「なんか変だな」をどうすくい上げるか?

学生1:お話をうかがっていると、普通の人が微妙に感じてるけど見失いがち……というか、スルーしがちなところにスポットを当てて、そこを描き出す、というような手法をとっていらっしゃると思うんですけど。

その見失いがちなものをすくい上げる感性みたいなものは、どのようにして涵養(かんよう)されると言いますか、育っていくと思われますか?

川村元気氏(以下、川村):「なんか変だな」って思うことって、実はみんなけっこう気付いてるんですよね。僕の住んでいる駅の駅前に、郵便ポストがあるんですよ。ある日、その郵便ポストの上に、熊のぬいぐるみが置かれてたんですね。ポンって。「何これ?」と思って。「誰か忘れてったのかな?」と思って、その駅通過して。

次の日もあって、またその次の日もあって。「これ、誰もなんにも言わないのかな」と思ったんですけど、3日目にふと気付いたんですよね。「このクマのぬいぐるみ、ここの駅使う何千人何万人の人、みんな気付いてるな」って思ったんです。

みんなクマのぬいぐるみのことが気になっているのに、みんな僕と同じようになにも言わずに駅を通過してるから、僕の仕事ってたぶん、そのクマのぬいぐるみを捕まえて、「これ誰のですか」って叫ぶことなんだなって、その時気付いたんです。

だから、僕の仕事は超能力みたいに物語を空中から捕まえてくることじゃなくて、もうみんなが気になってるのに、なぜが表現されてないこと、言われてないことを文章にしたり、映画にしたりすること。

そしてその時に、「それ、ずっと俺も気になってたんだよ」とか「誰かなんか言ってくれないかなと思ってたんですよ」って、急にみんなが言い出す……っていうのが、ある種「ヒットする」瞬間なのかなと。

そういうふうに見ていると、「なんでこんなところにドーナツ屋が急にできちゃったんだろう」とか、「なんで最近、よく知らないこのモデルさんがこんな広告出てんだろ」とか、そういうのっていっぱいあるんですよね。

自分の中の「違和感ボックス」って呼んでるんですけど、「変だな」って思うことをそのボックスにポコポコ貯めておく。それが発明で掛け合わさって、物語になる瞬間を待つ……というのが、僕の日常の過ごし方ですね。

「幸せだ」と感じる定位置を探す

学生2:『億男』の発明のところでおっしゃっていた人間がコントロールできない3つのもの、「死」と「恋愛」と「お金」について質問なんですが……私の考えで、「死」はコントロールできてしまうのではないかな、って思うんですけど。それを言っちゃうと「恋愛」も「お金」もコントロールできるのかなとも思うんですが、とくに「死」がなぜコントロールできないと思ったのか、理由を教えてください。

川村:まさに人工知能とかが出てきて、体がアンドロイドになって、一生生きられる時代が来るかもしれないですよね。

ただ、僕が興味があるのは「死なない」っていうことが問題解決になるのだろうか、ということなんです。つまり「死ねないということは意外と辛いんじゃないか?」って、物語の世界からすると思うんですよね。

例えば『100万回生きたねこ』っていう、僕が大好きな絵本があるんですけど。

100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)

あの猫はいろんな飼い主に飼われては死に、飼われては死にって繰り返して、死ねないで何回も何回も生まれ変わっているんです。

読んでいくうちに、「死ねないって辛いな」って思うんですよね。辛いだろうなって。手塚治虫さんの『火の鳥』とかにもそういう物語ありますけど。

その猫は、初めて愛する相手を見つけて、その愛する猫が死んだ時に、初めて泣いて、死ぬことができるっていう物語です。つまり「死ねる」っていうのはもしかしたら、人間にとってものすごくアドバンテージなんじゃないか、って思うんですね。

だから「解決できない」というのも、死ぬ・死なないってことじゃなくて、「死」と「幸せ」って関係を見つけるのはとても難しい、ということを意味しています。「恋愛」も別に恋愛を解決する・しないってことじゃなくて、それに対して自分が「幸せだ」と感じる定位置を掴むのがとても難しい、ということだと思います。

本当に、もっとも人工知能にとって難しい、人間の、数学では表現しようのない部分。さっき言ったように僕は「隙間」をずっと考えてるんですが、その「隙間」みたいなところに入っちゃってるものだな、と思っています。

人間らしさとは「何を経験したか」ではない

もう1個、(人間がコントロールできないものが)3つあると言いましたが、4つめが最近自分の中で見つかったんですよ。それは「記憶」です。「記憶」っていうのは本当に、人間には解決できないなと思っていて。

それこそ松尾さんと話してる中で、「記憶させていくんです」と言われた時に、じゃあこの人工知能でもし自分がクリエイターを作るとしたら、「味噌汁の記憶をまったく失くすな」って思ったんですよ(笑)。

つまり、なにかをごそっと記憶喪失させるな、と思ったんですね。なにかを覚えているっていうことと、なにかをまったく覚えていないとか、知らないということが特徴になるんだなって思ったんですよね。

だからなんか「人間らしさ」みたいな議論になった時に、今まで僕は「何を体験したか」ってことでできていると思っていたんですけど、そうではなくて、「何を忘れてしまうか」。どうしても覚えてなきゃいけないのに忘れちゃうこととか、忘れたいのにどうしても忘れられないこととか。

そういういびつな記憶の仕方、記憶のされ方が人間を特徴づけてるんだなって、人工知能の人たちと話していて思いました。

今、僕が書いてる4作目の小説が『月間文藝春秋』で連載してるんですが、それはアルツハイマーの話なんです。

アルツハイマーになったお母さんがいて、その一人息子がいて。ある日、自分のことをお母さんは忘れてしまう。自分の名前も覚えていない。そのお母さんに対して、その男の子は病院へ通って、自分と母親の記憶を一から、物心ついた時からの記憶を話し始めるんですけど、けっこう訂正されたりするんですよね。

例えば「海に行ったね」って記憶が、「それ海じゃなくて湖だよ」って。これは実際に僕の体験なんですけど。僕のおばあちゃんと、実際にあったことです。

本当に、いかに自分が記憶を改ざんしてるかとか、適当に覚えているかとか、大事なことを忘れちゃって、毎日過ごしてるかということに向き合うことになるんです。記憶をなくしていく人の話かと思いきや、僕らの記憶がぜんぜん適当で曖昧で、すごく書き換えられてしまっている、ということに向き合う。

人間にとって「記憶」というのはその人を決定づけるし、やっぱり自分ではどうにもコントロールできないというか、そういうものなんだなと思っていて。「記憶」と「幸せ」っていうのもやっぱり結びついてるから……そういうものを書こうと思っています。

なので、その質問に答えるなら、その「解決できない」っていうのは、「それをもって幸せと感じることがとても難しい」というのが、僕にとっての意味合いですね。

感動にセオリーはあるか?

学生3:川村さんは、小説家とか映画プロデューサーとして、「感情を揺さぶっていく側」にあると思うんですけど、例えば「こうすればこの感情が動く」とか、「こうすればみんな絶対泣く、共感される」っていうようなセオリーがあって、それを将来AIとかが代替していくことができるとお考えですか?

川村:そういうAIがあったらすぐ使うな、って思いますよね。一刻も早く発明してほしい(笑)。

(会場笑)

そして「僕だけにくれ」って思いますけど(笑)。

(会場笑)

そうですね。そこが「ストーリー」とか「人の感情」ってややこしいな、って思って、ある種僕の物語の研究材料でもあるんですけど。

例えばストーリーって、定形があるんですよ。「物語の2/3ぐらいでどん底までいって、そこから復活する」みたいな。スターウォーズみたいな。だいたいの波形ってあるんですけど、それに準じてハリウッドの脚本とかも作られていくんですね。

僕も基本的にはそれを使うんですが、ややこしいのが、お笑いとか顕著なんですけど、「次にこういうものが来る」ってわかってる時って、人って絶対笑ったり泣いたりしてくれない生き物なんですよね。

なにかそこに予想と違うことが起きた、予想と違う角度でなにかが来た時に、涙がこぼれたり、笑ったりする、っていう生き物なので。「この次はこれ」「この次の次はこれ」って、今まではそれで泣いてきたけど、それがまた来ちゃった時にピクリとも笑ってくれないし、ピクリとも泣いてくれないっていう、すごくややこしい生き物なんです。なので、非常に難しいんじゃないかな……と思います。

人工知能の映画監督と仕事をしたい

ただ僕は、人工知能の映画監督と仕事したいなと思ってて、ライゾマティクスの真鍋くんとかと小津安二郎の映画だけ記憶させた人工知能を作って、僕はその人工知能と脚本の打ち合わせをして、それがもしカンヌ映画祭とかに行ったら、レッドカーペットをパソコン持って歩いて(笑)。

(会場笑)

それでいよいよ「この作品がグランプリです!」ってなった時に、「監督がいないぞ」って言ったら「こいつです!」ってMacBookを上げる、みたいなことやりたいね、って思うんですけど。ただ、もうそれ自体が人間ぽい考え方ですよね(笑)。

だから僕は、人工知能みたいなものが発達すればするほど、逆に人間のややこしさみたいなものがクリアに見えてくる気がして。「記憶」の話を書こうと思ったのもやっぱり、人工知能の人たちとすごく話すようになって、真鍋さんとかも隣で本当におもしろいことをやってるから。

「じゃあ、あなたがそうするなら、僕はこうやって物語にしよう」みたいな。そこってけっこう、あんまりネガティブに捉えてないし、ただ、使い方が違うと思うんですよね。

つまり、人工知能がセオリーを覚えて、そのセオリーどおりに作ったものに、人はやっぱり心は動かされない。ただ、人工知能がセオリーを作った時に、「こういうセオリーで自分たちが作ってたんだね。じゃあ、同じことやってもウケないから、このセオリーからこうズラそう」って作り方はできるような気がします。そういうイメージで思ってます。

幼少期の原体験

学生4:ありがとうございます。見方とかで、すごく未来の話が質問で出てたと思うんですけれども、逆に僕は人となりのところがすごく気になりまして。

さっき、クマの人形の話もあったと思うんですけども、もう少し、中高とか、学生時代に、そういう穿った、とも違いますけど、「隙間」を見ていく、みたいな視点に目覚めたのか、それとももともとの気質だったのか、そういうところをちょっと聞いてみたいなと思いました。

川村:そうですね、さっきの「自分のお葬式のシミュレーション」っていうのは中学校時代からずっとやってましたね。「あいつ、泣かねぇな」と思いながら一緒に遊んだりしてました。

(会場笑)

「こいつ絶対泣かない、俺が死んでも」って思いながら付き合ってましたけど、もう1個観点があるとしたら、僕が6歳ぐらいの時からずーっと繰り返してる、悪夢みたいなものがあって。例えば、「今日ここに来て、東京大学の教室で喋ってる自分は、さっき生まれたばかりの赤ん坊の自分が見ている夢なんじゃないか」っていう妄想にすごい憑りつかれるんですよ。

小学校1年生の時に徒競走を走っていた瞬間に、ゴール直前で「あっ、今ゴールする直前の夢を赤ん坊の俺が見ている」みたいな。わかりますかね? 「何言ってんの」って空気になってきましたね、やばい(笑)。

(会場笑)

でも、これは『胡蝶之夢』という荘子の有名な詩がありまして。その詩を読んだ時に、「あっ大丈夫、同じこと思ってる人だいぶ前の中国にいたわー」と思って。

(会場笑)

『胡蝶之夢』と「集合的無意識」

それはどういう詩かというと、荘子が夢を見ている。夢の中で、蝶がひらひら気持ち良さそうに飛んでいた。とても気持ち良かった。でもその時ふと気付いたと。これは自分が蝶の夢を見ているのか、蝶が「気持ちいい」という自分の夢を見ているのかわからなくなった……って詩だったんですね。

「それ、俺が赤ん坊でやってるやつだ」と思って(笑)。すごいホッとしたんですけど。こうやってホッとしたように、さっきから言ってる「集合的無意識」っていうのはそういうことです。

そうやっていろんな人が、脳のどこかで同じようなことを感じていて、それが百万人単位だったり、一千万人単位だったり、一億人単位だったり。

「なんでCDプレーヤーに、CD入れてイヤホン指して聞かなきゃないんだ、うっとおしいな」ってそろそろ思ってた時に、「はい、この箱の中に全部入ってまーす」って言う人がいるわけですよね。そうすると世界中の人がそれを使い始める、みたいなことだと思うんです。

だから、そういうことをやりたいなって思うようになったのは、その自分が感じてる「変なこと」を、みんなも感じているんじゃないかってことに気付き始めた頃だったんです。でもたぶん、みんなそういう夢とか、変な感覚って、持っていると思うんですけどね。

「なんとなくわかる」を心に留めておく

最後にもう1個、僕が『ムーム』という本を書いた時のことを話します。

ムーム (MOEのえほん)

「ムーム」って、車とか空き缶とか鞄の中に、パン生地みたいなのが埋まってて、そのパン生地みたいなものを取り出して天国に返す、みたいな、自分自身がパン生地みたいなキャラクターなんですけど。

それは何を意味してるかというと、「記憶」なんですよね。物と持ち主との間の「記憶」自体がパン生地みたいなものに詰まってて、それがモンスターとか動物じゃなくて、キャラクターになっている世界なんです。

なんでそういうものを書こうと思ったのかというと、僕が小学生の時にお財布を買ってもらって、そのお財布を気に入ってずっと使ってたんですね。使いもしない銀行のカードとか硬貨とか入れて持ち歩いたんですけど。

小6ぐらいの時かな。もうそれがボロボロになっちゃったんで、「新しい財布買ってあげるよ」って言われて、買ってもらって。カードを移して、お札を移して、硬貨を移して。それで、今まで毎日大事に使ってた財布を見たら、死体みたいになっていたんです。

シュウ……って小っちゃくなっちゃって。「あれ? 今まであんなに生き生きしてたやつが、急にしゅんってなっちゃった」って。これはたぶん、僕とこいつの間に思い出みたいなものがあって、それが抜けちゃったんだな、ってその時思ったんです。

手帳を買い替えて前の手帳を見た時とか、自転車買い替えて前の自転車見た時とか、半年ぶり引き出しにしまってた携帯電話見た時とか、みんな同じような感覚になるんですよ。

なんか死体みたいになってる。ここにはなにか、物理的に説明できないエモーションとかメモリーがあるんじゃないかって、ずーっと子どもの時から思ってて。

この話をして、たぶんこの会場で「何言ってんのあいつ」って思ってる人、あんまりいないと思うんですよ。だいたい、なんとなくわかる。この「なんとなくわかる」ってことを、自分の中で大切にとっておくようにしてるんです。

だから、残念ながらなにか特別な生き方をしているわけではないんですよ。ただ、そこをすごく大事に留めておくようにはしてます。

時間切れですね。本日はどうもありがとうございました。こういうところへ来ていつも思うんですけど、ひょっとしたらここにいるみなさんが、将来、映画の仕事をするのか、本を作るのか、海外でエンターテイメントやるのかわからないんですが、お会いする機会も、もしかしたらあるかもしれないですね。

その時は必ず、「あの日、東京大学で聞きましたよ」って一言、僕に言ってもらえるとうれしいです。本日はどうも、ありがとうございました。

(会場拍手)