ヤフーらしさとは?
鶴田浩之氏(以下、鶴田):じゃあ次は、せっかくなので、臣さんに「ヤフーらしさってなんでしょうか?」をちょっと聞いてみたいなと。
村上臣氏(以下、村上):ヤフーらしさ。ヤフーらしさってなんでしょうねえ?
鶴田:「ヤフーらしい人」みたいな話がさっきあったので、これを入れたんです。
村上:なるほどね。
社員でいうと、やっぱりすごくオープンでフラットに働く人です。けっこうなんでも言いたいことを言うし、「とりあえず聞いて考えよう」みたいな、オープンマインドを持った人が多いです。
サービスでのヤフーらしさは、圧倒的にユーザー目線というか。我々は「ユーザーファースト」と言っていますが、とにかく「(ユーザーに)どうやって使われるか」をひたすら考えている。
鶴田:「マルチビッグデータドリブンカンパニー」と書いてありましたね。
村上:そう。最近、それになったんですよ。
鶴田:早口言葉(笑)。
村上:早口言葉みたいな。
鶴田:ヤフーらしさ(笑)。
村上:「全部くっつければいいんじゃないか?」みたいな感じになっています。
自ら脱皮できないと、破壊的イノベーションにやられてしまう
鶴田:いや、でもヤフーさんの最新の決算資料がすごくおもしろかったです。なんか「自ら殻を破って、また次へ」みたいな解説もありました。
村上:そうですね。さっきの安宅(和人)の言葉でいうと、「脱皮しない蛇は死ぬ」というのが安宅語録の中にあって。僕、好きなんですよね。
鶴田:それは世に出ている語録なんですか? それとも……。
村上:たぶんいろんなところで、こういうイベントとかで言っていると思います。
蛇って脱皮するじゃないですか、大きくなるために。
蛇になったことがないのでわからないですけど、大きくなることってけっこうつらいと思うんです、あれ。脱皮するのは見たことがありますけど、けっこう時間をかけて、ずるずるずるっていくじゃないですか。脱皮に失敗すると死んじゃうんです。海老もそうです。あと蟹も。
鶴田:蟹の脱皮とかすごい大変……。
村上:海老の脱皮もね。……見たことある? 海老の脱皮。
鶴田:蟹ならあります。
村上:蟹もすごいよね。思わぬ抜け方をするよね。なんか最後にズボって抜ける。海老も蟹も。
鶴田:30〜40分間、ずっと苦労して、最後の3秒ぐらいでバッて。
村上:そう。クライマックスが最後の3秒ぐらい。ずっと見ていて、もぞもぞっとして、ちょっと色が変わってくるけど、最後にズボっと抜けて。「すご」みたいな。
でも、海老とか、途中で引っかかって死んだりするんです。抜けきれなくて。昔、僕は海老をたくさん飼っていたんです。別に養殖じゃないですよ。そういう危ない仕事じゃなく、水槽の中にいる奴です。鑑賞。熱帯魚みたいな感じで飼っていたんです。
鶴田:プラ……ネタリウムじゃなくて、なんでしたっけ?
村上:アクア。
鶴田:アクアリウム。
村上:ちょっと近かったね。だいぶ違うけどね(笑)。
鶴田:ヤフーらしさの話から甲殻類の脱皮の話になっちゃいましたけど(笑)。
村上:とにかくでも、そういう利用者目線ですごくこだわりを持った人が多い。
鶴田:大企業になっても、自ら脱皮できないと、どこかで小さなベンチャーの破壊的イノベーションにやられてしまうことになりますよね。
村上:そうそう。最近我々もちょっとやられがちだから、もうちょいがんばらないと。
鶴田:なるほど。
村上氏は自称「究極のジェネラリスト」
ヤフーらしさが詰まったこの1冊というところで、スライドに入れてみました。
臣さんと初めてこうやって聞き手で対談させていただくので、いろいろ調べたんですが。臣さんはご自身のことを「究極のジェネラリストである」と自称されていた。
村上:言ってた、言ってた。
鶴田:そのへんを深掘りしたいです。
村上:なるほど。
鶴田:まず、仕事の話も含めて、いいですかね。
村上:社員も最近は知らない人が多いですけど、もともと僕はエンジニアなんです。だから、コードを書いていた。
当時は「ガラケー」ってあったじゃないですか。僕らはヤフーに買われて入ったけど、Yahoo!モバイルというガラケーのサービスが始まった。
ヤフーが始めたのはいいけど、ぜんぜんPVが伸びなかった。そこで「作り方がまずいんじゃないか」と、「できるやつを連れて来い」と買われたのが私たちだったんです。
それで、とにかくその時はごりごりとコードを書いて、いろんなことをやって今に至る。なので、やったことで言うと、当時は普通にコードを書いてガラケーサービスを作っていて。途中からプレイングマネジャーみたいな感じで、人が増えたので管理もやりました。
あとで時系列が出てきますけど、今でいうとYJキャピタル、……ヤフーのベンチャーキャピタルです。CVCで投資のパートナーもやっていますし、あとは普通に管理職もやっています。いろんなことをやってきました。
中学生で感じた、プログラマーとしての限界
「なんで?」という話ですけど、エンジニアだけで、プログラマーとしての才能に限界を感じたんです。早くに。中学生ぐらいの時。
鶴田:ちょっと早くないですか?(笑)。
村上:僕は小6の時にプログラミングに出会いました。当時はMSXという、おっさんはたぶんわかるかな、BASICで書くのがあった。
鶴田:臣さんは76年世代、77年生まれですね。
村上:そう。早生まれで77です。ちょうどその頃はMSXが流行っていて、ゲームを作りたかったんです。一生懸命、見よう見真似でゲームプログラミングをやった。当時そういうプログラミングの雑誌があったんです。今では信じられないですよね。
鶴田:そのままソースコードが書いてある?
村上:そう。ソースコードが紙にプリントアウトされているのを、一字一句間違いないように打つと動く。ダウンロードができないですから、みんな一生懸命そうやって打っていたわけです。それをちょっと変えながらオリジナルゲームを作ろうみたいにやっていた。
そういうのを見ると、自分でけっこうできるようになって作る。それで、投稿ができるわけです。ラジオ職人じゃないけど、それで佳作、大賞を獲ると本に載れる。みんなこぞって自作のゲームを投書していたんです。
僕も一生懸命、投書したけど、ぜんぜんダメ。でも、その代わりに僕が投書したゲーム雑誌とか見ると、もう自分では絶対に思いつかないようなコードがあるわけです。
鶴田:コードがすごい? アイデアというよりも。
村上:その実装方法であるとか、アプローチであるとか。「世の中には天才がいるんだな」と思った。なので、それで中学生ぐらいの時に「俺は無理かもしれないな、これは」と。
もちろん今でも趣味的にプログラムをすることはあるけど、「やっぱり俺はゲームプログラマーとしてはダメなんだな」と思い知ったんです。
究極のジェネラリストはスーパーオタク
鶴田:中学時代は、オタク少年みたいな感じだったんですか?
村上:もうスーパーオタクですね。
鶴田:スーパーオタク?
村上:スーパーオタク。僕はもともと電子工作から来ているんですよ。この道。
鶴田:この店、電子工作の本がめっちゃありますよ。
村上:でしょうね(笑)。
鶴田:はい。IoT、電子工作。
村上:まだアキバが萌え萌えじゃなかった時代ですよね。今だいぶ変な感じですけど、当時はもうラジオでした。アマチュア無線全盛期で、電子工作。小3ぐらいの時に親父に連れていってもらった。
鶴田:それ、今につながっていますよね。
村上:今につながっていますね。
なので、その時にアマチュア無線もやってましたし、当時、自分で作った無線機をチャリンコに乗せて、拾ってきたバイクのバッテリーを前のカゴにつけて、キャリアのところにアンテナを生やす。川の土手って見晴らしがいいので電波が飛ぶんですよ。そこを走りながら「ハロー、CQCQ」とやっていたのが中学時代。
(会場笑)
村上:その裏で、ハードウェアを制御したくて、シリアル通信とかをやってたという。
鶴田:はあ……。
村上:オタクですよね。どう見ても。どう切ってもオタク。
際立ち始めた“スマホの次”
鶴田:ぜひ『村上臣さんの全仕事』という本の企画を。(村上さんの)本、ないですよね。あります?
村上:1つね、cakesでやった連載で横石(崇)さんが書いたものがあります。
鶴田:いや、もっと聞きたいですよ。
村上:ライゾマの真鍋(大度)さんとか、いろんな変人を12人集めてキャリア論を聞くみたいな本が1つ出ていますかね。
鶴田:なるほど。じゃあ後ほどちょっとタイトルを調べてご案内しますね。究極のジェネラリスト……今はわりとIoT関連だとか。
村上:そうですね。あれ(myThings)は企画から僕がコンセプトメイキングしました。完全になんか、スマホがもう伸びないというか、際立ってきたので「スマホの次ってなんだろうな?」と探しているなかで、1つ大きいのはIoTとかロボットかなと。
まあうちのグループは、Pepperという先鋭的なロボットがおりますけれど。そうだ。今日、ログミーいるんだよね。
鶴田:え、ログミーがいるとまずいことが?
村上:いやいや、なんか、あまりディスったらまずいかなと(笑)。
(会場笑)
村上:賢い。
98年に確信したモバイルブーム
鶴田:なるほど。じゃあ、ここからちょっと時系列に……と思いましたが、質問をまた差し込もうかな。なにか臣さんに質問のある学生さんいませんか? いなかったらうちの社員が当たることになっているんですけど。
村上:(笑)。
鶴田:あ、どうぞ。
質問者1:中学生時代にプログラミングで生きていくのが難しいと思ったのに、エンジニアからキャリア始められている。そこでなぜエンジニアのほうに進んだのかなとちょっと気になりました。
村上:まず、プログラミングができるという能力は獲得しました。あとで時系列で出てきますけど、インターネットブームがあったんです。なので、労をせず、もうむちゃむちゃ儲かったんですよ。今じゃ信じられないですけど、HTMLが書けるだけで、もうガッポガッポ儲かったわけです。
いろいろ家庭の事情とかあって、大学1人暮らしで、生活費は全部自分で稼がなくちゃいけなかった。なので、とにかく楽して稼げる仕事を探して一番効率がよかったのがプログラミング。なので、業としてやってたという感じです。
質問者1:生活の手段として?
村上:そうです。食うための手段として、こんなに効率のいいものはない。もちろん好きですけどね。もともとガジェットも好きだし、インターネットも大好きで、今でもネットばっかりやっていますけど、そこが一致したのでそうなっている。
質問者1:その時に、エンジニアリングしながら、「中長期的にこういうことしたいな」というのは思い浮かべた?
村上:どうでしょうね。最初はぜんぜん思っていなかったです。僕ら「電脳隊」というベンチャーを立ち上げた時は、大学1年の時だったんです。18歳の時です。20歳ぐらいになるまでは、もう目先の仕事をひたすらやっているだけでしたね。
そのあと、モバイルブームが来そうだったので、自分たちで確信を得てやり始めた時に、「世の中はやっぱり全部モバイルになるな」と。98年ぐらいに決めて、もう全部それにフォーカスしようと思った。
なので今、モバイルの世の中になって。そこまでけっこう時間かかりましたけど、わりと自分的には満足したという感じです。
質問者1:「金になるぞ」と無我夢中でやっていたら、「これ来るんじゃないかな」と 踏み込んでいった ?
村上:そうそう。自分たちで見立てをするようになって、そのとおり世の中が進んでいく。もちろんいろいろ微調整はしているけど、非常に大括りでいうと、読みが当たった感があった。プラス、インターネットがすごく成長したところに乗っかれたので、これは非常に幸運だったと思います。
質問者1:ありがとうございます。
鶴田:ありがとうございます。ちょうどいい流れの質問ですね。
村上:仕込みなんじゃないですか? 仕込み。
鶴田:いやいや、違います(笑)。
村上:(笑)。
アキバ通いが高じて、人生初のヘッドハントに
鶴田:『Yahoo! 全仕事』の過去・現在・未来というテーマだったので、そこに沿いながら、ヤフーの歴史とともに臣さんの歴史をちょっと振り返りましょう。
村上:そうね。ヤフーの歴史は。ほぼインターネットの歴史ですからね。日本のインターネットの歴史。
鶴田:なので、ここからは、私はあまり挟まないので、どんどんしゃべってもらって。
村上:ああ、なるほど。もうファシリテーションすることを諦めてきましたね。しゃべれと(笑)。
鶴田:じゃあ少ししゃべると、1995年といえばなんですか?
村上:Windows 95ですよね。なんといっても。
鶴田:この時、おいくつですか?
村上:この時は17、18歳ぐらい。たぶん高3かな。
鶴田:やっぱ熱狂って感じだったですか?
村上:そう。この時、僕はアキバへ通うのが高じて、いわゆるDOS/Vパソコン、自作パソコンをやっていたんです。その時に客として足繁く通っていた店が、今もあるTWOTOPという店なんですけれども。そこで店員みたいになっちゃった。
鶴田:えっ(笑)。
村上:常連客はどこになにがあるかを知っているわけです。なので、あまりにも普通に店員といるので、店員だと勘違いされて、「すいません、このマザーボードどこにありますか?」「あそこにあります」とか言って。
「お会計お願いします」「いや、店員じゃございません」みたいな感じでやっていたら、店長に「お前、そういえば、なんで働いてねえんだよ。手伝えよ」と言われて、バイトするようになって。この時は、むちゃむちゃパソコン売りまくってました。アキバで。
鶴田:売りまくってた?
村上:売りまくってました。半端ない売れ方をしていました。
鶴田:高校3年生?
村上氏は当時高校3年生、そして鶴田氏は……?
村上:大学へ行っても、97年ぐらいまでやっていたのかな? もう本当、週末は地獄でしたよ。おかげで背筋がすごい鍛えられた。
鶴田:背筋?
村上:当時、液晶じゃないから重いんですよ。15インチブラウン管ディスプレイとか。若い人、わかりますかね? ちょっとお金がある人は17インチとか買っちゃって。箱が20キロぐらいあるわけです。それを駐車場まで運んであげたりしていて、当時すごい力持ちになれて。肉体労働をしていました。
鶴田:僕は、その時、4歳です。
村上:はい?
鶴田:4歳でした。
村上:なんかもう、やだね、やだね(笑)。4歳……そうか、デジタルネイティブ。
鶴田:でも、覚えていないです。
村上:覚えていない……。