから、その後かなり盛んになってきまして、岐阜から地元の嫁さんを迎えたというところですね。うちのお袋は、女学校のときに(ばあさまが)まだこの格好だったんで、すごく恥ずかしかったと言っていました。

戦前は軍隊・学校関係にかなり手広くやっていたんですが、戦争末期になりますと、こんなところで剣道具を作っているわけにはいかなくなりました。30名くらいの職人さんと一緒に秩父へ疎開して、そこで剣道具を作ろうと思ったんです。これは昭和19年の終わり頃です。

そうしたら戦争が終わっちゃったんですね。それで、仕方がないから、昭和23年にまた小伝馬町に戻ってきまして。剣道はGHQから禁止されておりましたので、その頃はズック製の野球グローブなどを作っていました。

昭和24年6月に、株式会社森武道具店として発足しました。剣道具を中心にやっていたんですが、昭和34年2月に今のじいさまと、同じ年の7月に父親を亡くしまして。その頃から皮肉なことに、剣道が盛んになってきたんですね。

昭和40年に、読売新聞で「頭の良くなるスポーツ」というのが出まして。これで剣道がかなり盛んになりました。

そのあと昭和45年に、今の皇太子殿下、浩宮殿下が、学習院初等科で剣道を始められたんです。それで少年剣道が爆発的に盛んになったんですよ。ちょっと訂正させてもらいますが、そのブームは一応去りました。

(会場笑)

これが前(の店舗)です。昭和57年にビルを新築したんですが、ちょうど父親が亡くなってから私が所帯を持つまで20年間、これを支えてくれたのは真ん中にいる、フカイさんという番頭さんです。

この番頭さんは我々の恩人で、なにしろ母親が生まれる前から店にいたという、すごい方です。

これが今の店舗で、昭和57年に、鉄筋コンクリート100パーセントのビルを新築しました。実は父親は建築士だったものですから、父親が生きている頃の長年の夢でもあったんですね。うちの簡単な歴史はそんなところです。

25年間稽古に使っても、びくともしない剣道具

実はお話ししたいのは、この剣道具のことなんです。これは、うちで作っている1番良い剣道具です。この剣道具1組で、だいたい100万円以上します。胴を回してもらってよろしいですか?

スタッフ:はい。

:うちで作っているこの胴を回します。この胴は、今26万円します。24、5年前に作ったものなんですが、剣道界で有名な千葉仁(まさし)先生がお使いだった胴なんです。先年亡くなられたんですが……こっちですよ。こっちは3万円ですから(笑)。

(会場笑)

25年間、かなり稽古に使っていたんですが、びくともしないんです。これが剣道具というものなんですね。

次にいきます。これはうちの職人さんで、75歳でこの胸を作っています。このお父さんは、91歳までうちの仕事をやってくださったんですね。胸を作っている職人さんです。

剣道具の歴史なんですけれども、江戸時代の中期頃に、竹具足というものができてきたんです。これは高杉晋作のものだと言われている剣道具で、幕末になると、胴が漆を塗った革胴で、面金が鉄になって、発達してきたんですね。

これは『北斎漫画』というものから出してきました。こうやって幕末になると、剣道はかなり盛んになってきました。

それで、これです。千葉周作が、剣道具を地方に売っていたんです。実はその頃、幕末は政情不安になりまして、地方の豪商や富農の方が自衛の意味で剣道を始めていたんです。それで、千葉周作がこうやって(剣道具を)売っていった。

うちの地目を見ましたところ、千葉周作の道場は、隣にある神田於玉ヶ池でした。そこに玄武館道場というのがありまして、その周りにはこういう剣道具を作っていた人がだいぶいたことは、間違いない事実だと思います。

剣道具1両。その頃はもう今と同じように、4つ割りの竹刀の竹を販売していた……販売していたという言い方はおかしいですが、送っていたという事実があります。

剣道具は、日本古来の素材や紋様の集大成

こちらにある剣道具は面布団。剣道具には手刺しとミシン刺しがあるんですが、昔は全部手刺しです。手刺しの中には何が入っているかと言うと、綿(わた)ですね。綿と赤いのは毛氈(もうせん/注: 獣毛を加工した織物、フェルト)です。良いものは江戸時代くらいの毛氈を使っています。

厚さはだいたい5~6センチあります。これを一分五厘というものに刺して縮めていくんですが、だいたい1センチ弱くらいまで刺し込みます。こういうのは綿入れという状態なんですが、ベテランの職人は、この状態からだいたい25日間に1枚は刺しますね。

それとこちらは鹿革なんですが、剣道具には多く鹿革を使います。日本では、飛鳥時代から江戸時代くらいまでは、革と言ったら鹿革なんですよ。鹿革は通気性も保温性もよく柔らかくて、衣料などに非常に使われていました。正倉院の御物の中に、鹿革で作った足袋が残っているという話ですね。

鹿革はなめすと白い色をしています。こうやって煙でいぶして、ちゃんと結んで。こんなことをやる職人さんは、日本で今4、5人いるかいないかというところです。それからこういう飾り革とか、いろんなものを使っていきます。

これは胸です。今、こちらにコムラさんが持っている胸があるんですが、先ほどご紹介しましたうちの職人さんは、はっきり言って名人です。このぶつぶつしている革は牛革で、この革も今は作る人がいるかいないか、という現状です。

これは黒桟革という革で、牛革を独特になめしまして……タンニンなめしというもので、これを揉んで漆で仕上げた革になります。刺繡は全部、正絹で縫っているんです。京都から……今はこんな正絹糸を作っているところは1軒くらいしかないんですけどね。

それと、この大きい胸。うちはこれを波千鳥と称していて、青海波。左の上が毘沙門と言います。下が麻の葉。この紋様はすべて、日本古来の伝統的で独特の紋様なんです。こういうものを剣道具に使っているんですね。

これは顎です。今、コムラさんがちょうど(持って)回っている胸は、1枚15万円くらいします。これは、ちょうど面の顎に使うところ。突き垂れとも言っていて、これも良いもので5万円くらいします、これだけで(笑)。

剣道具を通して、日本の伝統文化を伝えたい

「日本の伝統文化を伝えたい」と大仰な謳い文句を掲げているんですけれども、実はここのところをお話ししたかったんです。私は大学を卒業してすぐ家業に入ったんですが、ちょうど高校時代のときに面接がありました。

私は将来の希望に「建築士」と書いていたら、そこで面接官の先生から説教を食らっちゃった。「なぜ家業を継がないんだ」と。そんなこともあって家業を継いできたんですが、剣道具は先ほど言いました鹿革、牛革、それから藍染めといった自然の素材、日本の伝統的な素材を使って組み上げていくんです。

竹、それから漆。そういう知識がないと剣道具はできないんですね。剣道具は明治の中頃に今の形ができたんですけれども、そういったものをうちの職人さんたちから教わっていて、「剣道具というのは、もう伝統工芸品の結晶じゃないか」と自分が考え始めたわけです。

剣道の魅力は、老若男女全部が一緒にできると。今度、全日本選手権がありますけれども、そういうトップの選手たちも、大家のおじいさん先生には敵わないんです。一生かけて全身全霊かけて、精神的にも技術的にも剣道というものを追求していくんです。

それと、一般の剣道愛好家の方は、剣道具に魅せられてやっている方もいらっしゃるし。だから、少年剣道のお父さん・お母さんが一緒に(剣道を)始めて、子どもたちがやめても、お父さん・お母さんはそのままずっと続けてやってらっしゃる。なにか魅力があるんですね。

今、職人さんがだんだんいなくなっています。材料を作る人がいなくなっているので、これは一番致命的なんですけれども、私はこういう剣道具の伝統文化を次の世代に伝えていきたい。また一般の方にも剣道具を見てもらいたい、ということでこの大層なお題目を掲げたわけです。一応、剣道具に関してはこのくらいでやめさせてもらいたいと思います。

小伝馬町の町会長としての想い

実は、一の部町会の町会長を去年の12月から拝命し、3月に正式に町会長になりました。この小伝馬町一の部町会は、十思公園と旧十思小学校が中心なんですが、小伝馬町の牢屋敷跡になるんですね。それで、ここに吉田松陰の終焉の地の碑が建ってます。

これは牢屋敷の模型で、昔NHKが作ってくれたらしいです。旧小学校で今は「十思スクエア」というところの別館に飾ってあります。誰でも見れるようになっていますので、ご興味があったらぜひ。

それから、この石町の鐘は1711年に作られたものです。江戸城の時を告げる鐘。江戸城で太鼓が鳴って、初めて市中で鳴らした鐘なんです。これがどういうわけで来たのかよくわからないんですが、8月15日(終戦記念日)と、それから12月31日(大晦日)に、こうやって鐘を撞いています。

これはこの前の8月15日の写真で、約100名くらいの方に撞いていただけています。大晦日のときの除夜の鐘は、400人くらい来ていただいて。我々町会の一大イベントです。

ただ、この町会でも小伝馬町でも、ここは商業地域ということになっているんですが、だんだん問屋・お店が減っていっています。新しい住民の方と言ったら失礼なんですが、マンションも3棟になりました。

我々がずっと育ってきたこの町会にもともと住んでいる者たちと、マンションに越してきた新しい(住民の)方たちと、これからどうやって融和を重ねて、小伝馬町を活性化していくかということで、町会長を引き受けたわけです。

職人は「絶対に作家になってはだめだ」

なかなか難しい問題も出ております。ただ、我々の町会ではこの歴史ある十思公園、旧十思小学校という、この鐘を中心にした1つの集合のシンボルがあります。これを活用しながら、なんとか町会を盛り上げていきたいなと思って、今やっているところであります。

私も来年古希を迎えますので(笑)、商売もさることながら、こうやって地元に生まれて、地域の方々になんらかの恩返しを……というのは望外な話なんですが、お役に立てればと思って引き受けている次第でございます。去年、前町会長が急に亡くなられたので、実はどこに行っても1番若い町会長なんです(笑)。

自分たちが作っていて思うのは、これは道具なんですよ。だから職人にいつも言っているのは、「絶対に作家になってはだめだ」と。残らない、壊れていってしまうものなので。だから職人の意地を見せるということは、私が今1番思っていることですね。

気障な言い方をすると、匠の技。こんな使いにくいものを着けて動き回る、そこにどうやって使いやすさを出していくかは本当に技なんですよ。だんだんこれが変わっていっているんですが、自分ではこういうものを次に繋げていきたいんだ、と考えております。

司会者:どうもありがとうございました!

(会場拍手)