その選択、ホントにあなたの意志ですか?
"決める前"に必ず読んでおきたい、行動経済学のハナシ

我々は本当に自分で決めているのか? #1/2

人間が合理的な意思決定をするという仮定の上に成り立っている経済学に対し、合理性から外れた行動について研究する行動経済学。様々な実験を例に取りあげながら、行動経済学者のDan Ariely(ダン・アリエリー)氏が、いかに人間が錯覚に陥ったまま「不合理」な意思決定をしているかについて紹介します。(TED2008より)

行動の不合理性について

ダン・アリエリー氏:今日は不合理な行動について少しお話しします。もちろんあなた方のことではないですよ、他の人たちのことです(笑)。MITに数年間行き、ようやく論文を書くことが楽しくないということに気がつきました。

どれほどの人々が本を読むかわかりませんが、本を読むことはそんなに楽しくないですし、ましてや書くことは楽しくありません。だから私は何かもっと楽しいものを書いてみることにしました。そうして思いついたアイデアは料理本でした。私の料理本のタイトルは『食べカスのでない食事 〜シンクの上で食べる技術〜』。

(会場笑)

これはキッチンを通して人生を観察する本になるはずでした。私はこの本をすごく楽しみにしていました。自分の研究のことやキッチンのことを少し書くつもりでした。キッチンでは様々なことをするのできっとおもしろいと思ったのです。

しかし、2〜3章書き終えたところでMITプレスに持ち込むと、「いいね。でもうち向きじゃないな。他を当たってみてよ」と言われました。他にも当たってみましたが、みな口を揃えて「いいね、でもうち向きじゃない」と言いました。

そんな時、誰かがこう言いました。「君がもし本気でこれをやりたいのなら、まずは自分の研究に関する本を出版することだ。その後なら他の本を書くチャンスだって広がる。本気なら、まずやるべきことをやらないと」

しかし私は「でも自分の研究については書きたくない。研究は1日中やっているから、もっと他のことを書きたい。もっと自由で規制のないものを」。すると、その人はとても力強く「これしか方法はありませんよ」と言いました。だから私は「わかったよ、仕方ないな」と言って長期休暇をとりました。

不合理の象徴としての視覚的錯覚

「これしかないなら、まず自分の研究の本を書く。それから料理本を書くぞ。」と思い、研究に関する本を書きました。しかし、これは2つの意味で案外楽しいものでした。まず、書くことは楽しかったです。そして、さらにおもしろかったのは、人から学びはじめたことです。

たくさんフィードバックがもらえる今は、本を書くのには絶好の時代です。人々は個人的な経験や実例、同意しない点や微妙な違いを教えてくれました。ここでもそうです。この数日間で今まで考えたこともなかったような突飛的な行動を知ることが出来ました(笑)。これはとても素晴らしいことです。

少し不合理な行動について説明しましょう。不合理の象徴として視覚的錯覚の例をいくつかご覧いただきましょう。まずこの2つの机を見てください。前に見たことがある人もいるかもしれませんね。どちらが長いでしょう? 左の机の縦の長さか、右の机の横の長さ。どちらが長く見えますか?

左のほうが長く見えるという意見に反対の人はいますか? いませんね。あり得ません。視覚的錯覚の良いところは、簡単に間違いを示すことが出来るところです。

線を加えてみましょう。あまり変化はありません。

しかし線を動かしてみましょう。おおよそ線を縮めていないことがわかると思います。実際に縮めていません。

私はたった今、あなたが視覚に騙されているということを証明したのです。そして興味深いのは、一旦この線を消すと、まるでこの1分間が無意味だったかのようにも思えることです(笑)。これでもう「現実がありのままに見えている」などとは言えなくなりました。

私たちはこっち(左)が長く見えるという感覚に逆らえないのです。直感は、私たちを繰り返し予想通りに一貫して欺きます。そして定規を持ち出して計測しない限り、私たちはそれに打つ手がないのです。

我々は錯視を避けられない

さて、もうひとつがこれです。これは私のお気に入りの錯視です。上の矢印が指す色は、何色に見えますか? 茶色。ありがとう。では下は? 黄色。

これらは全く同じ色です。同じ色に見える人はいますか? とても難しいですね。

他の部分を隠してみましょう。他の部分を隠すと、これらが同じ色だということがわかりますね。もし信じられない人がいたら、後でこのスライドをあげますから自分で図工して、同じ色かどうか確かめてみてください(笑)。これも先ほどと同じように、目隠しを取ると一瞬で錯覚は戻ります。

そうです、私たちは錯視を避けられないのです。もしもあなたが色盲ならば、この錯視は見えないかもしれませんね。視覚的錯覚を象徴だと捉えてみてください。視覚は私たちの能力の中で1番素晴らしいものの1つです。脳では大部分が視覚に関係しています。他のどの能力よりも多くの部分が使われています。

私たちは1日の中で1番長い時間を視覚に費やします。視覚に合わせて進化してきました。もしこの得意分野の視覚でこれらの連続した予測通りのミスを犯すのならば、不得意な分野でミスを犯す確率はどれほどでしょうか。例えば経済的意思決定などです。

(会場笑)

ヒトは認識的錯覚に気づかない

進化する理由のないものや、脳にそれに特化した部分がないもの、1日にそれほどまで時間を費やさないものなど……。 問題なのは、そういう状況下で私たちはさらに多くのミスを犯しており、時にはミスを犯していることにさえ気付かないことです。なぜなら視覚的錯覚は簡単に間違いを示すことが出来るが、認識的錯覚は間違いを示すのがずっと難しいのです。

これから同じように認識的錯覚、または意思決定の錯覚についてお話ししましょう。

これは社会科学において1番お気に入りのグラフです。ジョンソンとゴールドスタインの論文から用いました。基本的に、臓器提供への関心がある人の割合を示しています。

ヨーロッパ諸国が並んでいます。これらの国々は2種類にわかれます。右側の国々は臓器提供への関心が高く、左側は関心が少ない国々です。ここでの疑問は、なぜか。なぜある国は臓器提供への関心が高く、他の国では低いのか? この疑問を投げかけられた人々は一般的に文化の違いだろうと答えます。

そうです。どれだけ他者を思いやれますか? 自分の臓器を他者にあげることはどれだけ他者を思いやれるか、どれだけ社会を考え、社会とのつながりを持っているかということでしょう。もしくは宗教が関係しているかもしれません。

しかし、グラフをよく観てみるとよく似ていると感じる国々が全く違った結果を出していることに気付くはずです。例えばスウェーデンは1番右側に位置していますが、文化的にもよく似ていると思われるデンマークは1番左にいます。ドイツは左側で、オーストリアは右側。オランダは左ですが、ベルギーは右です。

そして、ヨーロッパの類似性をどう定義するにせよ、よく似ていると考えられているイギリスとフランスは、臓器提供において全く違った意見になりました。

本当に自分自身で意思決定をしているのか?

ところで、オランダの結果は興味深いです。関心の少ないグループの中で1番高い数値を示しています。

実はこの28%はオランダの全ての家庭に手紙を送り臓器提供のプログラムへの参加を嘆願したことで得られた数値です。「頼まれて出来ることにも限度がある」という表現がありますね? 臓器提供に関しては28%がそれです(笑)。

しかし右側の国々が何をしたにせよ、嘆願するよりもずっと効果的なことをしたということです。では、何をしたのでしょう? その秘密はDMVの記入用紙にありました。こういうことです。左側の国のDMVはこのようなものでした。

臓器提供に協力したい場合はチェックボックスに印をつけてください。そして何が起きるか? 人々は印をつけずに協力もしない。

協力の多い右側の国々の記入用紙はこれとは少し違っています。臓器提供に協力したくない場合はチェックボックスに印をつけてください。

おもしろいことに、人々は全く同じように印をつけませんが、こちらは協力することになります(笑)。これはどういうことでしょうか。私たちは朝目覚めてから、自身で意思決定をしていると思っている。朝起きてクローゼットを開け、何を着るか自分で決めていると思っている。冷蔵庫を開けて、何を食べるか決めていると思っている。

つまり、それらの選択は実際には自分自身がしているわけではない。記入用紙をデザインした人たちの手の中にあるのです。

DMVの建物に入った瞬間からあなたの行動は記入用紙のデザインをした人に大きく影響されているのです。

決められた答えを受け入れてしまうワケ

さらに、それは自覚しにくいのです。考えてみてください。

明日免許の書き換えをしにDMVに行ってこの記入用紙に直面したとしたら、それによって自分の行動に影響を及ぼすとどれほどの人が信じるでしょうか? 影響されるとはとても考えないでしょう。「変なヨーロッパ人たちにはそうなるかもしれないけど」と言うかもしれません。

(会場笑)

しかし実際にその場になったら、私たちは自分が運転席に座り、しっかりと自身の判断で意思決定をしていると感じるでしょう。実際の選択ではなく、意思決定における錯覚に陥っているということを理解することは非常に難しいのです。「そんなのは所詮どうでも良い選択だから」と思うかもしれませんね。

事実、定義によれば、これは私たちが死んだ後のことです。死んだ後のことなんかより考えなくちゃいけないことは他にあります。合理性を信じる通常の経済学者ならば「いいか? その選択で得られる利益よりも、鉛筆をあげ印を付ける手間のほうが大きい。だからこのような結果になったのだ」

しかし実際にはそれが容易いからではありません。些細なことだからでもありません。興味がないからでもありません。むしろその反対です。なぜなら私たちはそれに興味があるからです。

それが難しく複雑だからです。複雑すぎてどうしたら良いかわからないのです。どうしたら良いかわからないから、私たちはすでに決められた答えを受け入れてしまうのです。

意思決定の錯覚は個人的な能力とは無関係

もう1つ例を挙げてみましょう。レデルマイヤーとシェーファーの論文からです。彼らは「この効果は高い報酬をもらうような専門家たちの意思決定においても多々起こる」と言いました。彼らは患者の事例研究を装って医師団を集め実験を試みました。

患者は67歳の男性で職業は農家。長い間、右腰に痛みを抱えています。そして医師団には「あなたは数週間前にもうこの患者には施す手がないと判断しました。どの薬も全く効かない。そのため患者に人工股関節置換を薦めました」と伝えます。患者は人工股関節置換の手術を受けることになりました。

そして彼らは医師の半数にこう伝えます。「昨日患者のカルテを見直したら1つ薬剤を試し忘れていたことに気がつきました。まだイブプロフェンを試していません。どうしますか? 患者を呼び戻してイブプロフェンを試しますか? それともそのまま手術を受けさせますか?」

幸い、ほとんどの医師が患者を呼び戻しイブプロフェンを試すと答えました。医者として良い判断です。もう1つ別の医師団には「昨日患者のカルテを見直したら2つ薬剤を試し忘れていたことに気がつきました。まだイブプロフェンとプロキシカムを試していません。」と伝えました。

そして「2つ薬剤を試していません。どうしますか? そのままにしますか? それとも呼び戻しますか? 呼び戻すとしたら、イブプロフェンとプロキシカムのどちらを試しますか?」と聞きました。考えてみてください。患者にそのまま手術を受けさせるのは簡単です。しかし引き戻すのは突如複雑になりました。

決めることがもう1つ増えてしまいました。さて、どうなったでしょう? 大多数の医師らが患者をそのまま手術させることにしました。これを聞いて心配になったことでしょう(笑)。あなたが病院にかかる際には覚えておいてください。このように考える医師はいないでしょう。

「プロキシカムかイブプロフェンか人工股関節置換手術か……。うん、人工股関節置換だ」しかしこれをデフォルトに設定してしまったとき、それは人々の行動に大きな力をもってしまいます。

選択肢の違いによって意思決定が変化する

さて、不合理な意思決定についての例をもう少し挙げてみましょう。想像してみてください。週末ローマ旅行に行きたいですか? 費用は全てタダ。ホテル代、移動費、食事代、朝食、コンチネンタルブレックファースト、全部です。それとも、週末パリ旅行がいいですか?

週末パリか、週末ローマか、それぞれ違います。食事も文化も芸術も違います。想像してください。もし私がそこに誰も望まない選択肢を加えたら? 「週末ローマか、週末パリか、車を盗まれるか」この選択肢に車を盗まれるというのを加えるなんて変な話です。何か影響はあるのでしょうか?

(会場笑)

しかし車を盗まれるという選択肢が少し違っていたら? もしも交通費、朝食など全てタダの週末ローマ旅行だけど朝のコーヒーがつかなかったら? もしそんなにコーヒーが飲みたければ、自分で買えば良い話です。2.5ユーロです。コーヒー付きのローマが選べるのに、コーヒー抜きのローマを選ぶ人はいるでしょうか?

車を盗まれると同様に、劣った選択肢です。では何が起きたでしょう? コーヒー抜きのローマを加えた瞬間から、コーヒーつきのローマの人気が急上昇したのです。皆、そちらを選びます。コーヒー抜きのローマという選択肢があることによってコーヒー付きのローマは、コーヒー抜きのローマはもちろん、パリよりも魅力的な選択肢となりました(笑)。

この論理を示す2つの例があります。数年前のエコノミスト誌の広告に3つの選択肢がありました。オンライン購読59ドル、雑誌の定期購読125ドル、両方でも125ドル(笑)。 私はこれを見て、すぐにエコノミスト誌に電話しました。

どういった意図か知りたかったからです。私はたらい回しにされ、やっとのことでウェブサイトの担当者にたどり着きました。彼らに電話すると、どういうことか確認しますと言われました。しかし気付いたらその広告はなくなっており、何の説明もありませんでした。

自分の好みを正確にわかっていない

ですから私はエコノミスト誌と一緒にやりたかった実験をすることにしました。この広告をMITの生徒100人に見せて「どれを選ぶ?」と聞きました。

これがそのシェアです。ほとんどの学生が両方を選択しました。ありがたいことに、真ん中を選んだ生徒はいませんでした。

生徒たちがちゃんと文字を読めることがわかりましたね(笑)。しかし誰もほしがらない選択肢があるならば、それを除いても構わない。ですよね? 

だから私は真ん中を抜いた別バージョンの広告を用意しました。別の生徒100人に聞いたら、こういう結果になりました。

今回は1番人気のあった選択肢が人気なく、1番人気のなかった選択肢が人気になりました。何が起こったかと言うと、役に立たないと思われた真ん中の選択肢は誰も良いと思わないという点では確かに役に立ちませんでした。

しかし人々が欲しいものを気付かせる、という意味で役立たずではなかったのです。実際に雑誌だけで125ドルという選択肢は両方で125ドルという選択肢をよりお得に見せました。結果、人々はそれを選びました。

ここでの基本的な考え方は、つまり私たちは自分の好みを正確にわかっていないということです。そして自分の好みを知らないが故に外部の影響を受けやすいのです。デフォルトや、提示される特別なオプションなどのことです。

飲み歩くなら、誰を連れて行くべきか?

もう1つ例を挙げましょう。肉体的な魅力に関して、私たちは誰かに出会ってすぐその人が好きか、魅力を感じるかを判断出来ると思い込んでいます。これが、カップリングパーティーなどが成り立つ理由です。

そこで私は人々にこんな実験をしてみました。人の顔イメージ画像をお見せします。イメージは本物ではありませんが人を対象に行われました。

人々にトムとジェリーの写真を見せました。そして「どっちとデートしたいですか? トム? ジェリー?」と聞きました。

しかしその半数には醜いバージョンのジェリーの写真を加えたものを見せました。Photoshopでジェリーの魅力を少し落としたのです(笑)。

あとの半数にはトムの醜いバージョンの写真を加えて見せました。ここで問題なのは、醜いバージョンのトムとジェリーはそれぞれの魅力的な兄弟たちの助けになるのか。

答えは、もちろんイエスです。醜いジェリーがいる場合ジェリーが人気になり、醜いトムがいる場合はトムが人気になりました。これはもちろん人生一般において2つの明確な意味を持ちます。たとえば飲み歩くなら、誰を誘うか?

(会場笑)

少しだけ醜いバージョンのあなたを連れて行くのが良いでしょう。似ているが少しだけ醜い(笑)。2点目はもちろん、もし誰かに誘われたら相手があなたをどう思っているかがわかるということです(笑)。わかりますね?

(会場笑)

認識的な限界を理解する必要性

では共通項は何でしょう? それは経済学について考えるとき、この美しい人間性に触れます。「人間とは何たる傑作か! 理性の高貴なること!」私たちは自分や他人に対してこのような見方をします。行動経済学の見解は人々にあまり寛大ではありません。行動経済学者は人を医学的にこう見ています。

(会場笑)

しかし希望の兆しがあります。希望の兆しは私が思うに行動経済学が刺激的でおもしろい理由でもあります。我々はスーパーマンか、オーマー・シンプソンか?

物質的な世界では何かを作るとき、私たちは限界を理解しています。私たちは階段をつくります。そして明らかに使えないようなものも建てます(笑)。

私たちは限界を知りながら、それをわきまえて物をつくります。しかしそれがなぜか精神的な世界になると、健康保険や年金、株式市場などをデザインするときに私たちは限界を忘れてしまいがちです。

もし私たちが物質的な限界を理解するのと同様に認識的な限界も理解出来るならば、同じようには見えないとしても、より良い世界を築いていけるでしょう。これが、行動経済学の示す希望なのです。どうもありがとう。

<続きは近日公開>

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TED(テッド)

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