古生物学で活躍した2人の学者の物語

ステファン・チン氏:この世には宿命のライバル対決が多々あります。マーベル対DC(コミックス)やモハメド・アリ対ジョー・フレイジャーがそうですね。科学にも宿命のライバルは存在します。テスラとエジソンがいい例です。

19世紀末、2人の古生物学者、オスニエル・チャールズ・マーシュとエドワード・ドリンカー・コープは、後に「化石戦争」として知られる争いを繰り広げました。

相手に差をつけようと争ううちに、今日でもたいへん有名な恐竜をたくさん発見し、命名したのです。しかし彼らは、大きな過ちもたくさん犯しました。

当時、古生物学はまだ発足したばかりでした。1824年、イギリスの地質学者、ウィリアム・バックランドは、絶滅した巨大なトカゲのものとされる骨についての論文を発表しました。トカゲはメガロサウルスと命名されました。「恐竜」という言葉が生まれるには、さらに20年を待たなくてはなりませんでしたが、メガロサウルスは初めての科学的な記録になりました。これはつまり、動物もしくは動物の種に関して違いを調べ、系統樹のどこに属するかを研究者が正式に記載することを指します。

数十年後の1858年、ほぼ完全な形の恐竜の骨格がアメリカで発見されました。医学から博物学へと転向し、初期の古生物学に大きな貢献を果たした学者、ジョゼフ・ライディはハドロサウルスと命名し、これを記録しました。

同じ分野で友人になった2人、しかし…

さて、マーシュとコープは、古生物学分野において同時代に成長しました。マーシュは1831年、ニューヨークで生まれました。裕福なおじの援助を得てイェール大学へ進学し、最終的にはドイツで古生物学を学びました。

一方のコープは1840年に裕福なクェーカー教徒の家に生まれました。マーシュほどの正式な科学教育は受けませんでしたが、博物館勤務を経て博物学を学び、多くの論文を残しました。

南北戦争が勃発すると、コープの父は息子をヨーロッパへ送り出しました。そして1863年、コープはベルリンでマーシュに出会ったのです。

当初は二人は友好関係にありました。米国に帰国した2人は、それぞれが別々の発掘現場に行きました。資金が潤沢にあったため、双方とも発掘チームを雇い入れ、それぞれ発掘品を輸送するよう手配することができました。

時に他の専門家からの助力を仰ぎながら、2人は新たに得た標本を注意深く分析し、記録を公表し、互いを邪魔することはありませんでした。しかし、ほどなくして2人の友情は壊れることになります。

加速する憎しみ

争いの発端は、1868年に海棲爬虫類エラスモサウルスについて、コープが記録の論文を執筆している時でした。コープは、骨格の再現に時間をかけることをせず、わずか数週間で情報を得ようと急ぎました。結果として、コープは脊髄の骨の配列を誤ることとなりました。エラスモサウルスの首が長いのではなく、現生の爬虫類と同様に長い尾を持つに違いないと考えてしまったのです。

1869年、コープが発表した論文の図解では、脊髄につながっている頭の場所が逆でした。コープの誤りは、1870、骨格を解析して細部の重要な見落としに気がついたライディにより、正式に訂正されました。

理由は不明ですが、マーシュが、誤りを指摘したのは自分だと主張しました。少なくとも、しつこく指摘したのは確かです。

コープは、論文をすべて回収し再発行して難を逃れようとしましたが、うまくはいきませんでした。ここから話はさらに醜くなります。標本骨格の宝庫であるワイオミング州コモ・ブラフをはじめとする発掘現場で、2人が化石を奪い合った1877年ころから「化石戦争」は本格化しました。

2人は、スパイを放ち、賄賂を使って雇い人夫を入れ替え、岩を投げ入れて喧嘩を誘発し、挙句の果てには相手の手に入らないよう化石を壊したりと、あらゆる汚い手を使うようになりました。

そういった騒動の合間に、2人は、130種以上もの古代生物や恐竜を記録したと主張しました。しかし、論文発表を急ぐあまりミスを連発し、既に発見済みの恐竜に名前をつけたり、同種に含まれる動物を新種としたりする体たらくでした。

例えば1877年、マーシュの元に、頭骨のない首長竜の骨格が送られて来た時には、彼はこれをアパトサウルスと命名しました。しかし論文発表では、誤って別の頭骨を使って骨格を再現してしまったのです。

またその数年後、今度は頭骨のついた別のアパトサウルスの骨格が送られて来た時には、彼はこれをブロントサウルスと名づけました。こういった命名の混乱は、今日にまで至っています。

2人のいざこざが与えた影響

実際のところ、コープとマーシュは、化石とじっくり向き合って、他の科学者とは争うのではなく協力すれば、ずっと良い実績をあげていました。

例えば、マーシュがトリケラトプスの論文を発表した時の話です。当初マーシュの手元に送られて来たのはわずかに角の一部のみだったので、彼はこれをバイソンの一種だと考えました。

しかし、当の頭骨の化石を発見した地質学者が、恐竜の骨に混じって、たった一頭バイソンというのは不自然だと意見したため、マーシュは考え直すことにしました。さらに同僚からのアドバイスを得たマーシュは、これらの化石は、ステゴザウルスのように、突起を持つ恐竜の一部分なのではないかと考えるようになりました。結果として、まったく未知の、角のある恐竜なのではないかと考えるようになったのです。

さて、コープとマーシュは「化石戦争」の結果、破産して一文無しになってしまいました。さらに、2人の論文は中傷が多く、科学的な内容が薄いということで、専門誌の多くが刊行を拒否しました。古生物学に多くの貢献を成したにもかかわらず、2人の傍若無人な振る舞いで、学術分野全体の評判が悪くなりました。また、2人の妨害行為のせいで、ジョセフ・ライディは、1870年代半ばに古生物学からきっぱりと引退してしまいました。

さて、これはたいへん興味深い物語であり、学ぶべきことはふんだんにあります。今日では、石を投げ合うよりも、協力関係や情報共有が、科学にはたいへん重要であることが、昔より理解されています。