防衛大を経て、台湾メディア立ち上げへ--異端の起業家がこだわり続ける“社会への貢献”

ジーリーメディア・吉田皓一氏

アマテラス代表・藤岡清高氏が、社会的課題を解決する志高い起業家へインタビューをする「起業家対談」。今回は、株式会社ジーリーメディア・吉田皓一氏のインタビューを紹介します。※このログはアマテラスの起業家対談を転載したものに、ログミー編集部で見出し等を追加して作成しています。

母の影響で中国に興味を持つ

藤岡清高氏(以下、藤岡):まず、生い立ちについておうかがいします。どのような家庭環境でしたか?

吉田皓一氏(以下、吉田):父は普通の中小企業のサラリーマンでした。日本石油の孫孫請けのような小さい会社のガソリンスタンドで働いていました。そこで見初められ、正社員になりました。「ザ・サラリーマン」という感じですね。母親は洋服のデザイナーをしています。

どちらかというと母親の影響が強かったのかなと思います。デザイナーというと聞こえはいいのですが、実際には工場まで行って、仕事について現場の人に直接言わなくてはいけない。工場があるのは中国。なので、母の出張先のほとんどが中国でした。その影響で中国に興味を持ったというのはありました。

藤岡:どんなふうに育てられましたか?

吉田:「勉強しろ」と言われたことは一度もなかったですが、「習い事はなにか1つやれ」と言われました。そろばんか公文式、それか親がデザイン系なので油絵を習うか。どれかしろと言われ、私は絵をとりました。小中学生ぐらいまでは油絵を中心に、また漫画を描いたりもしていました。一時期は本気で漫画家を目指していました。

藤岡:小中学生時代のエピソードは他にもありますか?

吉田:小中学生時代は野球ばかりしていて、勉強しなかったし、できなかったです。中学校は地元の、田舎の公立でいいのですが、当然、高校受験しなくてはならない。その時に入れる高校は、工業高校や商業高校しかないほどでした。大阪の市立を受けたのですが、特進コースは当然難しく、標準コースしか受かりませんでした。

藤岡:吉田さんは防衛大学に進みましたが、高校時代に「防衛大学に行きたい」と思うようなエピソードがあったのですか?

吉田:「防衛大学校に行きたい」と小学校6年生頃からチラチラと思っていたのですが、自分の学力では受かるはずがないと思っていました。ですが、高校2年生頃に急に勉強の仕方がわかるようになり、「お、こうすればいいのか」というのがなんとなく見えてきました。その後、学年トップになり、「防衛大学校に行ける」となり、そこで本気で考え始めました。

防衛大学校での経験が会社経営に役立っている理由

藤岡:防衛大学校時代のエピソードを聞かせてください。

吉田:防衛大学校での経験は、今の会社経営に役立っていることがとても多いです。会社経営と軍事学がなぞらえられることがよくあります。防衛大学校の卒業生は、22歳でいきなり小隊長になり、下は高校出たての人から上は50歳の定年前の方までを束ねて指揮統率する。だから、防衛大学校のカリキュラムでは指揮統率する能力を養います。

そのため、初めにリーダーシップを学ぶのかと思いきや、まずはフォロワーシップを学ばせるのです。つまり、服従することの難しさと大切さを学ばされる。卒業したら自分がリーダーになるので、その前に指揮されること、服従すること、隷属することの難しさ、大変さを徹底的に学ばされるのです。

私は防衛大学校時代ずっと従う立場でしたし、朝日放送でもそうでした。今私は指揮統率する立場になりましたが、指示される大変さは身をもって理解しているつもりです。

藤岡:防衛大学を1年で辞め、慶應大学に入られたわけですが。その背景を教えてください。

吉田:自分の60歳時の姿が見えてしまったのが、防衛大学を辞めた理由です。

卒業して30歳、35歳ぐらいまでは部隊指揮官として現場で働き、40歳からは市ヶ谷の本庁勤めという公務員生活です。他の公務員と同様徐々にポストが狭くなり、次第に天下りしていくというところまで予想できました。当時私は若かったので、「他の選択肢もあるのでは」と思いました。

そして、慶應義塾大学に入りました。それまで白黒だった目の前が急にフルカラーになったような感じで、「これだけ広い海だから全部見よう」と思いました。

アルバイトで家庭教師の営業マンをやったり、飲み屋のボーイをしたり、その他に選挙運動をしたりとさまざまなことをしました。多くの経験をしすぎて留年してしまい、結果、5年間いました。

藤岡:朝日放送に就職した経緯を聞かせてください。

吉田:私は元々社会のためになりたくて自衛官を目指していました。そもそも自衛隊は国を守る「ハードパワー」です。私は、21世紀は「ハードパワー」ではなく、「ソフトパワー」の時代だと考えるようになりました。

日本の「ソフト」とはアニメやドラマなどのコンテンツであり、21世紀の日本の国益を左右すると考えました。そこで、日本のソフトパワーの総本山であるテレビ局への就職を決意しました。

藤岡:朝日放送を3年ほどで辞め、ハピフルに行った背景を聞かせてください。

吉田:ハピフルは先輩のお母さんが経営する会社です。ハピフルでは自由に仕事をさせてもらえることに魅力を感じました。それまではあまり自由のない職場で息苦しくなり、いったん落ち着こうと考えて転職しました。ハピフルは居心地も良く、多くのことを考え、見つめ直す時間を与えてくれました。

中国での起業を目指すも断念、そして台湾で観光メディアを立ち上げる

藤岡:起業に至るエピソードを教えてください。

吉田:私が朝日放送を辞めてハピフルにいたのは2010~11年頃で、北京オリンピックや上海万博が終わり、当時の日本メディアは「これからは中国だ」と言っていた時期でした。

中国は日本のGDPをはるかに抜き去り、日本のGDPの2倍になっていました。テレビの特集等で、中国で活躍する若手日本人起業家をフォーカスしていました。私もその熱にほだされ、中国に興味を持ちました。

藤岡:中国語は大学時代に学ばれたのですか?

吉田:そうです。「将来は中国で仕事がしたい」と思っていました。当時、メディアで紹介される「中国で活躍する日本人起業家」を見て、上海に何度も行きました。上海に行き、多くの若手起業家の話を聞きました。その起業家の中には、「吉田くん、上海いいよ。こっちに来なよ」と言ってくれる人もいました。

そして、私も上海で起業するはずでした。しかし、2012年9月に尖閣諸島の問題で反日デモが中国のいたるところで起こり、日本人起業家の店はすべて壊されました。また、倍々で増えていた訪日客もピタッと止まってしまいました。

中国は政治的リスクで左右されるので、日本人の若者が行っても勝負できないと思いました。しかし、「中国語は活かしたい」という気持ちが強かった。そこで、ふと横を見ると台湾というまったく違うマーケットがありました。

藤岡:中国や台湾でなにをするか、具体的に決めていたのですか?

吉田:まったく決めていませんでした。漠然とメディアの仕事をしたいと思っていました。

しかし、なにをしたらいいか、テレビなのか雑誌なのか、インターネットなのかわからない状態でした。「台湾でなにをすればいいのかわからない」という中で、2012年にFacebookページを立ち上げました。現在、そのFacebookページのファン数は50万人を超えています。

台湾でメディアを作りたいと思っていた矢先、タイミング良くオープンスカイ協定(各国が自由に空港の発着枠や便数などを決められる航空協定)が結ばれました。オープンスカイ協定が結ばれた影響で、台湾から日本への旅行者が急増しました。   そこで、私は観光メディアを作ろうと考えました。台湾には観光メディアがありませんでした。当時の台湾人は、ブロガーのブログで情報を探していました。ブロガーは自分1人だけなので情報に限界があります。

そこで2013年に会社を設立しました。メディアを作るにあたり、ファンページでのファンの方に「台湾のみんなのために日本観光旅行メディアを作るのですが、どういうのがあったら嬉しいですか」と聞きました。

「台湾と日本に貢献する」という志が人材を集める

藤岡:資金繰りなど、事業成長の壁がありましたら、聞かせてください。

吉田:メディア事業は在庫などを抱えないので、資金繰りにはあまり苦労しませんでした。なおかつ、テレビ局時代に付き合っていた広告代理店が強い味方となり、ロケットスタートを切ることができました。

藤岡:最初の仲間集めは特に大変だと思うのですが、どのように集めたのですか?

吉田:Facebookで「今からメディア事業始めるんだけど」というと、とても多くの方が応募してくれました。また、そのユーザーがシェアしてすごい勢いで広がり、台湾の一流企業、一流大学の人が履歴書を送ってきてくれました。なので、

当社の7~8割は台湾人です。当社の台湾人はみんな優秀です。「どうして当社で働いているの?」というような人たちばかりです。

藤岡:彼ら台湾人からしたら御社のビジネスはすごく差別化されていますよね?

吉田:私たちは常に「お金儲けも大事だけどお金のために働くのではなくて、その社会のため、日本のため、台湾のために金儲けするのだ」と意識しています。

金儲けは目的ではなく、手段だと考えています。台湾と日本に貢献するための手段が金儲けなのだと、私も、彼ら彼女らも思っています。だから高い志を持って働いてくれています。自分の好きな台湾と、自分の好きな日本のために貢献する。その両国をつなぐために、今働いているというモチベーションを持ってもらっています。

藤岡:これはデリケートな話かもしれませんが、台湾の方がうまくいかずに辞めた事例はありますか?

吉田:当社では本当に社員が辞めません。自分で言うのもなんですが、相当絞って人材採用していますし、経営者の私が台湾の文化・風習を理解した上で一緒に働いています。

また、台湾としては給料もいい水準で、残業もほぼありません。台湾の方にとって働きやすい環境だと思います。

藤岡:台湾人には、どういうマネジメントを心がけていますか?

吉田:彼ら彼女らのプライドを尊重することを大事にしています。「中国人と台湾人が違うことは知っています。あなたはしっかりと勉強していたのですよね」と尊重しています。また、当社の日本人社員は皆、日本語で台湾人社員とコミュニケーションをとる時はすごく優しい言葉遣いでゆっくり話すようにしています。

自衛隊時代の「全員でゴールする」気持ちを大事に

藤岡:どのような人を幹部候補として採用したいですか?

吉田:相手の立場になって気持ちがわかる人を採用したいです。イケイケな感じの人は合わないと思います。もちろん、当社もイケイケでいく時はありますが、それによっていろいろな人が犠牲になることは許せません。

自衛隊と企業で一番大きな違いと感じることは、自衛隊は全員がゴールしないとゴールではないのです。遅い人がへばって、速い人だけがゴールしたとしてもゴールにはなりません。へばった人がいれば銃を持ってあげる、後ろから押してあげるなどして、全員でゴールしないとゴールではないのです。

しかし、企業はそのようなことはしません。私たちは企業なので利益を追求するのですが、自衛隊のように全員でゴールするという気持ちを大事にしています。だから、一言でいうと愛に溢れた人が欲しいです。

藤岡:そういう人であれば、台湾のことを知らなくてもキャッチアップできますか?

吉田:できます。当社は台湾が好きとか嫌いとかまったく関係ありません。常識に捉われず、現状を壊してくれる人を経営幹部に求めています。

藤岡:今のジーリーメディアで働く魅力を聞かせてください。

吉田:私が言うのも恥ずかしいですが、今はとても面白いフェーズにあると思います。なんでもできるフェーズにあります。今年はウェブメディアを作りました。同時に、台北のど真ん中に、そのウェブメディアと連動するアンテナショップを作りました。

また、時代に逆行して紙メディアのガイドブックを作りました。他にもアプリの開発など、なんでもできるので、そういったところに魅力があると思います。

藤岡:中国語を話せないと難しいですか?

吉田:中国語のスキルは必要ないです。ただ、当社に入って、もしその方が望むのであれば教育に時間とお金と労力は惜しみません。

藤岡:今後の一番の課題はなんでしょうか?

吉田:広げすぎたので、地盤固めが必要だと思っています。私たちは攻めの舞台ですが、守りも大事だと思っています。

藤岡:今は吉田さん1人でいろんなことをやっていますよね?

吉田:私がキャラ立ちしているから台湾では差別化できていると思います。日本人で中国語が話せてメディアのことをわかる人が、台湾でインタビューを受けたり、テレビに出たり、さらには百貨店のイベントで私の冠の日本物産展がありました。そこまでやれる日本人は恐らく他にいないと思います。

私がピン立ちすることは、今後もある程度の差別化のためにやる必要があると思っています。とはいえ組織なので、私が1人で刀を振り回しても仕方ない。会社として新しいビジネスをどんどん作ってほしいと思っています。

藤岡:貴重なお話ありがとうございました。

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