日本の最東端、北海道根室市の現在

藤野英人氏(以下、藤野):それでは、鼎談を開始したいと思います。私の話はなるべく少なくしますが、1つだけお話をしたいと思います。2週間前、北海道の根室市に行ってきました。行かれたことある人います?

(会場挙手)

藤野:2人、3人ぐらいですかね。根室はどういう場所かというと、本土の最東端なんですよ。“とうたん”は“お父さん”って意味じゃなくって、“東の端”という意味です。最東端ということなんですが、納沙布岬(のさっぷみさき)というのがあって、そこが一番東の端なんです。

それで、実は最東端ではなくて、最東端には北方四島があるわけです。ソ連に取られたと。「俺たちの領土である」ということなんですが、実効支配している最東端が納沙布岬になりまして、そこに行ったんですね。

なぜかというと、北方領土が返るとか返らないという話をしているじゃないですか。僕らは投資という面ですごく大事なので、向こうに仕事を作って、「1回現地で見てみよう」と。それで、どういう話をしているんだろうと見てみました。

納沙布岬に行くと、北方領土返還の碑が建っているわけです。またそこに北方領土が見える望郷の塔が建っているわけです。そこに北方領土返還の碑というガス灯みたいなものがあるんですけど、日中に行ったらガス灯が消えているんですね。

さらに、そこでのぼり旗をいっぱい立てて、「北方領土返せ! オー!」みたいなことをやっていると思ったら、シーンとして誰もいませんでした。

実際に行ってみたら、駐車場にも誰もいなくて、私たちのレンタカーしかないという状態で、まったく返ってくる気がしないという雰囲気でした。実際にそこに行くと、北方四島ではないけど、歯舞・色丹(島)の先端がチラチラっと見えるような場所でした。

北方四島に対する住民の感情

その後、そこの地域の人とお話をする機会があって、懇親会というか、ごはんを食べて、いろいろ話を聞きました。そうすると、やっぱり根室というところは、北方四島から逃げ帰ってきた人たちがいて「国後にいました」とか、「歯舞にいました」という人たちがけっこう残っている町です。

ところが、それは70年前の話なんです。70年前というのは、その時0歳だった場合で70歳ですよね。10歳だった場合は80歳です。実は、昔そこに住んでいた記憶を持っている人はほとんどいないんですよね。

だから一番最初の記憶というのが、けっこう75歳、76歳ぐらいの人で、漁船に乗って命からがら逃げたという光景を、人生初めての風景として覚えているという人が多いということなので、「帰りたい?」といったら、もう帰るイメージもないわけですね。

ずっと根室に住んでいて、やっぱり根室が生活の場だから、北方四島に帰りたいという人がほとんどいないことがわかる。近いという意味では切実な問題なんだけれども、「住みたいか?」というと、住みたくないんですね。

さらに、もっと寒い、さびしい、誰もいない島に帰りたい人はそもそもいないということがすごくわかる。かつ、そこで話をするのは、やっぱり6割か7割ぐらいが漁業関係者なので、「やっぱり漁業権は戻ってきてほしい」と。

周りはロシアの海なので、自分たちが漁をしようとすると、そこに使用料を払うというところがあるので、やっぱり(北方四島に)戻ってきてほしいというのが切実な問題としてあるんです。とくに今年はサンマが不漁だったというので、根室の町が沈滞しているんです。

ところが、すごく微妙な心理で、ものすごく返ってきてほしいから、みんな「返らないだろう」と言っているんです。なぜかというと、期待して裏切られた時の気持ちがつらいから。

本当は気持ちで「返ってほしい」と思うけれども、「どうせ返らないんだ」とも思っていることが、町に行くとわかります。 そういう町の気分とか、そういう人たちがあって今の北方領土の交渉があるというところがあると、「どういう交渉になっていくのか?」というところはイメージが湧いてくるし、肌感覚でわかることになります。

だから、「根室に行って何がわかるんだ」「行ったって別になにもないし、そこで話をしたってなにも意味はないだろう」という話もあるんだけれども、やっぱり現場に行く意味はすごくあるんじゃないかなと思います。だから、「日本は狭い」と言うけど、けっこう南北に長くて、意外に広いんですね。地方から地方はめちゃめちゃ遠い。

東京からは行きやすいんですけど、地方から地方は東京を介在したほうがいいぐらいのところなんです。だから、そういう面で見ると、日本は意外と広くて、移動するのにも時間がかかるということがわかるんじゃないかなと思います。

そういう中で、地方と東京の両方ともに住みながら、お仕事をされてるお二人にそれぞれお聞きしたいと思います。

地方に“ベンチャー精神”は根付くのか

まず最初に、藤堂さんにお聞きしたいと思います。「もともと東京で仕事をしていて、呼び戻された」ということでした。

一番最初、「自分たちの会社がそれほど士気が高い状態ではなかった」ということがありましたが、最初に東京から地方に行ってどんなふうに思いました?

先ほど「都落ち」という話もいろいろあったんですけど、「つらいなあ」「暗いなあ」と思ったのか、それとも「チャンスがあるな」と思ったのか、どんな心境だったのでしょうか?

藤堂高明氏(以下、藤堂):最初の第一印象は、奈良というと、みなさんもご承知のとおり、緑が豊かで「最高だ」「癒される」と思いました。

ほとんど車で移動するんですけど、やっぱり東京で働いている時は、ほぼ電車とか地下鉄だったので、車が必要なかったんですね。

「こうやって車を運転して、緑を見ながら、仕事を兼ねて癒されるなんて最高だ」と思いました。ちょっと都会で疲弊していて、もうボロボロになっていたので、「ありがたい」と思いましたね。

藤野:私もけっこう行く機会があって、奈良ってやっぱりちょっと独特ですよね。山の稜線がわりと緩やかな感じで。もちろん南のほうに行くときつい稜線があるんですけど。それで田んぼが広がっているので。いろんな地域を回るんですけど、あそこ行くと癒やされる雰囲気がありますよね。

もともと、こういう褒め言葉とけなし言葉があって……「大阪、食い倒れ」「京都、着倒れ」着るのが大好きですね。それから、「神戸、履き倒れ」靴ですよね。そして、「奈良、寝倒れ」と言ったりする(笑)。

藤堂:初めて聞きました(笑)。

藤野:ただやっぱり、ビジネスをする時に、「100億を目指すんだ」「急角度で行くんだ」「より前向きに」というところがあるので、あの奈良県の雰囲気の中で、どのように意識改革、もしくは仲間を集めるのかというところで、苦労されたことはありますか?

社員の争いと後継者難の解決策

藤堂:そうですね……人を変えるって難しいですね。ですから結局、自分が変わるしかないのですが、人が変わらないと事業も変わらないので。

私が思ったのが、自分の会社の中の出来事が小さなコップの中での争いに見えたんですね。「ちっちゃいなあ」と思いました。それで、このコップの中がすごい濁ってるわけです。もう真っ黒(笑)。

でも例えば、仮にその器がプールぐらい広かったら、もう馴染んでしまって目立たなくなるなと思いまして、会社の器を大きくすることで、そういった小さなことで生じてた争いも解消されるんじゃないかなと思いました。

お話を聞かれた方は、「そんなに赤字事業があるんだったら、閉鎖したらいいじゃん」と思うと思うんですね。ほとんどの社員が車関係で、不動産をやっていたのは父1人でしたから。

はっきり言えば、自動車部門を閉めてしまえば7,000万円浮いたといったら、もうその日から年収7,000万取ってもよかったはずなんですけれども。

私は当時30歳で、決算書も読めないまま地元に帰りました。それで地元の会計士の先生に、「君じゃできないよ」と言われてくやしい思いをして、「だったらやってやろう」と目覚めたわけなんです。

ですので、それを1ヶ所で解決することは最初から考えていませんでした。まずは大きくしよう、多拠点化しようと。

1つの工場で人数を増やしても、ケンカが増えるだけなので、拠点を増やそうというのは当初からありました。

あとは“後継者難”がありました。やっぱり実際に戻ると、「息子さんどうしてるんですか?」と言ったら、うちの父親と一緒で、「こんな車屋継がしてもしょうがないから、大学出て東京で勤めてるよ」とか、「大きい会社に入って……」という人が多かったので。その人たちは当時50歳だったのですが、「これは10年後は大変なことになるな」と。

整備ができるから整備工場を継げるというわけじゃなくて、経営ができないとダメなんです。社員さん、メカニックの人を経営者にするのはなかなかハードルが高いので、「これは経営者が圧倒的に不足するぞ」と思いました。

そこで「じゃあ、10年後にゴールデンタイムが来るから、そこに向けてがんばろう」とい考えて、社内で起こるいろんな問題も、「これも将来のための重要な経験だ」と思うようになりました。

メディアの報じる“地方の現実”に思うこと

藤野:藤堂さんの場合は事業の継承型なんですけど、実際はビジネスの中身をブラッシュアップしてクリエイトしたということで、継承型でもあるけれども。けっこう初代の要素も強いところがあると思うんですね。

丑田さんは初代で、ハバタクという会社はお父さんから引き継いだわけではなく、創業者だったというところで、多拠点の1つの拠点を秋田にしたというケースですね。 実際に世界をいろいろ回られて、先進国から発展途上国まで回って、今度は秋田に行ったわけですよね。秋田に一番最初に来て、そこの人たちと接した時の感想というのは、どのように思いましたか?

丑田俊輔氏(以下、丑田):最初に五城目に行って、やっぱりみんなで(酒を)呑むわけなんですけれども、地元に日本酒の伝説みたいな店があって、地元の酒蔵の酒をみんなで呑みながら、地元の公務員の方が「あの人呼んどこう」って何人か呼んでくれて、話していると、みんな思った以上に地域とか自分の地元が好きなんですよね。メディアではいろいろ言われているけど、「自分の子供たちのためにいい背中を見せたい」とか、「まだまだやれることはあるんじゃないか」と。

それを実行してるかというと、またあれなんですけど、そういう話をされている方が本当に多いなと感じました。地方消滅とか人口減少というと、すごくネガティブな田舎の商店街の風景がバッと出てくるんですけれども、実際に中に入ってみると、そんなに不幸かというと必ずしもそうではなくて。みんなそれなりに楽しく幸せに生きているし、すごく思いも持っているなと思いました。