皿を洗わなければならないのと同じように、幸福にもならなくてはいけない

――まず、おうかがいします。モデルになりたいと思われた瞬間はありましたか? それはいつ頃でしょうか?

カルメン・デロリフィチェ氏(以下、カルメン):まずお伝えしておきたいのですが、私は何にもなりたくなかったの。「母にとっての良い娘」以外のものになりたいと思ったことはなかった。これは、私が生きた時代背景に置き換えて考えていただく必要があります。

女性は、看護婦か秘書になることはできましたが、「誰かの妻」になるものと期待されていました。女優、モデル、売春婦は同じようなもので、モデルになるということに良い印象はありませんでした。私はそんなことは考えず、一日一日、やるべきことをやりながら生きていただけだった。

私は1931年、大恐慌の最中に生まれ、シングルマザーの母によって育てられました。父はいましたが、母より20歳年上だった。私は「幸運な事故」として生まれ、両親は結婚しました。両親とも私の人生に、死ぬまで関わりましたが、2人一緒にではなく、母が私を育てました。私にとっては母が全てで、母以外に私を恐れさせるものはなかったわ。母を怒らせてしまった時だけは、涙を流したものよ。

――初めてのオーディションで、心に残っている瞬間はありますか? どのような経験だったか、詳しく話していただけますか?

カルメン:始めからお話しするわね。私は13歳で、リウマチ熱のために1年間以上も病床についた後だった。最初に情熱を持ったバレエに戻らないと。ヴィチェスラフ・スヴォボーダに学ぶ奨学金を得ていたわ。それで……。

――思い出すのに時間が必要でしたらゆっくりしてくださいね。

カルメン:彼は、バレエ・リュスのためのコール・ド・バレエの全員を訓練していたの。私は、最初から十分実力があって、夢中になりました。もちろん母の元から離れて暮らすことや、誰かを喜ばせられることも本当に楽しかった。プリエは初めてでできたし、上級クラスに入れたわ。バーの横に立っていると、後ろに小さな男の子がいて、彼もこの特別クラスに入ることを許されたんです。バーでバトマスをする時には、その子がよく私のお尻を蹴ったのよ。逆毛が立っていて、前歯の間に少し隙間が空いている子だったわ。

その子はずっと嫌がらせをしたわ。彼の妹、ナネッテは素晴らしいダンサーで、お母さんは座って、編み物をしながら全ての授業を見に来ていた。お母さんは「もっと高く、もっと高く」と表情で言っているようだったわ。素晴らしいステージ脇のお母さんね。私の後ろにいた小さな男の子は、ジャック・ダンボイズだったわ。

心臓弁のウイルス性感染症のリウマチ熱で、初めて死にかけたわ。ご存じでしょうが、あの頃にはまだペニシリンはなかったの。私はベッドに横になって。心細く、孤独な子供だった。テレビもない時のことで、ラジオや、塗り絵の本や、裁縫はあった。毎日一人ぼっちで、ベッドの中で小さな趣味に取り組んでいて、母は仕事に出ていたわ。

母と私は、アパートがあった時は、そこに住んでいた。住むアパートがない時は、夏の間を救世軍で過ごしたこともあった。家賃を払えないと、窓から荷物を放り出され、私たちは他のアパートに引越していたわ。

ぜひわかって欲しいのですが、母は劇場でのキャリアを諦めたの。母はダンサーで、「ジャンボ」「フェイス・ザ・ミュージック」に出演したわ。私が生まれた時母は20歳だった。そしてハンガリー人移民だったの。年をとり、自分の人生観が成熟するにつれて、母がいかに強く、聡明で、信じられないほど素晴らしい女性だったかがわかってきたの。でも、私は自分がスタート地点に立てているのかわからなかった。口に出さないまでも頭でわかっていることがあったわ。苦労していたことを、子供ながらにわかっていたわ。

母と私は強い絆で結ばれていて、私が母の面倒を見なければならないとわかっていたの。母が仕事から帰ってくると、ベッドが整っていなければ。家はきれいにして。コンロを使うことは許されてなかったけど、ジャガイモの皮を剥いて洗って準備することはできたわ。今とは、全く異なる生活ね。今では人々は地役権を持っていたりして、あらゆるもののために働き、小さなことに感謝するということを知らないの。

だから私の人生は歓びに満ちているのよ。小さな物事が、本当に単純なことが、幸福と充足と満足感とでいっぱいにしてくれますからね。外側から与えられることを待ってはいないで、内側から作り出す。そうしなければならないの。皿を洗わなければならないのと同じように、これをやらなければいけない、あれもやらなければいけない、そして幸福にもならなくてはいけないの。だから私は幸福なの。何をやるにしても、上手くいかせるために、自身の全てを捧げるのよ。

私にとって「仕事」は、目標を達成する助けにもなる

――そうですか、責任感とあと……。

カルメン:正確にやるということね。神は細部に宿るの。母がその教訓を教えてくれたから、子供の頃からわかっていたわ。

――舞台芸術に携わり、バレエを少しやったことであなたは……。

カルメン:身体的、精神的な調整と鍛錬はありますが、情熱があったわ。やらなければならないことではなかった。バレエは私自身が選ぶことができ、「これをやりたい」と言えることだったの。私の人生では、起きること全てに素晴らしいという意識を持ち、参加し、貢献し、向上するために最善を尽くしてきたわ。そして周りの人の反応から、自分の成長がわかったのよ。

そうして高い基準を持つことを学んだの。私にとって「仕事」は汚い言葉ではなく、目標を達成する助けになるものよ。今もそうで、終わることはないわ。1年ほど病床についたことを、乗り越えなければならなかった。母が私をかわいそうに思って、連れ出しました。ニューヨーク大学で芸術を学ぶ奨学金を得られたの。お金がないなか、奨学金を取ってくれた母は素晴らしい人だったわ。

私は小ぎれいな子供で、十分魅力があったの。外から見ると、美が私の人生のパスポートと言わざるを得ないわね。でも、もちろん、自分自身は内側から外を見ているので、流れで何が起こっているかを、本当の意味で理解はしていなかったの。だって、そういうことを考えるようになった時には、何がかわいらしいかという感性や、どんなふうになりたいたいかということについて、他の子供の考えと変わらなかったもの。

モデルのキャリアという事が起きるまではそうは考えていなかったわ。自分自身のことを。

――初めてのオーディションに行った日のことを覚えていますか? 誰かにスカウトされたのですか? それとも?

カルメン:57番通りを横切るバスに乗ってたら、カメラマンの奥さんが私と同じ停留所で降りた。57番通りと3番街の交差点だったわ。

――道まで覚えているんですね。

カルメン:そこにあった、今はなきすべての街角と建物を覚えているわ。カメラマンの奥さんが、お母さんに、この住所まで連れてきてもらいなさいと言ったわ。それで母は、57番通りね。何の用なのか行ってみてもいいわ、と言いました。彼女は、夫でカメラマンのランズホフが、私の写真を撮りたがるだろうと思ったの。ランズホフは「ジュニア・バザール」で仕事をしていたわ。

――それは何ですか? 雑誌でしょうか?

カルメン:当時若い人向けのものがあった「ハーパーズ・バザール」のようなものよ。私は背中の真ん中まで届くロングヘア―で、今でもあるように、ただ髪を下ろしていたの。当時は、それが斬新だと思われたのよ。

何事も繰り返しで、全く新しいものなどないのよ。わかるでしょう、その時代や世代がどう再解釈するかなの。再解釈して、自己を投影するために身に纏うもので関心を引きつけることこそがファッションのすべてなの。なぜなら、私たちは目を主に使って人と出会うから。目で見て、それから、声を聞いたり、他の要素を使って、相手が何者であるかを判別するのです。

でも、「ハーパーズ・バザール」の写真は上手くいきませんでした。母は「バザール」からカルメンは魅力的な子だという、親切な手紙を受け取りました。ただし、現時点では写真映えはしない、カルメンが成長したらもう一度やってみましょう、とありました。そうして私は、望みを持たないことを学んだの。想像すらしなかったことで興奮しすぎて、失敗したから。写真映えがしないというのが、自分とは関係ないということがわかりませんでした。ただその時の事情だったの。

モデルの仕事で“大人”がどんな感じか知ることができた

――そう言われて、モチベーションになりましたか? それとも悲しくなりましたか?

カルメン:悲しくなりました。ニューヨーカー誌の有名な風刺画作家の代父と、7歳の時に合った代母の2人は人生の動力源だったの。2人はもうこの世にはいませんが、風刺画の歴史と2人の遺産を存続させるために、私は小さな基金を運営しているわ。このグレゴリー・ダレッシオは「いや、彼女はそんなに醜くは見えないがね」と言ったわ。

周りが言う小さなこと、言葉というのは本当に力強いものよ。その頃は、父がそばにいなかったものですから、その言葉がとても重く感じられたわ。彼はこう言いました。キャロルに聞いてみようと。誰だったか、彼の家にいた女性と、カール・サンドバーグと、他に誰だったでしょう? ゴメス……みんなの名前を忘れてしまっているわ。なんてことでしょう。

――大丈夫ですよ。

カルメン:毎週日曜日、ギターコミュニティは、アンダーソン プレイス8番地で集まったわ。カール・サンドバーグ、それと誰だったかしら? 有名で、歴史に名を遺した彼らは、ただただ優しい男たちで、ギターを弾き、私を邪魔にならないよう、胡坐をかいて座らせてくれたの。素晴らしい音楽を聴いたわ。あれは昔でいうサロンだったわね。才能がある人びとが集まり、古典的なギター音楽を奏でていた。

誰かの連れの女性がいつもそこにいて、この女性が雑誌「ヴォーグ」のライタースタッフだったの。彼女は、カルメンはとても写真映えがするだろう、カルメンを「ヴォーグ」に連れて行く、と言ったの。ちょっと……。

――休憩してください。……それで、私たちが話していたのは……。

カルメン:キャロルよ。それと、セゴビアとカール・サンドバーグ。彼らはこの家に住んでいて、ある時期お金がなくて、お互いに助け合っていたの。彼らは芸術の世界への偉大な貢献者だったわ。テリー・ダレッシオは「ティナ」という連載漫画を持っていたわ。彼女は私の少女団の相談役だったの。私が7歳の時、そうやって私たちは出会ったの。この人々は私が人生を通じてずっと関わってきた人々で、私を導く原動力となった人々だった。私を、じゃなくて私の人生を、だわ。

私はレキシントン街の480番地に向かって、ローラースケートで行ったものよ。キャロル・フィリップスは 「コンデナスト」で常勤ライターをしていましたからね。キャロル・フィリップスはその後クリニークの社長になって、ベニー・グッドマンと結婚したわ。そう聞けば、この頃の文化レベル、文化交流のレベルがわかるでしょう。

――つながりですね。

カルメン:つながりね。私には1人女友達がいて、どうやって出会ったんだったかしら……バレエ教室で出会ったのよ。彼女は1人余ってて、名前はビビアン・ビアソッティといったわ。それまで私には同じ年頃の友達はいなかった。

ビビアンと私は5セント銅貨1つで地下鉄に乗り、修行中の若い神父たちを見るために神学校まで行ったりしたわ。私たちの奔放さは大体その程度のものだった。彼女は煙草を吸っていたけど、私は吸わなかった。1度も吸ったことはないわ。そうして、カメラマンたちと会うことになったの。この建物の中にはホルスト、ペン、ジャッフェ、ペンなどたくさんのカメラマンたちがスタジオを持っていたのよ。

私を雇ってくれる人もいたわ。私が最初にモデルを務めたカメラマンはクリフォード・コフィンだった。彼はあまりに早く亡くなってしまったから、もう長いこと忘れられてしまっているわね。でも彼の写真は、生きている間はずっと雑誌に載っていたわ。

私がコフィンと仕事をした最初の日、他のカメラマンがふらっと入ってきて、「お、若い子がいるね」なんて言っていたわ。言っておかなくちゃならないけど、私は体重が90ポンド(約40キロ)で、身長は5フィート9(約175センチ)だったの。コートかけみたいだったわ。私はとても不健康だった、足りないものがあったから……背は高くなっていたけれど、子供時代の普通の人間関係がなかったの。

こうした大人の男性たちを、遊び友達の代わりのように見ていたわ。私の望む父親、おじ、兄のようにそこにいてくれたし、彼らと接することで私は形作られたの。ひとたび私がクリフォード・コフィンと仕事をしているのを見て、指示に従えることがわかると、彼らは「おお、彼女を撮ってみたい」と言ったわ。セシル・ビートンとかね。

「コンデナスト」ではそれだけだったけど、それから10年話を進めると、14歳から24歳までで「ヴォーグ」を卒業して、「ハーパーズ・バザー」に移ったわ。その頃、モデルは1つの雑誌でしか仕事ができなかったのよ。そういうルールだったのね。

この仕事で私は、大人のように振る舞うことができたわ。大人ってどんな感じか知ることができた。なぜなら周りは、私を大人のように扱っていたし、マキシミリアンのファーコートとデセイのロングイブニングガウンを着ていたしね。私は自分で髪をセットするのがとても上手だったのよ。これくらい長い髪でね、あの頃は。

人間というのは、いつも奇妙な存在だった

――最初の頃はそもそも仕事という感じがしていたんですか? それともただ……?

カルメン:もう、まったく仕事ではなかったわ。時給は7.5ドルだったの。母と私は、ようやく3番街の900番地、サードアベニュー・エル(高架鉄道)が見える部屋に落ち着いたのね。そこは冷たい水しか出ないフラットだったけど、暖房はあったわ。近代化された建物だった。私たちは最上階に住んでいたの。よく窓から身を乗り出して、道行く人々を見たりエルを見たりしたわ。最高の気分だった。

私たちはやっと母がどうにか支払えるくらいの場所を見つけることができたの。それまでは、月30ドルの家賃を捻出するために2ヶ月に一度はミシンを質屋に入れなければならなかった。いつも何ドルか足りなかった。2セントもらうために瓶を店に返すのはとても重要なことだったわ。1セントだって無駄にはできなかった。お金がなかったから、私はお金がどれほど大切かよく知っていたわ。

里親のもとで暮らさなければならない時期もあった。その頃の仲介業者は子供の福祉に気を配っていなかったのね。そうでなければ、私の人生に関わった多くの人々は刑務所に入れられていたでしょうから。基準が違っていたのよね。

――昔も今も、それとも時と共に形作られたのかもしれませんが、あなたがカメラマンと仕事をする時の、あの化学反応を起こすような関係には何が重要なのですか? わかりやすく教えてください。

カルメン:そうね、一緒に仕事をしたすべての新しいカメラマンとの間にあった関係は、私にとっては、確認よ。この知らない人は誰なのか、私が思う彼らはどんな人なのかを体験し、見て、感じていたの。そして、私が正しく彼らを満足させることができたかどうか…つまり私が彼らの言うことを聞けたかどうかを。

それは言葉による指示だったり、動きによる無言の言葉だったり、他のほんのちょっとしたことであれ……例えば、セシルはあまり多くを言わなかったわ。彼はカメラに触れもしなかった。シャッターを切らなければならなかったアシスタントに向かってそれをしていたわね。

みんな自分の仕事の仕方を持っていたわ。それで、人間とはそれぞれこれほど違うんだということに気がついたの。人間というのは、いつも奇妙な存在だった。なぜならみんながあることを言っていても、やっていることは違うということに子供時代に気がついたから。

だからみんな嘘をついているっていうことを知ってたわ。それを口に出してはいけないことになっているけれど。嘘と真実の間にある、現実に存在する方法を見つけ出さなければいけないのよ。つまり、嘘をつくか、真実を話すか? それを見出さなければならないの。

この芸術の世界にいることは、すばらしいことだったわ。生み出された作品に対する真実であったから、私は解放された。それは写真であり、私はその一部。私がその写真に責任を負っていたわけではないけれど、貢献できたことは嬉しかった。本当にいい気分だったわね。自分では思いつきもしないことだったから。私の体つきは自分の好みではなかったの。もちろん映画スターたちの体つきがよかったわ。

その頃は土曜日の映画が流行りだったから、2本立てで夜までずっと座り続けるの。同じ2本立てを2回繰り返して見たものよ。おばさんが子供席を締め切って私たちみんなを家に帰らせるまでね。

――以前、自分自身を無言の女優、カメレオンであると表現しているのを聞いたことがあります。多くの違うバージョンのあなた自身を持っていてそれを身に着けているのでしょうか? それともそれは毎回違っているもので、あなたはただ、同じ情熱を持って取り組んでいるという感じでしょうか?

カルメン:あら、もちろん同じ情熱を持っているわよ。退屈だと思ったことは一度もないわ、だっていつも違っているから。それはいつも、物事がどう成り立っているかに関わる人間の本質について、何か違うことを理解する助けになったわ。当たり前だけど、母のクローゼットにいるよりはましだった。母は仕立て屋をしていたの。それで私も裁縫ができるようになったのよ。母とは好みが違っていたわね。シンガー社のミシンは私の親友だったわ。それとヴォーグの型紙ね。

何でも店で買うようになる時代は、まだまだ先のことだったわ。すべて、救世軍で見つけたものばかりだった。はさみを入れてコートを作るのに十分な大きさのブランケットを1ドルで手に入れたりね。創造的なやり方で倹約する方法を学んだものよ。