「ファシズム」の語源は「絆」

中野信子氏(以下、中野):今、絆ホルモンという言い方をしたのですが、みなさんファシズムという言葉を聞いたことがあると思いますが、昨今は右傾化しつつあると話題になっています。

ファシズムという語源をご存知の方はいらっしゃいますか? それはイタリア語でほぼ絆という意味です。

友光雅臣氏(以下、友光):日本語にしてみると、束ねるという言葉が絆なのです。

中野:そうですね。つまり、イタリア人はよくわかっていたのかもしれませんね。集団になるとあのようなことが起きるのだと。

私たちの歴史にもそうしたことがあったのかもしれない。近年では、人は集団になることによって生まれるメリットを享受して繁殖してきたと考えられています。ですが、その犠牲になる人もいました。犠牲になる人をどうにか少なくできないかという試みの中で、あがいてきたとも言えます。

そのために、もしかすると宗教が重要な役割を果たしてきたのかもしれない。脳そのものの性質が暴走して不具合を起こすので、そこに当てるパッチのようなかたちで、宗教が発達してきたとも考えられます。それがちょっとずつ、ちょっとずつアップデートされて現在に至るのかもしれない。

このファシズムだったり、不寛容性だったり。今、「これはよくない」「あれはよくない」と言われているものを、まずはよくないと思うことを止めて、ちょっと一歩引いてみて、「こんな現象がある意味はなんだろう」を考え直してみようという試みが、このトークの意義ですね。

向源という言葉の意味も、そこにあるのかもしれませんね。

自分の源に向かうから「向源」

友光:向源というこのイベント名ですが、「向かう源」と書きます。これは仏教語として、もともとあった言葉ではありません。

僕自身がこのイベントに来てもらった人にどうなってもらいたいか、このイベントをどのような場にしたいかと思ったときに、偉いお坊さんが上からお説教をしてみんなに教えを押し付ける場であってはならないと思いまして。

始めた頃は僕自身がまだ27〜28歳であり、そんなに立派なお説教ができるような話手ではなかったのです。なので、「源」に「向かう」と書くのですが。できれば自分自身にちゃんと向き合ってもらいたいな、自分自身がその話を聞いて結局どう思うのかということを問い直してもらいたいという思いがあります。

このトークショーが結論を付けないというのもそうですし、じゃあそれを受けた上で自分はどう人に接して行くなり、自分はどう思っていくのか。

また仏教の教え自体も、例えば、ここでテロが起きました。これをなんとかしましょうというようなものではなく、なんでそうなったのかという原因や根幹に至っていくものなのですね。

例えば、海で溺れている人がいます。まずは助けたほうがいいですね。助けます。そのときに、じゃあ浮き輪を投げてあげて、よかったね、助かったね、終了。という感じではなく、じゃあどうして溺れたのかといったことまで聞くのです。

その人は泳げない。じゃぁ泳げないのにどうして海に入っちゃったの? 歩いていけると思ったら足が立たなかったの? そもそも泳げるようにはなりたくないの? それならどうして海の近くに居たの? 水の近くに行くのは止めようね、といった話をしながら、繰り返さないようにするためにはどうしたらいいのか。

そしてなにより本人はどうしたいのか。泳げるようになりたいのか。泳げるようにはなりたくないのに溺れてしまったのであれば、もうそれはやらないようにしようねという中で、起きてしまったことと本人の意思の根っこに近づいていきます。

根っこに行って、「そもそも君はこれをしたかったのだね」が見つかれば、もう溺れちゃダメですよではなく、違う話があるんですよね。

浮き輪を投げたから大丈夫。よかったね、救ってあげたよという枝葉の話ではなくて、そもそもどうしてそんなことがしたくなって、そのような結果に至ってしまったのかまでさかのぼる。自分で自分の意思や原因に気付いてもらって、自分でこうしようと思ってもらえたらいいねという姿勢が仏教にはあると思っています。

そうした意味で、今の時代はこうだからこうしましょうというお説教や提案をするというよりは、話していく中で、結局一人ひとりがどう生きたいのか。

やっぱり、一人ひとりがどう思っているのかが結果的にコミュニティでは絆だったという、集合的な一人ひとりの意思があって、ようやく世界はできてくるのかなと思うので。

たぶんこちらから「ドン!」と伝えていくというのがない部分で、その場を作りたいと思っているんです。だから結局、みんなだよっていう前提の上で今回の話もしていくというものではあるのですが。

親切=寛容、ではない

中野:ところで寛容、不寛容の定義を、一応しておいたほうがいいかもしれないですね。

友光:そう思います。かなりあやふやですもんね。

中野:NHKスペシャルでは討論的な形式をとって番組は進行したのですが、想定された通りというか、やっぱりみなさんの「寛容」のイメージが違うのですよね。親切=寛容、とか。

友光:優しいとか。

中野:私は、自分の期待とは違うことをされたときに、それを「受容する」ということを寛容と表現しました。

あるいは、例えばキリスト教のように、右の頬を打たれたら左の頬を差し出すことを寛容と言う場合もあるでしょう。

仏教にも、舎利弗(しゃりほつ)が目玉を差し出して、足で踏みにじられたという事件がでてきますよね。それで彼は、最初は怒って……。この話は友光さんのほうがプロだと思うのですが(笑)。

最初に瞋恚(しんに)の心が生じて地獄に落ちる的なことがあったのですよね。それも最初から修行の一部なのだと思って、自分がやるべきことをするのが寛容というのか。かなりのグラデーションがあるわけですよね。

友光:あやふやですよね。グレーゾーンが広いですね。

「サイコパス」は限りなく寛容である

中野:ここで、ある程度のコンセンサスをとらないと話が進まないですよね。範囲が広いですが、とりあえず、自分にとって最も許しがたいということをされた場合に、それに対して冷静でいられる、を寛容であるということにしましょうか。

そうすると洗濯機の中に洗濯物を置いておくのは些細なこととしても、ちょっと極限的な状況を考えてみましょう。姑に子どもの面倒をみていてほしいと頼んだけれども、その子どもが彼女の不注意のため亡くなってしまった。その相手を許せますか、許せませんか? これをなんのわだかまりもなく「許せる」と答える人はかなり勇気がいると思うのですが、中にはいますね。

友光:中にはね。

中野:このとき「許せる」と答える人は寛容な人だ、というのが私が定義しているところの「寛容」です。

ただ、この人を、あなたは信用しますか? 信用しませんか? こういった命題もあります。

友光:これはでもそう答える人もいますよね。

中野:本当に我慢して、それでも許すんだ、と苦渋の決断をしている人もいるでしょう。こういう人は信用して大丈夫です。けれど、そうでない人もいる。その人は、サイコパスの可能性が高いでしょう。

その寛容さは、信用してもいいのかどうか。彼らは、合理的な判断を優先します。失敗を責める必要がなく、その人と友好的な関係を保持した方が望ましいと計算できる場合には、「許す」という選択肢を冷静に選択できるのです。「サイコパスは『人間の亜種』」、という言葉を使う先生もいるくらいです。

友光:陰惨な制裁もないし、人に対して怒りもしないということですよね。

中野:非常に合理的で冷たい人です。人間関係から生じる熱いトラブルは起きません。

宗教家はそろって朝ごはんを食べることができるのか

友光:僕の意見でいうと、仏教的にはこれが寛容だというビジョンはありませんが、今だと寛容や多様性というワードがあると思います。

例えば、向源に牧師さんがきてくれました。イスラム教のムスリムの人もきてくれて、じゃあ朝ご飯を食べましょうということになりました。キリスト教、ムスリム、仏教は天台宗、浄土真宗、臨済宗です。

朝ご飯を食べる時に、当然「〜さんは何時に礼拝をしなければいけない」、「〜さんはなにが食べられない」、「〜さんはどっちの方角を向きたい」となってしまいますね。

そのため「う〜ん難しいからやっぱりそれぞれでご飯を食べようか」というのが今の世の中かなという気がしています。

それぞれが邪魔をし合わないということはいいとは思うのですが、僕の意見としては、できれば「じゃあ、どの方角を向いて」「この食材を抜いて」「この時間に僕らも一緒にお経をあげちゃったらとりあえずみんなで朝ごはんは食べられるね」と。

どうしたら一緒に朝ごはんを一緒に食べられるかをまとめることができれば、超理想論ではありますが、それが多様性なり、寛容な社会かなと思います。

多様性を認め合いましょう。寛容でありましょうというときに、それぞれやっていることがそれぞれバラバラで、中野さんの言う通りでもあるのですが、「関与し過ぎないでバラバラにやっていきましょうね」というこの実情は結局は寛容なのかなという疑問があります。なにかそんな気がしています。

中野:現代の都市部ではそうですね。インフラが整っていて、1人でも生きていける、集団でいる必要がない環境では既にそうなりつつあるなと思います。私はそれが悪いことだとは思っていません。

友光:そうですね。一概には。

本当の平等は三草二木(さんそうにもく)

中野:集団でいないと生き残っていけないところはどこなのかというと、農村部です。人と人が協力し合い、助け合わないと生き残っていくことが難しい場所。こちらのほうが圧倒的に実は広い。

日本は東京圏に人口の3分の1が集中していることもあり、現代の社会は、という話をするとき都市圏の生活がどうしても想定されてしまいます。でも実は、都市化されていない、インフラが整備され切っていないところも多く、そうした環境ではまだ、生きていくために助け合うことが重要なファクタなのです。

人は、向社会性に頼らないと生き延びてはいけない不完全な種といってもいい。「寛容」「多様性」ときれいごとをいっても、もしかしたらその多様性自体が集団を壊すきっかけになるかもしれないという場面にいくつも遭遇すると思うのです。

その中でどうあがくのかというところですね。これはたぶん、仏教説話にも確かいくつか例え話があると思いますが、「三草二木(さんそうにもく)の譬え」という。

友光:天台宗でも大事にしている法華経の話で、他にもいろいろな仏教の話を出してくれるんですが、申しわけないことに、中野先生の方がよく勉強しててくわしかったりするんです(笑)

中野:本を読むのだけは早いから。「三草二木(さんそうにもく)の譬え」というのは、法華経の薬草喩品で説かれる例え話で、こういうものです。

草原に雨が降るというシーンを想像しましょう。雨が降るときに、野原には水がたくさん欲しい植物もいるし、あまり要らない植物もいますね。葉っぱが広い植物もいるし、葉っぱが細い植物もいます。だけども、みんな等しくそれぞれの性質に応じて立派に育つでしょう。雨は平等に降るのですが、それぞれに必要なものをそこから得て、それぞれが健全に育ちますよという仏教の教えです。

なんか私が僧侶みたいですね、すみません(笑)。

友光:すみません。なんか全部やってもらっています(笑)。

中野:それぞれに持っている性質が違って、多様性に富んでいても、仏の教えは雨のように降ってみんなを育てるものですよという。本当の平等というのはそういうことなのかなと、私は解釈しました。

でも、討論番組などで語られる「平等性」は、みんな等しく同じものを得なければいけない、という場合が多いようですね。例えば、体重50kgの人間が、1日に必要なカロリーはこれだけなんだけれども、みんな等しくご飯1杯しかもらえませんとなったとします。

じゃあ、筋骨隆々とした90kgぐらいあるようなガチムチの人がいて、体重50kgの人と同じだけのご飯で足りるかというと、そんなことはないですよね。

それは平等といえるのか? 食料の話で例えましたが、その人にとって本当に欲しい幸福や、その人にとって本当に必要な満足というのは、平等の前にどう定義したらよいのか。なかなかこれは悩ましいところだと思います。

幸福感が必ずしも比較できるものとは限らないということで、次につながるのですが。

2017年の世界幸福度調査で日本は51位

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