子供時代、地元の将棋大会で予選落ち

孫正義氏(以下、孫):羽生さんはどうでしょうか?

羽生善治氏(以下、羽生):「登る山の決め方」ということで、私自身の場合は、最初に将棋に出会ったのは6才の時なんです。ただ、別にそれで将来を決めようということではなくて。野球やったり、サッカーやったり、ラジコンやったり、ダイヤモンドゲームやったり……。私が子供の頃にいわゆるよくやる遊びの中の1つとして、たまたま将棋があったと。

親は、実は将棋は指さないので。毎日遊びに行ってた同級生の友達がいて、その友人が「将棋やろう」ということで。ただ、最初は金4つ振って回ってやる回り将棋とか、歩を横に並べて取ったりするはさみ将棋とか、駒を使って遊ぶものとして、将棋に出会ったんです。

しばらくして、その友達とは将棋はやらなくなって、違うことで遊んでいたんですけれども、半年ぐらいたって、地元で子供の大会があるということで出かけて行って。その友達には勝てるようになっていたので、「そこそこ将棋は強いのかな」と思って行ったら、もう簡単に負かされて。

:負かされたんですか?

羽生:そうです、はい。

(会場笑)

予選落ちしました、すぐに。1勝2敗です(笑)。

:予選落ち(笑)。

羽生:しました(笑)。初めて、そこで道場というものを知ったんですね。将棋のクラブ、道場があると。普通は段とか級とかがあって、最低の級が8級なんですけれども。席主の人が、私があまりにも弱いので「8級じゃ無理だから、15級ぐらいで始めたらいい」と。

:(笑)。

羽生:15級で始めても弱すぎて、たぶん最初の1〜2ヶ月間はまったく勝てなかったんです。

:そうなんですか。最初から僕、強かったのかと思ってた(笑)。

羽生:いや、最初はすごく弱かったんです。どうして私が将棋の道場に通っていたかというのは、1つ理由があって。それは、町から少し離れた場所に住んでいたので、週末になると家族で町に買い物に出かけるんです。それで、子供がずっとついて回ってると買い物するのがいろいろ大変なんで。3時間とか4時間とか買い物してる間に、私は将棋道場で将棋をいっぱい指して。

:(笑)。

羽生:買い物が終わった頃に迎えに来て、帰って行くというかたちだったんですね。ですから、もうその3時間とか4時間とかの間に、できるかぎりいっぱい将棋を指して。それで1回、初めて勝った時に、席主の人から15級から10級に上げてもらった。もともと8級からしかないので、いきなり5段階も上げてくれて(笑)。

(会場笑)

「ほかの人と違う山を選んだ」「でもいくしかない」

それから「やっぱり将棋はすごくおもしろいな」ということで、熱中して続けていったということがありました。ただ、将棋のプロになるというのは、(新進棋士)奨励会という養成機関、養成学校に入らないといけないんですけれども、通常は10代の時に入ります。私のキャリアというか、師匠のところに入門したのが、小学校5年生の11才の時なんですね。

その時に「じゃあ、これで棋士を目指そう」とか、「名人になろう」とか、「タイトルを取ろう」とかいう、そういう志とかは、小学校5年生なんでまったくなかったです。ただただ、「好きな将棋を続けていけたらいいな」という、そういう気持ちで入りました。

ただ、奨励会というところに入ると……。今まで、道場とかだと6才ぐらいの子供から年配の人まで、幅広い人たちが対局をしていて。もちろん勝負はつくんですけれども、和気あいあいとしてるんです。ただ、プロを目指す養成機関に入ってしまうと年齢制限というものがあって、ある一定の年齢になるまでにある一定の段をとらないと、辞めないといけないと。

:厳しいですね。

羽生:だから、ものすごくお世話になった先輩の人とか、同期の人とか、どんどん去っていくんです。中学1年生ぐらいの時でも、遊び半分というと語弊があるんですけども、気楽な感じで行ってても、そういう本当に真剣というか、真面目に打ち込んでいる人たちがいて。実際、そういう人たちが去っていくという姿を見ると、やはり「これは一生懸命やらなきゃいけないな」、「本当に真剣に努力してやらなきゃいけないな」ということは思いました。

プロになったのが中学3年生だったので、学生なんですけど社会人というところで、すごく私は印象的なことがあって。15才とか16才とかでプロになって、それで対局は夜遅くまでなるんですね。例えば夜の12〜翌1時ぐらいまでなって、そこからまた感想戦みたいなものを行って、夜中の3時とかそういう時間帯に、10代の時でもなったりするんです。

もちろん、もう電車とかなくなっているので、最後というか、始発が出るぐらいの時間帯になって、電車に乗って、バスに乗って、家に帰るんですけど。そうすると、帰ってくる時に、たくさんの人たちがこれから通勤とか通学とか、道を行くわけですね。私はその反対方向を帰って行くという時に、「完全に道を踏み外した」という感覚が(笑)。

(会場笑)

「ほかの人とまったく違う場所の、違う山に登り始めてしまったんだな」ということを痛感した瞬間だったんです。ただ、もうそれは自分の意志で選んでしまったので、「それはそれでいくしかない」ということも思いましたし。あと、こういうことも実はよく思ってたんですけど。例えば、高校生ぐらいの時だと、これから先、進学をするのか・働くのか、さまざまな進路があって。

けっこう周りの人たちはみんな、ここを真剣に悩んでいると。私はその悩んでいる姿を見て、「すごくいいな」とか「うらやましいな」と思ってたんですね。つまり、(自分は)その高校生の時点では進む道は決まってて。もちろんそれは後悔してないんですけれども、なんか「そういうことを悩んだり、迷ったりすることはしたかったな」という気持ちは持ったりしました。

「ほめられる」はすごいエネルギー

:なるほど。本当に3人ともおもしろいと思うんですけども、やっぱり印象的なのは、3人ともここまで立派になられたそのプロセスの中で、やっぱり落ち込んだりしたこともあった。「実験して失敗したから興奮した」「芸術家になるつもりがあった」とか。

でも僕、思うんですけど、ほめられるということは、ものすごいエネルギーになってるような気がしますね。僕自身もそうですけども、やっぱりうちの父親がもう「超」のつく、「超々」がつくぐらいの親バカなんですね。それでもう、おそろしくほめるんですね(笑)。

5〜6才の時からなんか1つしたら、それだけで。しょうもないことなんですよ、「1+1」と言って「2」と1回言ったら、それだけで「うわーっ!」と。もうイスから……。

(会場笑)

イスから転げ落ちるようにして、「お前は天才だー!」と(笑)。「うわーっ!」と言うわけですね。今思えば、極端に……、表現のしようがないんですけど。でも、それを心の底から言ってるんですよね。そうすると、親にほめられるということはやっぱりうれしいから、「もう1度その喜びを感じたい」といって、そこへの(頭を指して)これが、脳の快感がより強化されていくんだろうと思いますね。

だから「難しい実験に失敗した」、そこから「なにくそ!」ということで、成功した時はやっぱりものすごいうれしいわけでしょ? 失敗した時以上に。

山中伸弥氏(以下、山中):本当に、まさにそのとおりで。ほめられるといいますか……。さっきの僕の最初の実験が正反対。それで、その予想を立てたのが僕じゃなくて、僕の先生なんですね。要は、だから、その先生の言ったことがまったくウソで。

:(笑)。

(会場笑)

山中:ウソというか、まったく逆だったんですが(笑)。それで、僕はすごく興奮したんですが。僕が非常にラッキーだったのは、その先生がもう本当にすばらしい人で。自分の結果が正反対、普通だったら怒り出してもおかしくないのに、その先生は僕と一緒に(両手を上げて)「おー、おもしろい!」と言って興奮してくれたんです。

(会場笑)

それが、もし自分だけが興奮して、その先生がシラッとしてたら、「あ、俺は変わってんのかな」で終わったのかもしれないですけど(笑)。

:(笑)。

(会場笑)

山中氏「そもそも実験は成功率が低い」

山中:一緒に喜んでくれた。それは日本の話なんですが、アメリカにその後行った時も、そのボスの仮説を試すために僕は実験したんですが、それもまたぜんぜん違うことが起こって。その時も僕は興奮し、その先生、アメリカの先生も一緒に喜んでくれたんですね。

だから、エンカレッジメント(encouragement)といいますか、あれがなかったら、もう研究していなかったかもしれない。研究はやっぱり、けっこう失敗のほうが。

:失敗のほうが多いですよね。

山中:はるかに多いので。野球だと、イチローさんとか3割打てば成功、4割打ったら超スーパースターなんですけど、よく考えたらイチローさんでも6割はヒット打てないわけです。実験というのはもっと成功率低くて、たぶん平均だと1割以下。もう2割、要するに10回やって2回成功したら、もうすごい人で。3割とか言われ出したら、「お前、大丈夫か?」というような(笑)。「なんか悪いことしてないか?」と(笑)。

(会場笑)

それぐらい、ほとんど失敗ですから。その失敗の時にエンカレッジしてくれる人、そして、成功したその1割の時に一緒に喜んでくれる先生、この存在はもう本当に。これがないと、この研究というのは……。(五神氏に向かって)ね、先生。僕と五神先生は研究者なんですけど、やってられないと思いますね(笑)。

:やっぱり五神先生も、成功した時はものすごくうれしいわけですか?

五神真氏(以下、五神):そうなんです。今思い出すと、修士の1年の時に毎日、ある与えられたテーマの中ではあったんですけど「そこでどういう新しい実験をするか?」と、ずっと考え続けてたんですね。ある時、ぜんぜん違う先生の講義を聞いていて、それをヒントに授業中に思いついた実験があった。それを自分でやってみた。

まだ修士の1年ですから、実験はヘタなんですよ。ところが、その自分でデザインした実験がうまくいったんですね。それで、ものすごく興奮して。実はそれがあまりにも興奮したので、結局、私はそのテーマで博士も取ったんです。

今から思うと、これ、完全なるビギナーズラックで(笑)。まだよちよちですよね、実験者としては。そのヘタな実験にもかかわらず、きちんと思ったとおりの結果が出るというのは、いくつものラッキーが重なってたんです。

だけど、それにたまたま出会ったことと、それを自分自身で思いついたという興奮があったから、研究のおもしろさにグッと引き込まれた。それがなかったら、たぶん私はここにこうしていないと思いますし、ぜんぜん違う人生を歩んでる可能性が高いと思いますね。

「わかった!」のために時間を費やすことは苦じゃない

:やっぱり興奮。脳が興奮するというのは、やっぱり強烈なエンカレッジメントですよね。羽生さんも最初弱かった、負けてばっかりで。でも、その最初に勝った時とか、やっぱり興奮したわけでしょ?

羽生:そうですね。というか、どうやって将棋が勝てるかということをそもそも知らなかったんで。

:(笑)。

羽生:もちろんルールは本読んで知ってたんですけど(笑)。「こうやったら詰んで終わり」というのは、やっぱりかなり何ヶ月も経たないとわからなかったというところがあります。

ただ、その10代の時にすごくそういうので強烈だったことは、将棋の世界だと、江戸時代に作った詰将棋の問題集、難しい問題集が200題あって。それを基礎的なトレーニングとして解くというのが、よく練習であったんですね。これが一番短いので11手詰、一番長いので600手ぐらいかかる詰将棋なんです。

:すごい(笑)。

羽生:とにかく1日で1題解ければ、まあラッキーで、1ヶ月解けないとかいうのはザラで。

:1ヶ月解けないの?

羽生:1ヶ月解けないのはザラなんですね。たぶん200題解くまでに全部で7年ぐらいかかってるんですけど。どうしてそれを続けられたかというと、それを解いた時の手順の芸術性がすばらしいんですね。

:ああ。

羽生:よくこんな作品を作り上げた。つまり完全な作品として、しかも江戸時代なんで、はるか昔の人たちが作り上げたなという。その精巧さとか、よくこういうアイデアとか発想を、ちゃんと1つのルールの制約の中に作ったんだなというのが、ずっと続いてきて。

時間帯としてはたぶん、「すごく苦しい」「葛藤してる」「なかなかわかんない」という時間が、たぶんほとんどの時間がそうなんですけど。最後の「これが解けた」とか、「わかった」とか、その作品が本当にすばらしくて芸術性の高いものだとわかったという、ほんのわずかな、ほんのちょっとした時間のために、それ以外の時間を費やすことも苦にならなかったということがあります。