目の中に針を入れたニュートン

マイケル・アランダ氏:科学に関する話をするとき、大体の場合、周到な方法論と細心の計算が伴います。しかしながら、ときには型破りなものもあります。

これまでの歴史で、科学の名の下で行われてきたのは、非常に突飛なことでした。いくつかは、とんでもなく馬鹿げたことであったり、あるいは愚かであったり悲劇的だったりします。これらの6つをお話しましょう。

アイザック・ニュートンは、万有引力を発見したことはよく知られていますが、視覚に対する研究も行いました。1665年ごろに彼は、プリズムがどのように光と相互作用するかの研究を始め、彼の実験は、白い光が色彩のスペクトラムに分解することを実証した最初期のものでした。

光と色に対する探究心は、物理的な側面にとどまらず、どのように心が色彩のイデアを認識するか、目の中の肉体的な知覚がどのように認知に影響するかということに関心を抱きました。そして、彼は紐通し針、つまり長くて細い針を、自分の眼球に直接押し入れようとしました。正確に言えば、眼窩付近の骨と眼球との間です。これはまったく画期的な考えだったのです。

彼は、眼球に沿ったさまざまな部分に突っ込むために、紐通し針を用いました。彼はさまざまな色彩の部分が現れると信じていました。彼がまた、その色彩は負荷をかけた圧力と部屋の明るさによって変化することを発見していました。より危険度や恐怖が少ない実験として、目を閉じて目をこすると、同様のものを見ることができます。

今なら、ニュートンが体験したのは、網膜の中で特化した、錐体細胞と呼ばれる感光体からもたらされたものだということがわかります。錐体細胞は光の多様な波長に反応することで色彩の認識に寄与しています。眼球に圧力を加えながらも、ニュートンは、まるで光に触れているかのように単にこれらの細胞を刺激したのです。

私はこれを賢いやり方だと思いますが、目は大変デリケートですから、みなさんは巨大な針でそれを突くことは大変危険だと思うかもしれません。彼は大丈夫でしたが、実際に行うのに賢明であるとはいえません。最悪の事態は、ニュートンが目を扱うのに注意力を逸した時にだけ起こるでしょう。

彼はもう1つ、残像を起こさせるための実験を行いました。残像というのは、カメラのフラッシュのように明るい光を見た後に見える曖昧な形態や点のことです。

残像は網膜の感光体の細胞が、刺激を受けすぎ、光が無くなってもしばらくの間活発になり続けることで生じます。この効果を再現するため、ニュートンは鏡を持って暗い部屋に入り、右の目で太陽の反射を見つめることにしました。そして彼が目をそらすと、点を知覚しました。彼はもう一度太陽を見つめました。何度もです。というのは、最初の1回では何もわからないからです。

しばらくして、太陽のイメージがしばらく印象を持続し、右目を閉じても、あるいは左目を開いても点が見えることに気づきました。彼は、太陽のイメージがどこでも見えるというほか、何も見えなくなった時に目が損傷を受けたことを理解しました。そして、視覚が戻り始めるまで、暗い部屋に3日間閉じこもりました。しかしながら、通常の状態に戻るまでに数ヶ月かかったのです。

今日では、太陽の紫外線や明るい光が原因で起こる、網膜障害にかかったと思われています。そのために、溶接や日食を見る際には保護用メガネをかけるのが重要なのです。

このような予防は、科学の授業を受ける時に、実験室に入ったら安全が一番大切であるということから、理解できるかもしれません。

自ら毒ガスを吸入した科学者も

さて、1799年のハンフリー・デービー卿まで行ってみましょう。科学史のなかで最も偉大な人物になる以前のデービーは、彼は英国の気体研究所の実験助手でした。

彼の研究は、さまざまなガスの医療的な利用に焦点が当てられていました。どれだけそのガスが危険か不明なまま、未知の製造ガスを吸引させた反応とその後の効果を計る実験を行いました。

あるガスは、デービーの上司が以前に取り扱ったことのあるもので、とりわけ効果がありました。それは、亜酸化窒素で、デービーは感覚が高ぶるのを感じ、あらゆることで笑いが促されました。

いまだに亜酸化窒素が人体にもたらす影響はすべてはわかっていませんが、それは幸福感を与えることに関わり、不安を軽減し、より閾値が高い痛みや不安を軽減し、しばしば歯医者が使用したりします。

とりわけ、歯医者は患者に、1分間で5リットルの服用量の、半分の亜酸化窒素と半分の酸素を投与します。あるとき、デービーは7分間に15リットルの純粋な亜酸化窒素を、その投与の効果を確認するために吸引しました。幸いなことに害はありませんでした。その代わり、彼は、このような実験を大変好んだので、仕事の後に友人たちに、持ち出した絹の袋の中からそれを吸引させました。

これはやがて社会的な流行になり、詩人や哲学者たちが感覚を高めるために用いるようになり、おそらくはこれによって彼らの芸術に近づいたのです。

デービーのリスクを取った行動によって、科学者としての名声は広がりました。その2~3年後に、彼はナトリウム、カリウム、ストロンチウム、マグネシウム、バリウムといった元素を発見しました。大変印象的な長い羅列ですね。これらを吸引していたら実現しませんでした。

彼はキャリアの間、比較的害のない亜酸化窒素のようなものを吸入していました。毒性のあるガスに身を晒すことは、彼の健康を害したに違いなく、50歳を過ぎると病気がちになり心臓発作に苦しむようになります。デービーは、科学において成功したキャリアを持っていましたが、結果としてその名声をもたらしたものが、彼の死の原因となったのでした。

もう1人のリスクテイカーは、スタビンス・フューズです。科学の分野で大変著名な名前です。彼にもまた、非常におぞましい物語があります。

1804年に彼は医学の学位を取得した後、黄熱病の研究に人生を捧げます。黄熱病とは、筋肉や関節に痛みを感じ熱が出て、この名前の由来となる黄疸、つまり肌の色が黄色くなる症状を発症するウイルス性の熱病です。

熱帯地域ではお馴染みのウイルス性の疾患ですが、1793年には大流行しフィラデルフィアでは数千人の死者が出ました。その当時の主な医者たちは、この病気は、輸入された腐ったコーヒーや汽水、瘴気によるものだと仮説を立てました。つまりこれらは基本的に悪い空気が原因ではないかと思ったのです。

しかしながら、フューズは、本当の病気の原因を突き止めたいと考えました。つまり患者の黒色嘔吐と関係しているのではないかと疑いました。ゆえに不潔な場所で起こると考えたのです。

最初に彼はその嘔吐物を犬に与えました。しかしながら、病気になりませんでした。次に犬と猫の静脈に注射しました。それでも効果はありませんでした。

ついに自分自身がそれと接することにしました。彼は高潔な人間ですが、それは非常に不潔なことでした。彼は切開部分にそれを入れ、そして目に入れガスを吸入しました。その内容物を飲んですらみました。しかし、それでも彼は病気にはなりませんでした。彼は感染した患者の人体の液状部分からの実験を重ねました。

しかしながら、これらの危険な実験をしたにも関わらず病気にはなりませんでした。よって彼は、黄熱病は伝染病ではないと結論付けました。

フューズが知らなかったのは、伝染病は常に人から人へと直接感染するものではないということです。現在では黄熱病は実際には蚊によって広まることが解明されています。ありがたいことに、現代ではワクチンがありウイルスからの予防策に守られています。よって人体の液状のものを飲むということとは関係ないのです。

原子炉の研究で放射能被曝

その100年後、1940年代でもルイス・スローティンのような科学者は、間違った決断に関わらざるを得ませんでした。原子爆弾を作るということです。

第二次世界大戦が終結した数ヶ月後、科学者たちはニューメキシコ州のロスアラモス国立研究所で2つの原爆の開発に携わったあと、3番目の原子力の核の研究をしていました。もし、戦争がそのまま続けられたのなら、もう1つの原爆が開発されたでしょう。

しかしながら、戦争が終わったので、その代わりに正確に原子炉が臨界に達すると何が起こったのか、そしてどのように到達するかが研究されました。

核反応は中性子を放出するプルトリウムのような元素によって機動します。自由な中性子が閉じた空間の中で振動すると、自律核連鎖反応が起きます。反応の比率が十分に高いと臨界になり、プルトニウム原子は、核分裂反応を起こし、大量のエネルギーを放出します。スローティンは、できるたけ反応が臨界に近づくよう3番目のプルトニウムの原子核を扱いチームを率いました。

その原子核は、ベリリウム(中性子反射体)の2つの半球体に囲まれ、その中で中性子を反応させます。原子核が臨界に達しないようにするには、ベリリウムの2つの半球を離れたままにし続ける必要がありました。反応が制御できなくなるからです。

彼はあらかじめ認可された仕切りのブロックを使用する代わりに、スクリュードライバーを半球の間にねじ込みました。以前の何十回かはうまくいっていましたし、彼は専門家です。どうしてうまくいかないことがあるでしょうか。

スローティンは、いかにこれが危険であることは自覚していたに違いありません。先達のハリー・ダリアンが、放射能中毒のため1ヶ月前に死亡していました。同じプルトニウムの原子核からです。

ダリアンの場合は、中性子を反射するのに煉瓦を用い実験を行っていました。しかしながら、あるとき煉瓦が彼の手から滑り落ち、臨界反応を起こしてしまったのです。彼は煉瓦を叩いて反応を中断させましたが、放射能被曝によって死ぬまでにたった25日しかかかりませんでした。

このような事故にも関わらず、スローティンはスクリュードライバーを使い続けました。しかしながら、今回はうまくいきませんでした。彼はゆっくりと2つの半球を降ろして互いに近づけて行ったとき、スクリュードライバーが滑りました。原子核はすぐに核分裂反応を起こし、青い放射性の閃光を起こしました。たったの9日でスローティンは重度の放射能中毒で死亡しました。

計算すると彼は1,000ラドの放射能に被曝したことになり、これは致死線量の2倍になります。彼の死後、原子核は「デーモン・コア」との名前が与えられ、ロスアラモス研究所の全ての実地検証的な調査研究が止められました。

自らの心臓にカテーテルを挿入

1956年にヴェルナー・ホルスマン、アンドレ・コーナンは、ディキンソン・リチャードは、心臓カテーテルの仕事によって、チームでノーベル物理医学賞を受賞しました。しかしながら、研究そのものは30年前の1929年に開始され、ホルスマンはある一つのことを試すために多くの規則を破ったのでした。

医学部を卒業したばかりの新人であった彼は、外科研修医になりました。彼には探究すべき大きなアイデアがありました。心臓にどれだけ圧力がかかるか測定する診断学の技術で、動物の心臓にカテーテル導管を差し込むという記事を読んでいました。彼は、これは人間でも可能ではないかと疑問に思ったのです。

指導役は、この考えを支持し道理のわかった人間ならおそらくそうするように、まずその手順が安全かどうか調べるように彼を励ましました。

しかしながら、ホルスマンは実行可能だと確信していましたので、なんと自分自身で試したのです。通常膀胱から尿を排出するために用いられた細く長いチューブである、尿管のカテーテルを自分の腕の大静脈に挿入したのです。そして、静脈から心臓へとカテーテルを65センチほど押し込みました。

それほど強烈ではなかったので、カテーテルを腕から通したまま、まったく何気なく病院からX線室まで歩くことができました。そして、看護婦にX線写真を手伝ってもらい、カテーテルを自分の心臓の心室に通したのです。

本当に危険であり、そしてホルスマンは規則を破ったことで病院とトラブルになってしまいました。しかしながら、これはうまくいったのです。そして10年後にコーナンとリチャードが研究を加え、心臓カテーテル処置は医学業界で受け入れられました。結果として、問題なくその実験は彼をノーベル賞に導き、ホルスマンにとって価値のあるものになったのです。

しかしながら、その過程においてキャリアと命を危険にさらしました。デービーやスローティンが苦い経験から知ったように、安全性を無視すると悲劇に終わることもあり得ます。

彼らの物語から、私たちは、より良い科学者や探求心のある考察者になるにはどうしたらよいか知ることができますが、同時にまた、彼らがしたことよりも常識を持つことも学べます。というのは、大変頭の良い人たちというのは、ときに間違った決定をすることがあるからです。