浜松で育った吹野氏、子どものころからメカニックに興味

アマテラス藤岡清高氏(以下、藤岡):吹野さんの家族構成や生い立ちについてお話をいただけますでしょうか?

吹野豪氏(以下、吹野):家族構成は、父親、母親、祖母、そして弟と妹がいます。私の生まれは千葉県で、育ちは浜松です。私が5歳くらいの時、料理人だった父親が自分のお店を始めるタイミングで、浜松に引っ越しました。

かなり山奥に住んでいたため、ゲームセンターやコンビニさえない場所で遊びといえば川で泳ぐ、木に登るという原始的な遊び方だけでした。父親がメカ好きで車やバイクが家に何台かあり、小さい頃から機械に親しんでいました。浜松という土地柄(注:ヤマハの拠点)、バイクに乗っている人が多い環境でしたね。

中学時代は野球部に所属して部活漬けでした。その時からバイクに乗りたいという気持ちがあったため、高校に入ってアルバイトをし、そのお金ですぐに免許をとりました。

私はあまり真面目な学生ではなく、勉強が好きなタイプではありませんでした。けれども、物理や数学は好きで自分なりに楽しく勉強をしていました。逆に国語や英語のように答えが一つではない教科はあまり好きになれませんでした。大学も理系の学部を専攻しました。

藤岡:料理人のお父様は吹野さんにどのような影響を及ぼしたのでしょうか?

吹野:父を見て料理人になろうと思っていた時期もありました。小さい頃から料理に親しんでいましたが仕込み時間の長さなど、料理の大変さを肌で感じていたので、自分でお店を始めてみたいという気持ちはあるものの、無理かもしれないと子どもながらにずっと感じていました。

吹野:私の親は、「やりたいことをやれ」というのが基本的な教育方針でした。私が大学生の時に「来月からカナダに行きたい」と相談をしたら、「行きたいなら行ったら良いんじゃないか」と軽く返事をされました。

また、私は高校生の時から一人暮らしをしていました。父親は、「一人で生活することも良いことだ」と私の考えを尊重してくれました。

英語が理解できないまま、勢いでカナダ留学に挑戦

藤岡:大学時代にカナダに留学されていますね。

吹野:カナダに行った理由は、高校の時に得意ではなかった英語を学ぶためでした。日本の大学で初めてできた友達がマレーシア人とドイツ人で、その2人は2年しか日本に滞在していなかったのにも関わらず、日本語が流暢でした。私はその2人の英語を聞いても、全く理解できず、とにかく海外に行けば英語力向上につながると思い、ノリでカナダに行きました(笑)。

カナダではコミュニティカレッジに編入をしました。当時、英語はできなかったもののプログラムを読むことはできたので、プログラミング会社でバグつぶしのバイトをしていました。そのような生活をしていくうちに英語が話せるようになり、途中からは、英語を勉強しながら工学系の授業にも出ていました。

カナダには1年と5ヶ月くらいいました。私の祖父が亡くなったという知らせを聞き、中途半端な留学期間ではありましたが、日本に帰ってきました。帰国後は、転学して日本の大学に入りました。

藤岡:大学卒業後のお話を聞かせてください。

吹野:大学卒業後は東京のソフトウェア会社に入ったのですが、4カ月で辞めてしまいました。その理由は、もの作りに関われなかったからです。大学でやっていたプログラミングを面白いと感じ、それを社会人になってからもやろうと考えていたのですが、実際はものを扱わないプログラムが世の中にはたくさんあることを知りました。

もの作りではないプログラミングは私にとって魅力的ではありませんでした。ソフトウェア会社を辞めた後は、地元浜松で3次元スキャナや光ディスク関連の電機メーカー、パルステック工業に就職しました。

吹野:浜松に戻った理由は2つあります。1つは実家が料理屋で両親が忙しいため祖父母に面倒をみてもらうことが多かったですが、カナダ留学時に祖父が亡くなったのがきっかけで帰国しましたが、急なことだったので祖父の葬式に立ち会うことができませんでした。

そういうことにもうなりたくないな、ということと、2つ目はモノづくりスタートアップとしては浜松というモノづくり集積地は地方ではありますがチャンスがたくさんあったからです。

3次元設計でのもの作りに携わり、家に帰るのを惜しむほど仕事に没頭

吹野:その電機メーカー、パルステック工業ではとても充実した1年半でした。入社した時は社員が400名くらいいましたが社長が、「やりたいことがあれば挑戦して良い」というスタンスだったため、入社後早い段階で希望する新規事業部に移動させてもらい、3Dカメラを作る部署でビジネス立ち上げを経験しました。

そこでプロダクトを作る、売る、事業を拡大するというサイクルを短期間で経験することができました。密度の濃い1年半で、家に帰るのももったいないと思うくらい仕事を楽しんでいました。

上司から、「これ以上残業しないで休め」と言われても、出勤簿に残業時間を書かずに働いていました。会社に常に室温25度に保たれている精密測定室があり、そこで仮眠をとって帰らずに仕事をする状態が1年くらい続いていました。

もの作りの品質や安全性に自分が貢献していることに喜びを感じながら働いていましたね。

藤岡:400人規模の会社で、入社して間もない新人が希望する仕事を任せてもらえたのはなぜだったのでしょうか?

吹野:とくにアピールしたわけではないですがラッキーだったと思います。私が最初に配属された部署がドイツの有名な計測器メーカーと提携交渉をする機会があり、「そういえば、吹野さんは留学していたよね?」となり、出張に同行することになりました。そこでの貢献がきっかけで周りから信頼され、帰国後は自由に働かせてもらえるようになりました。

仕事はとても充実していたのですが、1年半務めて外資系玩具メーカーに転職しました。

藤岡:充実していた職場から転職した背景は?

吹野:その玩具メーカー、はパルステック工業のクライアントで、玩具のモデルカーを三次元スキャナを使い開発するプロジェクトリーダーとしてスカウトされたことがきっかけです。

「エンジニアとしてのプライド」が本当にやりたい仕事へと導く

藤岡:欧米のトップカーメーカーとの仕事は車好きだった吹野さんにとってはたまらなく面白い仕事だったのではないでしょうか?

吹野:たまらなく面白かったです。正確には「最初は面白かった」という言い方が正しいと思います。

でも本当に作りたかったのはオモチャじゃないんだよな、という気持ちが自分の中で出てきました。海外F1チームのエンジニアに取材した時に、実際に言われたわけではないですが「お前が作っているのは安全性とかスピードとか関係ないオモチャじゃん」 という感じがしました。エンジニアとしてのプライド感が、自分と相手とは違うと感じた瞬間でした。

自分は本物のもの作りが好きでやっていたのに、ちょっと自分の趣味に走ってしまったとこの時に気付きました。4年くらいここで仕事をしてきましたがやっぱり自分が創りたいのはオモチャではない。自分の中にある本当にやりたいことをやっていないことへの焦りと産業への憧れに気が付きました。

3人で起業

吹野:そして、本当に自分がしたい3次元CADを活用したモノづくりに関わりたいと考え転職活動を始め、浜松にある株式会社アメリオの三浦社長にお世話になることになりました。

アメリオはCADのソフトウェアを開発する会社で、三浦社長はいわゆる「HY戦争」(注:1980年頃、ホンダとヤマハによるオートバイ市場での覇権争い)の際にヤマハから独立して会社を創った方で、アメリオは日本で初めての大企業からスピンアウトして成功したソフトウェアベンチャー企業と言われていました。

パルステック工業在籍時に仕事でお世話になっていた方で、その後も個人的に御付き合いして、キャリアの相談などにも乗っていただいていました。

アメリオ社に入社し、頻繁にカーメーカーに出入りして一緒にクルマを作り上げていく仕事はまさに望んでいたことでした。

私がパルステック工業在籍時に失敗したプロジェクトがありました。産業用ロボットが自動で物体認識をして自律的に動くためのインテリジェントロボットシステムの開発です。簡単に言えばロボットの「目」になるような機能、判断をする「脳」を持った産業用ロボットを作るという事業です。

そのプロジェクトに取り組んでいたメンバーがアメリオ社の三浦だったのです。プロジェクト失敗時と比べて格段にCPUやハード性能が進化していたので当時のメンバーが再び集まれば実現できるのではないかと思いました。

私はまだその事業を諦めきれずにいました。私は意を決して三浦社長に直訴しました。

吹野「以前失敗したプロジェクトをアメリオ社内の新規事業としてやりたいです。その時にいた他のメンバーをアメリオで雇用してまたチャレンジさせてください」。

三浦社長「なんで俺がそんなことやらなきゃいけないんだ? お前がやりたいと思ったことはお前が責任を持ってやれよ」。吹野「責任を持ってやるってどういうことですか?」。三浦社長「自分で会社作ってやればいいんだよ」。吹野「では、会社自分で作ってやります」。

吹野:そういう話になり、展開は早かったです。それから1カ月ぐらいで会社設立を決めました。それが今のLinkwizです。三浦社長も応援してくれて、私もアメリオの役員として勤めながらも自分の会社も兼任しながらのスタートでした。

そうして、パルステック工業時代にそのプロジェクトに関わったメンバー3人で起業しました。私以外の2人はハードウェアやロボット周りの開発を担当し私はソフトウェアの開発と資金周りや営業が主な役回りです。