ネクソンはいかにデータに立ち向かうか

カン・デヒョン氏:みなさま、こんにちは。カン・デヒョンです。私、実は外向けの活動もあまりしませんし、会社と家を行き来するようなかたちで、常に静かに業務を見ているタイプなので、私に「Keynoteをやれ」という指示があったときに、果たしてどれ位の方が来てくださるのかと心配もありましたけれども、このように後ろまでぎっしり詰めていただいて、感謝申し上げます。

今日の発表のテーマは、あまりにも大々的なテーマですけれども、「楽しみに向けた航海」ということで、NEXON(ネクソン)がデータやAIに立ち向かう方法について申し上げたいと思います。

先にお断りをしたいのですが、航海をしているということであり、あくまでも成果物に対して何か結論を出すということではございません。

データとAIを通じた本質を探求する過程、その過程で得たヒント、そのヒントによってつかんだ方向性の話をさせていただきたいと思います。

私もNDC(Nexon Developers Conference)が開催されていた初期は講義をしたり、縁がつながり、組織委員会のメンバーとしても活躍しましたが、当時と比べると、NDCが本当に大きな行事になったような気がいたします。

感慨に耽けるような今ですけれども、このKeynoteはこれまでの講演とはまた違った種類のものになるかと思います。より多くの層の方々にご提供するKeynoteということで、若干大がかりな内容を申し上げたいと思います。

業務関連の具体的な内容は、今後のセッションで聞いていただきたいと思いますので、ゆったりとした雰囲気で聞いていただきたいと思います。

オリンピックのカーリングを退屈だと感じた理由

あまりにもありきたりなテーマだとは思いますが、みなさまにとって、楽しみとはどのようなものでしょうか? ゲームというものが誕生して長いのですが、いまだにこの問いの答えについては、誰も結論を出せていません。

もちろんこの場でも答えをお出しするつもりはありませんけれども、本日はこの「ゲーム」を、楽しみを探していくさまざまな観点のうち、私たちの考えるまた違った観点の1つとして、提示したいと思います。

このパワーポイントをつくる際に、過去につくったものをさぐってみたところ、このようなものが出てきました。

2010年あたりだったと覚えているのですが、時期的に考えると、バンクーバーの冬季五輪が開催されていた時期でした。

この際に「おもしろくない種目は、カーリングではないか」と挙げていたのですが、今、振り返ると、10年前は本当に愚かな話をしていたような気がします。後悔しています(笑)。

そして、「このように愚かなことを話していたんだな」と言うだけではなく、なぜそのようなことを思ったのか、もう少し深く考えてみるべきだと思いました。なぜこのように思ったのでしょうか?

当時は(カーリングは)本当に退屈な試合でした。「なぜこんなスポーツがあるのか?」という感想でした。ルールもちゃんと理解できていなくて、掃除をしているような感じで氷を磨くスポーツで、「本当に変だ」と思っていたわけです。

当時、韓国チームが参加していたのかどうかよくわかりませんけれども、とにかく韓国チームの試合ではなかったということははっきりと覚えています。

そして解説者も、逆転をしても緊迫感のある解説をするわけでもなく、(ただ)「逆転しました」と言うような、本当につまらない解説でした。

なので、私の立場で考えると、「本当につまらない」という面では印象深いスポーツがカーリングだということで、10年前このスポーツを(例えに)入れていたんです。

ゲームの「楽しさ」はどこから生まれるのか

ここで過去の印象深い書き込みをキャプチャーしてきたのですが、ここに「ゲームの中で1ゲームするという意味は、1回しかしないということではないわけです。適当に緊張感のあるゲームの中で、存在感のある戦いをして、勝つゲームをしようということなんです。本当に満足いくゲームプレイをしてこそ、このゲームをちゃんと満足して終えられるという意味も盛り込まれているわけです」とあります。

私はこの書き込みを見ながら、「楽しみの本質というものは、ゲームのルール以外に、コンテンツ以外に、他のものがあるのではないか?」という疑いを持ちました。

ゲームを作っているということは結局、ユーザーを楽しくさせるということだと考えた場合、「この楽しみを最大限に引き出すために、効率的なアプローチをしているのか、非効率的なアプローチをしているのか?」という問いかけをすることができると思ったのです。

ここにある書き込みのようにプレイができるのであれば、本当に満足のいくゲームで、「1回やってそのまま終えられる」と共感してくださると思うのですけれども、ここで話している満足感、楽しみというものは、果たしてどこから起きているものでしょうか?

正解は複雑な話になるかと思いますが、これを少し大げさに考えてみると、このような楽しみは、例えばジャンケンポンのような、単なるルールを持ったゲームをやっても、通用するような話ではないと思います。だとすれば、「ゲームの中で楽しみをつくり出す部分というのは、どこから生じているのか?」ということを考えるべきなんです。

話を元に戻します。韓国では平昌五輪の際、カーリングが本当にヒットしました。このカーリングの試合が楽しかった理由は何でしょうか?

このように解釈してみたいと思います。

応援するチームがあったということ、すなわち韓国チームが出場したこと。

(韓国チームの試合は)逆転に逆転をくり返すような、緊迫感あふれる試合となりました。(国民は)負ける試合よりは勝つ試合が好きなので、逆転に逆転を繰り返し、最終的には連勝したわけです。

そして、韓国人ならご存知だと思いますが、選手のキャラクターが独特で、本当に親近感のある話をしながら試合を展開していったので、人気があったわけです。このようなおもしろさはどこから発生したのでしょうか?

これを(ゲームに)置き換えて考えると、ゲームの真の楽しみというものは、どのような領域で発生しているのか? 若干誇張して問いかけてみたいと思います。

ユーザーの満足度はどこに左右されるのか

この問いの答えを探すために、我々は次のような試みをしてみました。

NEXONのPCオンラインゲームのほとんどは、ゲーム後に満足度調査をしていますが、ここから出たデータの分析をしてみたところ、特異点がありました。

当然の話かもしれませんが、PCオンラインゲームをする際には、1人のユーザーが1日に何回もアクセスするわけですが、満足度がアクセスするたびに変わっているということです。

なので、同じゲームを同じユーザーがやっていても、その都度、どのような経験をするかによって、私たちが思う以上に大きな幅で満足度が変わっていたということです。

当然、満足度が大幅に変わっていたことに加えて、リピート率も変わっていました。これもまた置き換えて考えてみたいと思います。

このような満足度は、NEXONのさまざまなゲームの中でも差があります。

平均的に満足度が高いゲームも、相対的に若干満足度が落ちるゲームもありますけれども、例えば、どのゲームにおいても、1人のユーザーが1つのゲームにアクセスするたびに、どのような経験をしたかによって、満足度の差が10以上あったんです。これは何を意味しているのでしょうか?

ゲームの楽しみが発生する領域のどこの割合が大きいのか、我々が「楽しみ」が発生するポイントを効率的にキャッチしているのかということについて、大変貴重なデータ結果があったわけです。

そしてこれは、このような解釈の仕方もできると思いました。

すなわち、我々が一般的にゲームと呼んでいるものをつくるときに、ルールは企画者がつくります。シナリオはライターが書きます。そして、アーティストがグラフィックをつくって、サウンドデザイナーがサウンドをつくりますけれども、一般的にゲームをつくるといった時に思い浮かべる(それらの静的な要素の)満足度よりも、その他の(動的な)要素。

例えば、どのような攻防のプレイをするのか。逆転に逆転を繰り返すプレイをすることはできるのか、一方的な試合なのか、勝つのか負けるのか。

もしくは、ゲーム内でどのようなユーザーに会って、どのような印象深い出来事に出くわすのかということが、ゲームの楽しみにおいて、我々が考える以上に大きな影響を与えるのではないかと思ったのです。

そして同時に、これらのゲームの中の動的な要素は、我々がコントロールすることはできない自然発生的なもの、ユーザー間できちんと把握して、ユーザーがやるべきものだと、手放しで考えてきたのではないかと思いました。

このように申し上げると、「早まった一般論化ではないか」とご指摘されるかもしれませんけれども、私が当社に勤めながら感じていることは、依然として多くのディベロッパーは「ゲームをつくること=かっこいいゲームコアをつくること」だと信じ込んでいるということです。

ゲームコアとは、ルールなどの要素です。グラフィックもそうです。打撃感も含まれるでしょう。ですが、さまざまなそのような状況を見たときに、ゲームの楽しみをつくり出す領域というのは、それと比べてより広範囲であるものだということです。

これは我々が一般的に考える、ゲームコンテンツという領域を乗り越えたものだと思います。

視野をもう少し広く持って、新たな目線でゲームを眺めたときに、我々がつくるゲームの真の楽しみを最大限に引き出すことができると思っています。

結局、私たちはこのゲームの楽しみをきちんとつくり出してるでしょうか? みなさん、最大限に引き出してると思われますか? 結局、成功したゲームをつくるためには、ゲームコンテンツだけをきちんとつくるだけでは足りない、という結論に到達します。

多様化するユーザーの好みをどう捉えるか

誤解のないよう申し上げたいのですが、ゲームコンテンツの(満足度の)割合が小さいというわけではありません。

ゲームコンテンツの(満足度の)割合をそのままに、より広い部分が一部あるのではないか、という疑問です。このゲームという大きな塊を定義する際に、我々は、今の塊よりもう少し大きな塊で解釈すべきだという意味です。

ゲームユーザーには、本当にいろいろな方がいらっしゃいます。特定の好みを持ったユーザーには従来のアプローチの仕方が正しいと思います。

ですが、今は中高年層もゲームをしますし、幼い子供たちもゲームをしています。ゲームを利用する側が本当に多様化しているので、より多くの好みを持ったユーザーにアピールするためには、今とは若干違った目線でゲームを見るべきだということを申し上げたいと思います。

では、なぜ当然な話であるにもかかわらず、我々はこれまで(ゲームコンテンツ以外の要素を)あまり評価してこなかったのでしょうか? 若干攻めの話になるような気もしますが、私の自己反省ということで聞いてください。

私はゲームが好きでゲーム業界に入りました。それで自ずと、過去に好きだったゲームを再現しようとがんばったわけです。それは私にとって自然な流れでした。しかし結局、私の思考の幅をそのような考え方が縮めたという結論にいたりました。

今のユーザーが求めているかわからない、過去のロマンを実現しようとしていたのではないかと考えるようになりました。

現在のユーザーのみなさんにそのようなロマンがないと言ってしまうのは、少しいきすぎた話かもしれません。なぜなら、我々の世代と同じロマンを持った、同じ時代を生きてきたユーザーもいるからです。

ですが、我々が未来を先導する立場にありながら、未来を引っ張るには限界のある考え方に閉じこもっているのではないかと思います。

特定のユーザー、特定の年代層のゲームをつくるのであれば、そのような考えをする必要がないのですけれども、もう一度振り返って考えてみるべきです。

我々のロマンは未来志向的なのか、現在のユーザーのロマンと一致しているのか。もしくは、過去のロマンに従っているのか、追いかけているのかということです。「中世のファンタジーは今のユーザーも好きなのか?」など、質問をするポイントは多々あると思います。

ゲーム業界の“ブラインドスポット”の解消法

私はまだ、このゲームという産業には“ブラインドスポット”がけっこうあると思っています。

“ブラインドスポット”というのは、一般的に自動車のサイドミラーに例えたときに、見えないところ、死角地帯のことを呼びます。

結局は、オーソドックスに逆説的に考えると、専門家が集まることによって死角地帯が生じていると思うので、それを解消しなくてはなりません。

そのようなことが加速化すると、今現在のマーケット、今現在のユーザーだけを早期に満足させるには良いとは思いますが、長期戦で考えると、結局はマーケットを小さくする方向に向かっているのではないかと考えます。

このような問題を解決するためには、視野を広めて状況を客観的に解釈する必要があり、我々はそこで、AIが大変有用なツールになると考えます。

私はこの“ブラインドスポット”という単語が大好きです。

会社で意思決定を下す際に、「私が見逃した部分はないのか?」「他の観点で見たときには、また違って見えてくる部分はないのか?」ということを常に考えます。

そこで私は常に他人になりきって、私が出した決定をもう一度考えます。

例えば、俳優があるキャラクターを演じることになったときに、そのキャラクターになりきってある期間生活をしますね。それに例えるまではいきませんけれども、私もそのような没入過程を経て、その人になりきっています。

例えばゲームテストをするときに、中学2年生がキャラクターだった場合には、中学2年生になったつもりで演じたり考えたりします。

「もうすぐおかあさんに怒られるだろうな」と考えながらゲームをしたり、中間テストが終わった後に、大変すっきりとした気分でゲームプレイをしたりして、中学2年生になりきります。

クリエイティブは人間だけのものではない

そのようなゲームプレイをしてみると、そのような行動パターンが、これまで考えることのできなかった観点を見出すときに、思ったより大きな役割をするわけです。なので、この“ブラインドスポット”というテーマで、もう少しみなさんとお話をしてみたいと思います。

本当に退屈でおもしろくないテーマですけれども、代表的なテーマなので、お話させていただきます。

例えば、AlphaGo(アルファ碁)はクリエイティブなのか、ということです。

AIと人間の一番大きな違いとして、創意力などのクリエイティブな面を挙げますが、私は同意できません。

例えば、「このAlphaGoが人間だったとした場合、どのような囲碁の棋士だったと思いますか?」と質問されたとします。

私は囲碁をうまくできませんけども、囲碁の専門家は「創意的で実力、腕前のある囲碁のプレイヤーだ」と答えるでしょう。ですが、「創意的なクリエイティブさは人間だけが持てる領域だ」と言い切れるでしょうか。

なので結局、この世の中に新しいものは何もないという話のように、このクリエイティブというものはすでに存在するもの、現象を眺める新たな観点、もしくは独特な目線、モノとモノをつなげる目線だと思っています。

そのように創意、クリエイティブを解釈したときに、ビッグデータやAIというのは、ある意味でもっともクリエイティブなツールだとまとめることができるわけです。

すなわちマシンラーニングは、誰も発見できなかった楽しみを発見する過程において、大変有用なツールだと見ていますし、この“ブラインドスポット”を発見しやすいツールだということなんです。