理想の未来を追って、起業と移住

安藤哲也氏(以下、安藤):最後、ラストバッターはまさに理想の未来を追い続けて、転職もするわ、移住はするわ、起業はしちゃうわみたいな。福岡から来ました、小津さんです。

小津智一氏(以下、小津):小津です。よろしくお願いします。

(会場拍手)

小津:小津智一と言います。(尾形さんと)同い年なんです。同い年で、同じ日に生まれました。(尾形さん)かっこいいですね。

ちょっと体験談を話そうと思います。僕は今45歳です。出身は山口県です。今は福岡県に住んでいます。これは家族ですね、4人家族です。ちょうどこれは、なんかサーカスがあったんですよ。シルク・ドゥ・ソレイユかな? そこに行ったときの写真です。(息子の)コウシロウと娘ですね。

安藤:また娘が出てくる。

小津:これは、娘と言いたいんですけどね。妻です(笑)。いつもこんなの(サングラス)を付けてます。

体験談ですけど。僕、高卒なんですね。工業高校を出ました。親が離婚してて、僕が10歳のときに親が離婚したんですけど、僕はお母さん側に行ったんですね。貧乏でした。僕は長男で、妹と弟がいるんですけど、非常に苦労してる家庭で育った。

そのときから、お袋に言われてたんですよ。「あんた、いい? 今から大学なんて行けないんだから、すぐ働かなきゃいけないよ!」って、ずっと言われてたんです。中学校のころから。もうそのころから決まってるんですね。僕の線路が。工業高校に行って、すぐ入る。

夜の街でのさまざまな出会いが転機の1つとなった

小津:ちょうど山口県って、コンビナート地帯があるんですよね。そこに1部上場の企業があって、そのころバブルが終わりかけでした。まだ終わってなかったんですね。高卒ですぐ1部上場に入れたんです。入って、最初、僕は会社に入ったら、ネクタイをしてかっこいい仕事で……トレンディドラマとかあったから(笑)。

(会場笑)

1部上場に入ったから、これはすごいだろうなって行ったらですね。ヘルメットを被って、3交代なんですよ。イメージが崩れましたね。3交代でシフトで回すんですけど、もう現場ですよ。大きなバルブを回して、そういった作業をやってました。

そのとき19歳だから、元気なんですね。3交代ってあるじゃないですか。夕方から働いて、夜に終わるんですよ。めっちゃ元気なんですよ。夜中の23時に終わるんですけど、寝れないんですよね。もうムラムラ……。

(会場笑)

そのときに副業をしました。ホストです(笑)。田舎でもあったんですね、バブルがまだあったから。本当はしちゃいけないんですよ、バレたらやばいです。それを隠れてやってました。

ここでバーテン兼ホストとしてやったときに、実はここは僕の1つの転機だったんです。どういった転機かと言うと、会社で出会わない人たちにいっぱい出会ったんですよ。

前の工場だと400人いるんです。400人の人って、ずっと定年までそこにいる。いるのがステータスなんですよ。みんな、3交代で。それが僕も当たり前だと思ってたんですけど。

ここに来たら、いろんな綺麗な人もいるし、看護師さんもいる、弁護士もいる、警察官もいる。いろんな人がそこにいて、「あ、そっか、世の中っていろんな人がいるんだ」っていうのに、僕はこのとき初めて気づいたんですよ。

そしたら、ここの工場に定年までいるっていうことにすごく違和感を覚えたんですね。周りの人はそう思ってないんです。3交代のほうが給料がいいんですよね。夜勤手当が出るから。ちゃんとマイホームを建てて、そこにずっといるというのがステータスなんですよ。

営業でいろんな人と出会うことができた

小津:3交代だから、例えば夜勤だと昼間時間があるから、パチンコをしてるんですね。パチンコとボートをしてるんですよ。仕事も、みんな集まったらパチンコとボートの話をしますよ。『スポニチ』を見てですね(笑)。そこについていけなくて。

そこでこういったことをやって、ちょっと転機があって、この職場から出たいと。トレンディドラマを見てて、いつか東京に行きたいと思ったんですね。会社の上のほうに、「いつか東京で働きたいです」とずっと出してた。大きな会社だったから、月に1回、職場で次にどういったキャリアを積みたいのかっていうアンケートが来たりね。

そのアンケートに書いて出してたんです。「東京に行きたい。本社で働きたい」。そしたら、「バカか」って言われました。「お前みたいな高卒が行ける場所なんかない」と。実際にそこは、もう慶応、早稲田ですよ。川島さんみたいな人がいっぱいいるわけです。「お前の居場所はねえよ」と言われて、でも諦めなかったです。ずっと出してました。

そしたら23歳のとき、福岡に新しい事業が立ち上がるから営業所ができるんだということで、どうかと言われたんです。まあちょっと東京と違うけど、いいかと。一応都会だしということで、そこに行ったんです。

楽しかったですよ、すごく。そこでいろんな人に出会ったので。自分のイメージしてた通り。そこでは営業だったんですね。中小企業ですけど、経営者の人とか、いろんな人に出会いました。営業って、いろんな人と出会うことがけっこうあるから、本当に楽しかったですね。

そこで出会ったのが、会社の競合メーカーですよ。要は敵ですよ。敵の人と仲良くなって、その人がサーフィンしてるんですよ。僕はスノーボードしてたんですね。それまで、いつかやりたいなと思ってたんですよ。でも、サーフィンってなかなか入りづらいんですね。知ってる人がいないと、なかなか怖いんです。

今まで夢がなかったが、人生で初めて叶えたい夢ができた

小津:それで、その人と出会ったから、「やってみようと思います」って言ったら、「じゃあ一緒に行こう」って連れて行ってもらったんですね。第2の転機がここ。いつか自分の家の前に海があって、波が立ったらそこにボードを担いで歩いて行けるんだという夢が、人生の中で初めてできたんですよ。僕、今まで夢なんかまったくなかったです。そういった夢ができた。

夢ができて、3年後に宮崎に行くんです。結婚しました。34歳で第1子が生まれました。女の子です。僕は親が離婚してたので、自分が……父親は車のセールスマンでした。僕はそういった親を見てたから、「俺は絶対子育てをがんばる」っていうか。そういったイメージだったんです。「俺は絶対離婚したくない!」という思いがあったので、一生懸命入りました。

子育てに入ると、みなさんもたぶんそうだと思うんですけど、いろんな情報が入ってきますよね。例えば、新聞で見るメディアの記事とか。待機児童の問題とか。今まで独身のときはまったく入ってこなかったのが、入ってきだしたんですよ。そのときに初めて、世の中って本当に子育てしにくい社会なんだなあと、ふと思ったんですよ。

それと合わせて、「いつか家の前に海がある……」という話をしましたけど、そのときちょうど言われたのが、「お前そろそろ転勤あるよ」って言われたんです。営業だから、みんな全国に転勤してたんですね。あ、そうかと。

でも、転勤となると自分の住みたい場所に住めないんですよ。せっかく海のそばに家を建てても、「お前転勤だよ」と言われたら行かなきゃいけないんですよ。しかも、うちの転勤先はみんな瀬戸内海が多いんですよ。瀬戸内海は波が立たない!

(会場笑)

これはまずいと思って(笑)。そのときから独立を考え出したんですね。そのとき転職も考えたんですけど、もうバブルも終わってるすごい低迷期ですよ。僕は高卒です。今まで1部上場で働いてて、ある程度もらってました。それが辞めるとなると、絶対所得は落ちるよねと。それを考えたら、今を維持するとすれば、転職ではなくて独立しかないなあという、安易な考え。

妻に社長になってもらい、会社を起業した

小津:そのときに子育てをして、イメージが湧いたんですよ。初めて、アイデアが降ってきた。会社の中に保育園があったら、子育て中のお父さんやお母さんが楽になるんじゃないのかな、心の余裕が生まれるんじゃないのかなと思って、スタートしたのがこの会社です。

OZ Companyという(会社です)。35歳のとき。安藤さんに言ってないかもしれないですけど、実は会社に勤めながら立ち上げました。でも、自分が社長だとバレるんですね。なので妻に頼み込んで、妻が社長になったんです。妻は反対しませんでした。同じように、海の近くに住みたいというお互い共通の夢があったんです。すんなり認めてくれたんですよ。

なぜ認めてくれたのかというのがもう1つあって、サラリーマンのときの職場というのは、家庭用の浄化槽というのがあるんですね。下水道が来てないところに家にタンクを置いて、綺麗に吸って出す。そのメーカーだったんですけど、けっこう成績が良かったんです。

結婚式とかでうちの社長が、「小津君はすごく優秀でね!」とか言ってくれてたから、妻はそれをずっと信じてたんですね。この人に任せてついていけば大丈夫というのが、なにかあるんですね。頭の中に(笑)。それでオッケーでした。

でも、ぜんぜんうまくいかなかったです。まったく異業種で始めちゃったんですよね。自分はもちろん市場も調査してやったんですけど、ぜんぜんダメだったんですね。会社に勤めてても、会社って起業したらどんどんお金がかかっちゃうんですよ。いろんな経費とか、売るためのグッズとか、いろんなもので。移動もかかるし。

そうなると、僕は朝から晩まで働かなきゃいけない。営業しないとお金が入ってこないから、そっちの仕事もしながらこっちもするんですよ。本当に朝から夜中まで、ずーっと仕事をしてました。

そしたらなにが起こるか。家庭が崩壊寸前になりました。妻が専業主婦志向だったんですね。一緒だったんですよ。3歳までは自分がやりたいということで、そういった状況になって。妻がノイローゼになっちゃったんですね。帰ったら部屋の中が真っ暗で、妻からは「いい加減にしてよ!」みたいなことを言われました。

共育て、共働きを変えたら妻の意識も変わった

小津:ちょうどそのときに、安藤さんのファザーリング・ジャパンのホームページに出会ったんです。「父親であることを楽しもう」と。ぜんぜん楽しんでない自分がいて、そこですぐ入会したんですね。

それと合わせて変えたのは、共育て、共働きでした。まずやったのが、共育てです。働き方を変える。朝4時半に起き出したんです。それまでちょっと遅かったんですけど、4時半に起きてすぐ仕事をして、できるだけ早く帰るということを、自分から工夫してやってみたんですよ。そしたら、早く帰って、一緒にご飯を食べて、倉庫の掃除をして、子どもの面倒を見て、一緒に寄り添って寝るんですよ。

そういうことをし出したら、妻の意識が変わったんですよ。妻が、今までは「あなたが立ち上げた会社だから自分でやってね」と。妻が社長なんですけどね。でもそこから、妻は「自分も保育士取るわ」って言って、保育士免許を自分で取ったんです。そこから共働きができて、そこから会社が動いていったんです。

最終的にはようやく、さっき誰かが言ってましたけど、所得が増えたので脱サラ。実は、このときに家を建てたんです。なぜこのときに家を建てたか、わかります? ローンが通らないからです。

僕の夢は、さっき言ったように海の前に家を建てることです。そのためには、独立して大変なときに絶対ローンが出ないと思ったんですよ。資金もないし。ということは、今のうちにやっとかないといかんなと。もう計画的に辞める時期を決めて、そこから逆算して、じゃあこのときにハウスメーカーに行ってローン組んだらいけるなっていうのを考えてからやりました(笑)。

まあそういった状況でした。そこから今に至ってるんですけど。そこからうまいこといきだして、もちろん波はあるんですけど、お客さんも付いてなんとか順調に動き出して。最終的にはダイバーシティ100選というのを今年の3月に受賞しました。

僕も実際に働き方を変えて、趣味であるとか家庭であるとか地域であるとか、そういうことを感じて、自分もすごく楽しいんですよね。僕も楽しいということは、楽しくて仕事に集中できるし、やっぱり従業員も同じようにさせたいんですよ。そういう働き方を自分がやったことで、そういったチーム作りをしようと思ってやったら、その受賞につながりました。もちろん、チームもうまくいったし。

最終的にはここです。(海の写真を指して)これが僕の家から見える風景なんですよ。

安藤:毎朝、これを見てる?

小津:毎朝見てる。本当に波が目の前に上がってて。ようやくそれも達成できて、ということで、以上でございます。

(会場拍手)