日本はマスコミュニケーション国家だった
落合陽一氏(以下、落合):よろしくお願いします。落合です。
(スクリーンを指して)みなさん、この映像見たことありますかね? これは『月世界旅行』っていう1902年の映画なんですけど。
映像装置が発明されてから11年後。エジソンが1891年に映像装置を作ったあと、わずか11年後には、舞台の上でセットを組んでお芝居をし、カット編集でつなげば映像になるということがわかっていた。
3年前に出した本で、『魔法の世紀』という本があります。そのときタイトルを付けるのに、映像の世紀から魔法の世紀というのを1つキーワードにしてものを考えていたことを覚えています。
僕が日本のコミュニケーションということを考えたときに、僕らが20世紀もしくは21世紀初頭にやってきた偉大なる日本というのは、おそらくマスコミュニケーション国家であったと思っています。
それはどういった意味かと言うと、人口は増加していく。人民は均質化していく。そして、計画経済を進めるために、どういうメディアメッセージや政治、はたまた産学官の取り組みが、どうやって社会にイノベーションを計画的に起こしていくか。
そういうことを考えながら、日本という特殊な倫理観のもとにハードウェアと人的資源を拡充していた。というのが1945年から2000何年までの日本の戦略だったように考えています。
1番大きかったのはおそらく人口増加だと僕は思っていて。例えばインフラストラクチャーを置いていく。学校を作っていくとか、下水を作っていくとか、電気を流していく。
あらゆることにおいて人口が増えていくということは、都市からもしくは地方から、あらゆるところが発展していったわけです。
教育というのも強力なインフラの1つです。我々はほぼ均質的な教育を小中高と受けていて、そのあと大学になって、専門家もしくは細分化された教育を受けているわけですが。
こういったインフラ自体も我々は人口減少社会になった今、毎回考え直さないといけない状況になっていると思います。
撤退する日本社会のインフラ
そういった意味で例えば計画的にものを進めていく、もしくは市場が拡大していくときの広告の役割は、おそらく拡大路線になっていくときに、メディアメッセージを使って全員の考え方を揃えていくこと。もしくはそのブランディングによって成長しているものなので、それが細部に渡って、幹が木の枝を伸ばすように社会に発展していくようなコミュニケーションなのではないかと考えます。
僕が『魔法の世紀』の中で、1番大きな変換だと思ったことは、20世紀型のみんなで同じ機械で同じ音を聞くっていう産業、もしくは映像コミュニケーションじゃなくて、21世紀というのはおそらく視覚や聴覚のダイバーシティであって、耳がどこで聞こえるのかとか、ものがどこに見えるのかということは、劇場型の同じ映像を見る社会とはぜんぜん違う様態になるんじゃないかと思うわけです。
それはどういった意味かと言うと、例えば聴覚に障害があったとしてもグラスウェアをかけていれば字幕で文字が表示されるようなことはみなさんも想像に難くないし。例えば、目が見えなかったとしても音がスポットで耳元についてくれば、それはおそらく今までと違った多様性の高いコミュニケーションができると思います。
しかしながら我々の社会というのは、2010年代にみなさんが高齢化社会と聞いてどういうことを考えたかわかりませんが、僕が高齢化社会に持っているイメージは生活科か社会科の教科書に「みなさんの世代は高齢化社会を支える世代です。大変です」と書いてあったんですね。大変以上の情報はたぶんなかったと僕は思います。どうやって解決したらいいか、なかなかわからない。
しかしながら、人口統計はほぼ確実に我々の2060年の社会にインフラの撤退を強いていますので、それをテクノロジーを使ってなんとかしていくか、もしくは移民を受け入れていくしか、我々の今のインフラストラクチャーを保つ方法はないと思います。
でもそうなったときに、僕が今、国からお金をもらってやってるプロジェクトとか、はたまた産学官を越えてやってる枠組みというのは、どうやって我々の社会が問題に向かい合っていくか。
高齢化の問題や、高齢化すると例えば耳が聞こえなくなったりとか、目が見えなくなったりするというような視聴覚の枠組みを、どうやってテクノロジーを使ってアップデートしていくかということを考えています。
例えば老人ホームを支えるのに、どうやってロボティクスを入れたらいいんだろうとか、もしくはそこで支えられていた人たちをさらに社会が包含可能にする、インクルーシブにするためにはどういったオーディオビジュアルのデバイスが、視聴覚を補助するようなデバイスがあるんだろうかというのを考えています。
魔術化の時代になっている
僕の専門はもともとホログラムです。ホログラフィックなテクノロジー。例えば音や光というのが空間にどうやって伝播するか、もしくは計算するかということをまずやって。
そこからどうやって3Dプリンタやロボティクスや、はたまたそれを活用するためのブロックチェーンや、それを支えるためのトータルコンピューティングまで含めて、どうやってテクノロジーのエコシステムを考えていくかというのが、僕が今おもにやっていることです。
今日のお話はその中で、じゃあどうやって広告というものを考えていったらいいのかお話ししたいと思います。例えばこういったテクノロジーと、あとテクノロジーによって支えられた社会構成というものがあったときに、我々はどうやってそこで大きなコンセンサスとか、興味というものをループしていけるのか、というのは非常に重要だと思います。
『デジタルネイチャー』という本を、来月(6月)出すんですけど、その中で1つ『魔法の世紀』からフレーズされたことがあって。近代以前というのはおそらくまじないの時代です。これは、マックス・ウェーバーの著書の中で書いてあるようなことです。
人類は近代以降、科学によってあらゆるものを脱魔術化してきました。どういう意味かと言えば、まじないによって火でステーキを炙るんじゃなくて、火でステーキを炙ると中の細菌が死ぬから食中毒になりにくいとか。そういったことはまじないじゃなくて、科学によって証明されてきたのが、この時代だと思います。
しかし我々が今直面しているのは、計算機、もしくはコンピューターもしくはどういう言い方でもありますが、インターネットでもいいですが、あらゆるものは中を開けてもわからない魔術化の時代にもう1回なっているわけです。
例えばみなさんの持っているスマートフォンを分解して、中の基盤を眺めたところで、そのスマートフォンはどういう機能を持っているか言い当てられる方は極めて少ないと思います。
しかしながら再魔術化が進んだ末に、僕は自然になる(というのが)ここ数年研究してきた最終的な結論で。それは計算機の中で何度も何度も計算することを繰り返した末に、我々が今このフィジカルな世界で起こっている計算、例えば生物や自然やいろんなものがやってきた計算と同様に、コンピューターの中と外の区別がつかなくなる自然というものが、おそらくAIによって出てくるのが今だと思います。
マス広告は死なない
じゃあ、この時代に広告っていったいどういう意味を持っているんだろう。おそらく魔術化した時代には、知らないものが増えます。つまり、ほとんど意味のわからないもの、中を見てもわからないものが増えるわけです。そうなったら人が持っている興味の総量というのは、どうやって産業に乗るんだろうか。
もしくは社会の問題として認知しないとおそらくみんなが困ることや、もしくは新規に参入してきたものというのは、コミュニケーションしておかないとおそらくは伝わらないような社会になっていると思います。
例えば、さっきこれが始まる前に個別のインタビューに答えたんですけど。「マス広告は死にますか?」と聞かれると、マス広告はおそらく死なない。
なんで死なないかと言ったら、例えば僕の家のとなりに新しいコンビニのような牛丼屋のようなよくわからないものができたとします。でも、その前を僕が通りかかったとして、中に入ってみようがそれがいったい何かわからないわけです。
しかしメディアメッセージというものは、それがそこにたどり着く前に我々に教えてくれるという機能を持っていて。それは教育ではなく、社会全体に対してどうやって新しいものを慣らすかとか、我々の問題をどうやって課題で解決していったらいいかをシェアするというような機能が、もちろんマス広告の意味として含まれていくのではないかと思います。
今日はそういう点で、どうやったら新しいアプローチをとれるのか、日本の再興を考えられるのかということをテクノロジーの面からしゃべっていきたいと思います。
僕の専門は光と音と言いましたけど、バーチャルリアリティも光と音の産物です。例えば空中にHoloLensで3Dの像が見えるというものも、我々にとってオーディオビジュアルが最も使っている感覚ですから。
(スクリーンを指して)ここに今金魚が泳いでますけど、あそこにまったく同じ……まったく同じじゃないですね。解像度の高い金魚が水槽の中にいて、解像度の低い金魚が空中にいると。
この金魚ってどのくらい差があるかと言えば、我々はふだん金魚を取り出して触ったりしないですから、目と耳で聞こえている限りは、どっちの金魚にも差はないと僕は思います。
例えばそういった、バーチャルにあるもの、AIでできるもの、人間とフィジカルなものが、どうやって調停していくのかは1つキーワードになっていると思います。
コンピューターを使って視聴覚を最適化
僕らが例えば会社や大学、もしくは大学を超えた大きなネットワークラボで研究していることは、どうやったら網膜投影のディスプレイを作れるかとか、デジタルパブリケーションのツールを作れるかといったことです。
僕の中では網膜投影というのは必然で。なんで網膜投影が必然かと言うと、我々が今映像コミュニケーションに使っているあらゆるデバイスはフォトン(光子)を無駄遣いし過ぎだからです。
つまり、みなさんの網膜をすべて足し合わせても、きっとこの演台くらいの面積しかないのに、我々はそれよりでかいディスプレイやそれより発光量の高いエネルギー源を使って、人にコミュニケーションを取っているわけです。明らかにフォトン(光子)も無駄にとってるんですね。
普通に考えたら、そうじゃないテクノロジーが出てくるだろうな、と僕は思っています。
はたまたそういった人間が何を見て、何を考えているのか、もしくはどういった反応をするのかというようなことは、コンピュータービジョンの発展とともに非常に進歩してきました。
うちのチームの大阪大学の菅野先生という方が視線トラッキングをしていたりとか。あとはデザイナーの方ですけど、富士通の本多さん。聴覚が聞こえない人にどうやって振動で、触覚で情報を届けるかみたいなことをやっていたり。
はたまた、ソニーCSL(Sony Computer Science Laboratories)の遠藤さんは、義手や義足を使ってどうやったら人間の身体の多様性を作っていけるかをやっている。
これらの共通点はいったい何でしょうか。我々は情報を伝達する、もしくは情報を使ってものを作る、はたまた、それを人によって多様化する。それは全部コンピューターの力ですよね。
つまり、コンピューターを使って、どうやって視聴覚や体の動きや、もしくは保管された情報を最適化していくかというのは、今起こっている大きな社会問題の1つです。
それは単に、アスリートもしくはオーディオビジュアルの問題だけではなく、例えば介護施設でどうやって車椅子の自動運転をするのかなどといった、身体多様性に合わせたテクノロジーというものが社会に大きく必要になっていきます。