外資系投資銀行時代の悲惨な思い出

小澤隆生氏(以下、小澤):さあ、ここからあと何分あるんですか?

スタッフ:質問を入れると25分。

小澤:25分でしょ。そしたら、お三方が若い頃になにをやってたか。どうやったらこうなるんだと。それを受けてみんながなにをするんだという話ですよ。20代はなにをやってたんですか?

谷家衛氏(以下、谷家):神戸の男子校出身なので、「大学にさえ行ければちょっとはモテるかな?」と思ってきたんだけど、ぜんぜんダメで。もう「モテたいな」ということしか考えてなかったですね。

でも、就職するときはよくわからなくて。公務員試験とかも一応受けようと思ったんですけど、気がついたら試験が終わってて。最後の2年、試験以外で学校に行ったのは1回しかないですね。

(会場笑)

谷家:それで就職するときにみんな……僕らのときは本当に売り手市場で、今もまたそうなってるみたいですけど、もう本当に誰でもどこ(の企業)でも行けるような時代。86年とか87年なんですけどね。

そこで銀行に行こうと思ってたんですけど、リクルートでバイトしてて、いろいろなおじいさんの話を聞いていると、僕らの時代だったら、30年くらい前に、ホンダとかソニーとか小さい会社に入ったおじいさんたちのほうが「自分でも(会社を)一緒に創ってきた」と思っていて、「すごく幸せそうだな」と思い、やっぱり銀行に行くのをやめて、小さい会社に入ろうと思ったんですね。

でも、「小さい会社に入るとどうも潰れるらしい」ということを聞いて。「じゃあ、アメリカで、大きくて、日本に来たところの会社に入ればいいんじゃないか」と思って入ったのが投資銀行(ソロモン・ブラザーズ)です。

そしたら、それはもう悲惨な環境でした。上司がキチガイみたいに怖くて。トレーディングをやってたんですけど、上司がバットを振り回しながらトレーディングをやってて、その中でヘルメットをしながら、「損したら殺されるな……」と思うような環境でやっていました(笑)。

小澤:(笑)。

谷家:今思うと、そういうのが結局よかったですね。

小澤:さあみなさん! 参考になりましたか!?

(会場笑)

小澤:……優柔不断。決めることもできず(笑)。みなさん確認しましょう。安心する会ですから。「大丈夫だ」「いつでも間に合う」と。「そのような状態でも、絶対にここまで来られる」ということでございます。

このあと1周してから、最後に若者に言いたいことを言って、「でも、さすがだな」と思っていただけるように盛り返しますから、今はみんなを安心させましょう。「俺たちはすごい」と言ったって、そんな講演意味ないじゃないですか。

平さん、どうですか? 20代はなにをやって、なにを考えて生きてたんですか?

バブル時代の大学生の関心事

平将明氏(以下、平):たぶんここに来てるみなさんとぜんぜん違ってて。僕らはバブルだったので、大学時代は就職なんてどこでもいける時代で。私は早稲田の法学部だったんだけど、早稲田の法学部って本当にダメで(笑)。

小澤:僕もなんですけどね(笑)。

:ああ、そうですか。だからもう、ぜんぜん勉強する気ゼロですよね。大学もほとんど行かなかったし、そのときはバブルだったので、「どうやって車を購入して、女の子とデートに行くか?」という世代なんですよ。

小澤:一緒ですね。

:一緒ですよね。だから私の大学時代の一番目の関心事項は、浜崎橋のカーブを時速何キロまで曲がれるのか(笑)。

(会場笑)

小澤:いつ目覚めるんですかね?

:就職も何をやっているのかよくわからない社長と仲良くなって、「平くん来いよ」って言われて。

それで1年ぐらいやったんだけど、ちょっとぜんぜん違うなと思って。もうしょうがないので、駅に今、キヨスクってあるんですかね? 駅のキヨスクで当時『B-ing』という就職雑誌を買って、それをペラペラめくって、それで不動産会社に就職をしました。

小澤:いまだに目覚めてないですね(笑)。

:ぜんぜん目覚めてなくて(笑)。

そしたら親父の具合が悪くなっちゃって、後を継がなきゃいけないと。うちの兄貴はコーネル大学の大学院に行ってて、僕は日本でサラリーマンをやってたので、後を継ぐことになって。

それをやっぱり潰れそうというか、もうバブルが崩壊して、銀行に言われてどんどん買った資産が全部暴落してて。さっき言ったように、取引銀行が2つ潰れちゃってということで、中小企業をもう立て直さざるをえないので、ちゃんと夜勤をやりながら、まあよく働きましたよね。

ちなみに私、フォークリフトで10トン車にレタス1,000ケースをピタッと入れますから。こんな政治家いませんから。

小澤:それは(笑)。

:東日本大震災の時に、自民党本部を支援物資のデポ(保管所)にしたんですね。それで私は、ティッシュペーパーやトイレットペーパーが足りないと言って、仲間の製紙会社からポケットマネーで買って。

被災地に送る時に、運転手さんが下手くそでダラダラダラダラやってるから、「ちょっとどけ」と言ってフォークリフトで載せたんですよ。そしたら、自民党の職員からすごいリスペクトされました。「平さんすげえ」というふうになって。

(会場笑)

衆議院議員・平氏が政界に進んだきっかけ

:それで、やっぱり会社を継いでから、もうやらざるをえないので、いろいろ勉強したし。そのあとだから、「銀行はダメだな」と言ってさっきの話になって、失敗をし。「政治はダメだな」と思って……。

政治はなにかというと、僕は青年会議所に入って理事長をやってたので。今、公開討論会ってやってるじゃないですか、それを広めるのをやってました。

公開討論会をやって、おバカさんの世襲は出られなくなって、ざまあみろだったんだけど、それ以上に、誰も入れたくない選挙区ってあるんですよ。こうやって討論会をやっていると誰にも入れたくない。

そういうのって、やっぱり自分で出るしかないんだろうなと思って。公開討論会をやったら、反射的に政党のほうは公募制度って入れるようになったんですね。結果として、私は公募で応募して政治家になって。

だから、うまくいったりいかなかったりを繰り返しながら、さっきの藤原さんの話でいくと、右足が大田市場の仲卸で中小企業の経営。左足は、青年会議所のリーダーとして、世の中を変える公開討論会とか、そういう啓蒙活動。そして今、政治家として、lawmakerとしてやってるという。本当に勉強になりました。ありがとうございます。そういうことかなと思います。

小澤:ありがとうございます。やっぱり家業を継がれたぐらいの瞬間で、大きく人生が変わっていらっしゃるんですかね。

:家業を継ぐと資金繰りに追われるので、時間との戦いで。だから、売上を伸ばすか、利益率を上げるか、経費を落とすかしかないんですよ。その時間軸は資金繰りのタイミングなので、試験があると勉強するのと一緒で、毎月追い込まれるから、ずっと改革し続けなきゃいけないということですかね。

小澤:なるほどね。

:だから、それはやっぱり生きるか死ぬかなので。というか連帯保証をしているので、会社が破綻すると社員も我々も大変なので、そこで追い込まれたあたりからちゃんとした大人になってきましたね。

人生のターニングポイントをどう作るか

小澤:これね、けっこう大事なんです。やっぱり人って、自分で変わろうと思って変われる人と、環境によって人生や自分の考え方を大きく変えていらっしゃる方。まあ谷家さんにとってバットを持っている上司がどう影響してるかわからないですけど、やっぱり猪子(寿之)さんとか、そういう出会いってでかいわけですよね。ターニングポイントってありました?

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