はじまりの美術館

山崎亮氏(以下、山崎):今の話を聞いていたら、1つのプロジェクトが思い浮かんだんですけど、ちょっとだけ話してもいいですか?

辻信一 氏(以下、辻):はい。

山崎:『はじまりの美術館』という美術館を造るとき、その3つが入っていたなという気がしたんです。2013年、福島県です。11年の原発があったあとの福島県猪苗代です。

猪苗代町は猪苗代湖や、磐梯山があったりする所で、人口15,000人で人口がずっと減ってきている。

ここにアール・ブリュットの美術館を造りたいという相談がありました。アール・ブリュットは、生(き)の芸術、ナマの芸術と呼ばれます。正規の美術の教育を受けたわけではない人たちがつくっちゃう芸術作品のことです。

たまたま、障がいのある方々が巨匠になっている場合が多いので勘違いをされて障がい者アートだと思われているんです。けど、従来の定義でいうと、正規の美術の教育を受けたわけではない人が作っちゃう傑作のことです。

いくつかありますけど、こういうものを専門で展示している美術館は日本に多くない。ということで、日本財団という財団が補助していて、西日本には4つか5つくらい造ってきたんです。いよいよ東日本に初めてアール・ブリュット美術館を造ろうというときに、コミュニティデザインに手伝ってほしいと言われました。

「何でそんなの声を掛けてきたんですか?」と聞いたら、今まで西日本にいくつか造ってきたけど、周りに住んでいる人が1番美術館に来ていないことがわかった。遠くからアール・ブリュットを見に来るのに、地域の人がぜんぜん見に来ない。

「これではいかん」と、地域に愛される美術館になりたいので、良い建物を建て、良い作品を入れる。そしてコミュニティデザインもやってほしいと依頼してくれたんです。それは、やりがいがあるので、猪苗代町まで行ってみたわけです。

我々は大阪で事務所をやっていますから、関西のノリで行ったんです。そしたら、東北、特に猪苗代町のある会津地方はものすごく手ごわかったわけです。

会津の三泣き

山崎:関西でワークショップやりますってしゃべり始めると「もうしゃべるるな!」って言ってもしゃべり続ける。「うるさい!」って言ってもしゃべる。けど、東北に行ったら誰もしゃべらないんです。「意見ないですか?」「私はないです」と全員が言う。だからワークショップにならない。そういう所に行って、これどうしたらいいだろう? となったのが『はじまりの美術館』です。

美術館の建物は十八間蔵という、もともと酒蔵だった所です。これは良い感じで残っている2010年の写真です。

この翌年に2011年に揺れて、壁も屋根もダーって落ちたわけですけど、やっぱりプロポーションが綺麗だったので、震災以後は職人さんが少なかったですが、なんとか新しいものに変えることができました。中もわりときれいに整えることができた。

『会津の三泣き』は、まず会津に来た人は会津の人のとっつきにくさに涙する。二泣きと三泣きはわりといいんです。地域住人の温かさに涙して、そこを去る時には情の深さに心を打たれて、離れがたくて涙する。でも、我々はさしあたって一泣きなんです。

おばあちゃんを味方に

地域に行って誰が僕らの相手してくれるんだろう?と、事務所のスタッフたちといろいろ話しをしたら、どの地域に行っても最初に僕らの友だちになってくれるのは、おばあちゃんだとなったんです。おばあちゃんが1番「あんたら何しに来た?」と声かけてくれる。だから、いかに会津でも、まずは、おばあちゃんと仲良くなるところから始めようとなったわけです。

うちの事務所の中でも若いスタッフを何人か見繕って「おまえら全員、ここに住め」と、美術館のすぐそばに住んでもらいました。

(会場笑)

山崎:4人が会津の美術館の前にある空き家を借りて住みました。住んで彼らがやった仕事はほとんどこれだけ。ここに掃き出しの窓がありますが、この窓を毎日朝・昼・晩と開けて、この前にある道路に机と椅子を並べて、ご飯を全部ここで作って、朝ご飯も、昼ご飯も、夜ご飯も全部道路で食べる。

これだけが仕事なんです。ここは生活道路になっていて、おじいちゃんおばあちゃんがよく通る。ここでご飯を食べていると「あんたらなにしてるの?」と声をかけたくなるだろうと。ご飯を作りなさいと言ったらその通りやりました。仕事ですから、ご飯を作っては夜も、朝も、昼もずっと外でご飯食べる。

そうすると、おばあちゃんって声をかけてくるんです。「何やってるの?」と。すると、料理もうまくないような若い子たちが、見よう見まねでやっているわけですから、だんだん口を出したくなってくる。1ヶ月くらいたつと、おばあちゃんたちが分配をしてくれるようになるんです。

生野菜を届けてくれるようになる。生野菜が届くようになってくると、いよいよ地域に入ることができたんじゃないか? じゃあ「ワークショップやりましょう!」って人が来てくれるかというと、まだ早い。これは地域のルールで第1段階。ここはグッと我慢して、ワークショップのワの字も出しちゃダメなんです。

このあと、おばあちゃんたちといろいろ話をしたり、ご飯を一緒に食べたりして第2代段階に入る。第2段階に入ると、もうすでにできたものが届くようになる。

(会場笑)

山崎:お惣菜が届くようになるんです。これで、だいぶ地域に入れたんじゃないか? 「ワークショップやりましょう!」って言うと、まだこれもちょっとだけ早いんです。

これ第2段階ですから。さらに、おばあちゃんたちと話をしていると、そのさらに1ヶ月後くらいに最終段階にいくんです。最終段階にいくと、亡くなった旦那が着ていた服などが、もらえるようになるんです。

(会場笑)

子どもも本気で戦う地域に

山崎:こういうのをもらえるようになったらいよいよ地域に入ることができたということで、ゴリラ社会で言うところの分配、仲間に入れてくれる状態になってきます。

これを「地域ルール」と呼んでいます。まず地域に入ったら「明るく・早起き・あいさつ」これが鉄則です。これをやると生野菜がもらえるようになります。

次に「おばあちゃんたちの話し相手になる」これも大事です。これをやるとお惣菜がもらえるようになる。「ちょっとした困りごとをお手伝いしたりする」、そうすると亡き夫の服をもらえる。

これが終わると、いつも誰かいる場所だと認識してもらえるようになって、「地域の拠点」になっていく。ここまできてようやく「寄り合いやりましょうや」と言うとちゃんと出てきてくれて、子どもたち、お孫たちも出してくださいって言うと連れて来てくれる。

ぜんぜん来てくれなかった人たちが来てくれるようになり、いろんなモノ作りのチームを出してくれるようになり、これがさっきの遊びじゃないけど楽しい。平等になってみんなでいろんなことを考えている間に徐々に美術館での活動の内容が決まってきて、この人が実際にできあがった美術館の担い手になってくれる。

最後、子どもと大人が平等になる点について言うと、オープニングのときにそれが出てきたんです。オープニングを参加型にしたかったので、地域の人たちに、いらなくなった布を集めてもらったんです。それをツギハギみたいにして、全部パッチワークにするときれいじゃないので、白のボーダーを入れていこうと。この白のボーダーは東日本大震災の時に体育館に避難したときの間仕切りに使っていたやつです。

「あれ余っているから使っていい」と言われたので、「それ使わせてもらいましょう」と言って、うちのスタッフたちが住んでいた家の床に線を引いて、地域の人たちにミシンを持ってきてもらって、8台くらいのミシンを使いみんなで縫っていった。これで大風呂敷を作って建物全部を覆っちゃいましょうと。

建物を覆って紐を引っ張る。そしたらスルスルと抜けて、これ落ちたら建物の全容が見えて、「オープンです!」ってことでスタートしようと。これも地域参加型で、3ヶ月準備して、布を縫ったんです。

これが出来上がって、紐も付けて地域の町長も来ました。議員さんも来ました。運営者である安積(あさか)愛育園という医療法人の理事長も来てくれました。

地域も子どもたちも全部、準備も入っていますから「せーのっ!」って言ったら引っ張ろうと引っ張ったんです。

そしたら紐だけが抜けた。

(会場笑)

山崎:これどうすんねん? となった。手元に紐あるけれど、風呂敷落ちてないわけですから、どうしようもない。そしたら子どもたちがバーッと走り寄ってくれて、引きちぎってくれた。これでオープンすることになったんですね。

そのあと、準備をしていた子どもたちから、同じく準備をしていたうちのスタッフが怒られるわけです。土下座してあやまっている。「ちゃんと落ちるって言ったじゃん」、大人たちは「ごめん!」って「何回も練習して落ちてたのに、本番で落ちなかったじゃん」と。

つまり子どもたちも、オープニングだから前で仲良く歌うたってくれとか、笛吹いて演奏やってくれと言われれば、大人が喜ぶように歌をうたうんです。ちょうどこれくらいでいいでしょって余裕かまして笛吹くんですけど、このときの子どもたちは自分の晴れ舞台で、何度も練習してきて、絶対にこれ落ちてもらわな困るときに落ちなかった。

だから彼らはものすごい怒っているんです。それで一番その調整役をやっていたうちのスタッフに、すぐ終わったあと「なんでなん!?」ってすごい怒った。「私ら恥かいた!」みたいな。

でも、これがいいなと思ったんです。子どもも大人も本気で戦っているし、本気で作戦を練っている。だから成功してもらわなきゃ困るし、遊びで子どもと大人がじゃれ合っているわけじゃない。その本気度合いが、このオープニングでも感じられました。

ゴリラ的知性のワークショップ

山崎:それから、地域の人たちが貨幣ではない形で分配してくれたり、ご飯を食べさせてくれたりと、徐々にワークショップが正常に回るようになってくることが、ある種、仲間として認めてくれた。コミュニティの一員として認めてくれたり、家族のように見てくれた。

よくあることですが、この若い人たちが「うちの孫と結婚せえへんか?」と言われることってしょっちゅうあるんです。あと、家をもらえるとかね。「裏山全部あげる」とか言われる人たちがいたりするんです。

ワークショップをやっているときには、もちろん、それをお受けするわけにはいかないけど、1つの指標になる。我々が地域の人たちにどう見られているかの指標。

だから、先ほど教えていただいたゴリラ的知性みたいなものが、我々の中にも本来、半分は入っているはず。でも、人が集まらないとき、力技で「じゃあ金を配って人を集めるか」みたいなことになっていくと、サル的知性で地域をまとめようとする。

動員をかけて地域の名のついている人たちに集まってもらって、自治会長と誰々でやりましょうとやって、効率的、効果的にワークショップを進めて合意形成をして、「これで進めましょう」とやっていると、どうも我々はサル化するワークショップをやっている気がしちゃう。

つとめてゴリラ的な知性を忘れないようにワークショップを組み立てていきたいなと、今のお話を聞いて思いました。

:これ、今もやってるわけですね?

山崎:今もやっているんです。

:その後、どうですか?

山崎:すごく面白い。今日も関わってくれた2人が来てくれていますが、寄り合いのメンバーが、そのあとマップを作って、ここの美術館を拠点にいろいろ歩くツアーをしてくれたり、緑化のプロジェクトを進めている人たちがいる。

あと、大学から来た人たちが「ここでオリジナルのお土産みたいなやつを作りたい」と言ってくれる。あとはマルシェです。こういうマルシェを美術館の前でやってくれる方々がいる。

これ、名前出てきました。鈴木清孝さん。清孝さんという人がワークショップに参加してくれていたんですけど、この人が地域のいろんな民族の話にすごく詳しい人で、「生きる民族博物館」って書いています。

この人が「怖い話をしたい」と言った。「妖怪夜ばなしをやりたい」と。美術館のすぐ横に墓地があるんですけど、その墓地で本当に雰囲気出して、自分で作って、下からライトを当てて、子どもたちを呼んで夜ばなしやるみたいなことをやってくれる。

実は、たまたまそういうことが美術館のテーマになっていたんです。妖怪関係が(テーマに)なっているときに、「じゃあ自分がもう一肌脱ぐわ」と言って、「妖怪夜ばなしをやる」と言ってやってくれた。地域の方々が一番に来てくれる美術館になったという意味で、すごくありがたい結果になったなという気がしています。

:いや、すごいですね。

山崎:いえいえ、そんな(笑)。

:ぜひ行ってみたいですね。

山崎:もうぜひ。みんな絶対に喜ぶ。

:障がい者のアートもあるんですか?

山崎:そうです。基本的には勝てないんです。障がいのある方々が作るアートの突き抜け感に、やっぱりアーティストはどうしても勝てない。ここで企画展として選ばれるのは、結果的に障がいのある方々のアートが多いですね。