初めての大海が怖くもあった

私は何とか2010年の8月に航海に出発しました。ヨーロッパを南下して大西洋を渡ったのです。大西洋は私が初めて横断する大きな海でした。すごくワクワクしたんですが、同時に怖くもありました。たくさんの航海はしてきましたが、これだけの距離の航海は初めてだったからでしょう。

この航海への第一歩は沸き立っているメディアの中から抜け出す一歩でした。そこから突然大海に出たんです。友達からも、親からも離れて、たった1人で。自分だけでまだあまり馴染みのないボートで旅に出たのです。

私はとても幸せでしたが、同時にとても怖くもあったし、すごく緊張もしていました。何て言うか、自分の中にある感情という感情が全部一緒に押し寄せていたんです。

そうこうしているうちに、最初の嵐に遭遇しました。そのときはずっとボートの中に居たのですが、学べることはたくさんありました。その間に計測器のように、いくつか壊れてしまったものもありました。

なぜそれが必要なのかと言うと、1人の航海だと、いつも舵を切っているわけにはいかないんです。食事をしたり、寝たりしないといけませんし、船の誘導もしないといけません。なので、自動的にそれらを行えるシステムが必要なのです。風の力でボートは進みます。しかし、大西洋でそのシステムが壊れてしまったのは困りました。

幸運にも、予備のものがあったおかげで、修理することはできたのですが、それも良い試練でした。他にサポートボートが付いているわけではありませんので、壊れたら自分で修理しないといけないのですから。

なぜ航海したかったのか。世界を見たかったからなのです。外の世界に出て、自分自身というものを知りたかったのです。ですので、私はいろいろな大陸で時を過ごし、その土地その土地の人々と知り合ったりしました。

本当に私の旅の中での最高の時間でした。いろいろな人たちと会って、いろいろな国に行って、いろいろな場所を見ることができたのですから。

私は西洋文化圏出身です。学校に行って、きちんと成績をとって、仕事をして、家を買って、車を買って。というのが是とされる西洋です。他に考えられる道はない、という考えが当たり前です。私の親はそういう方向には行ってなかったので、私の生き方もこんなふうになったんです。

例えばこういう島に来ると、こんな小さな小屋があるだけで、何にもないんですよね。最初は、どうやったらこんな生き方ができるのだろう?、どうやって生活するのだろう、と思ったものです。でも、その中にいる人々を知ると、本当に素晴らしい人々なんです。私を歓迎してくれて、食事をさせてくれて、気遣ってくれて。

島の人々は幸せの基準が違う

ある時、私は「もうちょっと大きな大きな所に住みたくないか」「家を買ったりしたくないのか」と聞いたことがあるのですが、彼は私を見てこんなふうに言ったのです。「ぜんぜん」と。「なぜ?」と。「必要なものは全部そろっている、屋根もあるし、海からは食料も取れるし、食べ物だってある」「家族みんながここにいるのだから」って。

それは私にとって、目から鱗の瞬間でした。私たちが本当に必要なものは実はそんなに多くないことに気づいたのです。この人たちは、私が自分の故郷で会った人たちよりもはるかに幸せなのだと。

良い仕事を持って、家のある、そんな人たちよりももずっと幸せなのだ、と、思ったのです。そんなことを目の当たりにできて、うれしかったのです。別の小屋で、ココナッツや、そんなものをカヌーで採ってくるような人たちです。

カリブ海からパナマ運河を通じて太平洋に行きました。太平洋は本当に綺麗な海なんです。夕焼けが綺麗なだけじゃなくて、太平洋からいろいろな場所を見てみると、本当に奇麗なんです。

そんなにたくさんは見れませんでしたが、イルカも見れました。過去に旅をした両親は毎日イルカを見ていたと言っていたのですが、私は毎日は見れませんでした。もちろん、生で見たイルカは本当に素晴らしかったです。

トビウオもたくさん見ました。食べなかったですよ。毎日デッキに飛びこんでくるんです。デッキに飛びこんできたら、悲しいことに助けてあげないと死んでしまうんです。助けないと死ぬので、毎朝助けてました。

パナマ運河からガラパゴス諸島に行って、そこでちょっと泊ってから島に行きました。(マダガスカル東方沖の)マスカリン諸島周辺って、波が不規則にバシャバシャ来るんですね。それで、モーリシャス島に行ったんです。

ラウラへの島民の慈愛

その時でした。私の足に何かが当たって、1センチくらいの深い傷を負ってしまったんです。私は歩けなくなってしまって。ボートはいつもごちゃついているし、潮や海水も怪我の治りに影響しました。全然治りませんでした。

陸地に着いたときは全然治っていない状態で、本当に感染症になってしまうんじゃないか、と心配でした。清潔にしないとと思ってバンドエイドなどはしていたのですが、傷のことはとても心配でした。

陸地に着いたら食べ物も買わないといけませんし、補給しなければいけないものも買わないといけません。ピョンピョンと跳ねながらしながら行ったんです。そんな私の足を見て、ある家族に「どうしたのですか」と尋られました。

それから彼らは自分たちの家に私を連れて行ってくれたのです。そして、女性が私の足に何か植物のようなものを足につけてくれて、それからバンドエイドを貼って、私のボートまで連れて帰ってくれたのです。とても優しかったです。

ありがたいことに、次の日にまた私のボートまで来て、また私を家に連れて行ってくれたのです。そして、また足の治療をしてくれたんです。足が良くなるまで、それをしばらくの間続けてくれました。

毎日、彼らにすごく感謝しました。そして、彼らにお礼をしようとしていました。しかし、私が何かをあげようとしても、「そんなことはしなくても良い」と言わんばかりの表情です。

そこには英語を話せる人も居たのですが、その人が言うには、「みんなお互い助け合うのが当たり前」「見返りはしなくてもいい」。

そして、「何かを与えるということは、見返りを受け取るということではない」と。「お礼をすることは本当に与えるという意味にはならない」ということでした。とても興味深いと思いました。この人たちは、私が助けが必要としていたから、ただ助けただけ、なのです。

だから、太平洋は本当に好きなんです。そこの島の人たちも好きでしたが、ちょっと早く出なければいけなくて。もう少しゆっくりできたら良いなとは思ったのですが、ハリケーンの季節がやって来たので。早くハリケーンから脱出しないといけなかったんです。

あまり思っていたように時間を使うことはできなかったのですが、例えばボートで何かが壊れた時にはそれを修理せず、島で思い思いの時間を過ごしました。その次に行ったのはダーウィンだったのですが、何と、ボートが全部壊れてしまったのです。あるとき操縦のは何ドルが壊れてしまったり。操縦のハンドルって必要じゃないですか?

でも、それが壊れてしまったのです。マストを縫わないといけなくなってしまったりして、全部ダメになってしまったんです。ハシゴが詰まってしまったり。本当に全部壊れてしまったんです。

なので、何ヶ月かダーウィンで全部修理する羽目になってしまったんです。小さいことでも、すぐに対処しないといけない。良い勉強になりました。

スポンサーはいらない

私がした決断でもう1つ大きな決断があります。それは、金銭的なスポンサーを断る、ということです。スポンサーは要らなかったのです。私自身の夢、私自身の旅、と思っていましたから。

何か大きな仕事が先にあって、それに対してスポンサーの申し出があったとしたら、夢を仕事に変えてしまっているでしょう。もちろん、それはそれで、仕事としては良いのでしょうけれども、私が自分1人の力で成し遂げられるのだったら、その方がずっと良い、私自身の夢だし、他の誰でもない、私自身のことだから、と、思っていたのです。

もちろん、スポンサーを断ることで付いてくる結果は明らかでした。ボートはすごくシンプルなもので、投資は安全ギアに対してしかできませんでしたし。何もかもを人の手を借りずに全部自分でしなければいけないという結果も付いてきました。

このダーウィンでボートを全部海から出さなくてはいけなかったのですが、それには結構なお金がかかります。船のギアだとすぐに海から出せたので幸運でした。それから甲板に着けて、紐で縛って、自分の場所で仕事ができて修理ができるのでお金がかからなくてすんだ、という幸運もありました。