是枝氏が映画監督を志した経緯

別所哲也氏(以下、別所):改めまして別所哲也です。今日はあえて映像作家と呼ばせていただきますけど、みなさん是枝さんのお話を聞きたい、映像作家を現在進行形で志している人、実際に手掛けて悪戦苦闘している人をお呼びしてお話を進めてきました。是枝監督、おつかれですよね?

是枝裕和氏(以下、是枝):いや大丈夫ですよ。

別所:数々の国際映画際を旅されて帰国直後にこうして参加してくださっているんですけど、今まで長い間1作品1作品クリニックするように観ていただいて、振り返ってみてどんな感想をお持ちですか?

是枝:バリエーションも非常にさまざまですし、クオリティも高い20本だなと。僕自身にとってもおもしろい経験になっています。

別所:そうですか、たぶん参加されてみなさんもこんなに1本1本親身になってお答えいただけることを、予想していた人もいると思いますけど、質問にも1つ1つ時間を押しても答えていただいて。

ここからは「Road to the World」というタイトルに表されているような、監督が世界でも認められて世界中の人を魅了している映像の世界を、どんなふうに作られていったのか、是枝監督自身にも迫っていきたいと思うんですけど。

この話もよくどこかで聞かれていると思うのですけど、なんで監督は映画監督を志したのか? いま改めてもう一度。

是枝:いつ志した? さかのぼって整理すると喋れるんだけど、だいたいウソだよね。

別所:(笑)。

是枝:ウソでもよかったらしゃべりますけど。

別所:(笑)。ウソでないところを。

是枝:大学には小説家というか物書き、文章で飯を食っていく人になろうと思って入ったんですよ。早稲田の第一文学部というのを選んで。でも大学がつまんなくて。なにかを教えてくれるんじゃないんだとすぐ気がついちゃったの。むしろそれ以外に第二外国語で中国語をやらなくちゃいけないとか、一般教養をたくさん取らなくちゃいけないとか、しかも出席とるのかよ、みたいな。大学なのに。

大学ってもっと好きなことだけやっていられる場所と時間だと思っていたのに、意外とそうじゃなかったから、行くのが面倒くさくなっちゃって、行かなくなっちゃった。

それでどうしようかなと思ったら、早稲田の周りには映画館が山ほどあるから映画館で時間をつぶすようになり、もともと映像は好きだったから、じゃあ脚本にしようかなと思って。

別所:小説や物書きではなく脚本に? 

是枝:そこは自然に移行したんですよ。当時の映画監督といえばイメージとしては黒澤明だったから、高いところからメガホンで怒鳴っているってイメージしかなかった。あれは自分には無理だと思ったんですよ。だから「脚本というかたちでだったら、映画とかテレビドラマに参加できるかもしれない。1人の作業だし」ということでまずは脚本家をめざしました。そこからです。

「この仕事おもしろいかもしれない」と思った瞬間

別所:そこから映画監督になるというのは就職されてからですか?

是枝:就職をどうするか考えた時に、とりあえず映像の現場に潜り込んで、でもその時点で将来的にたぶん監督業ってのも視野に入っていたから、制作会社を選んでいるんだよね。でも当時は大人のつもりだったけど24・5歳の男が考えてることなんて大したことじゃないね(笑)。

別所:(笑)。

是枝:大した覚悟があって映像をやりたいって思ってたわけじゃないと思いますよ。僕。

別所:いいですね、赤裸々に本音で。

是枝:だからそれは制作会社に入ってテレビに関わり始めておもしろいなと思ったのが1つ。それでしばらく映像の現場で学ぶことは学んで、っていう意識に変わったのは26・7歳とかじゃないすかね。

別所:じゃそのあとギアがガチャっと入るというか、外的要因かもしれないし、自分からなにか求めて映像作家に向かっていったのかもしれないけれど。

是枝:テレビのドキュメンタリーを自分の企画でやり始めたのが28歳なので。自分の書いた企画が局に認められて通って予算がついて全部自分でやったんですよ。プロデューサーもディレクターも編集も取材交渉も全部自分でやって、ジャスラックの許可申請までして、みたいな。

ということで1本番組をつくったのが28歳で、その経験が大きかった。おもしろかった。初めて自分の仕事がおもしろいと思った。

別所:垂直に0から100まで全部やったってことですよね、始めから最後まで。

是枝:それまでは大学を出てすぐテレビマンユニオンという番組制作会社で働いていたんだけれども、まあ人間関係が上手くいかなくて。それでもめて喧嘩して休んだりいろんなことしてた。

別所:テレビマンユニオンでですか? 意外……。トップディレクターとしてトッププロデューサーとしてど真ん中の王道を走ってたっていう。

是枝:ぜんぜん違います。ただの落ちこぼれ。

別所:本当ですか?

是枝:うん。同期が4人いたんですけど一番優秀なやつは『アメリカ横断クイズ』っていう看板番組に付くっていうのが決まっていて。

別所:「ニューヨークへ行きたいか!?」ってやつですか?

是枝:そう。徳光さんと福留さんのやつ。あれは予選会からいくと半年かけて1本番組作るんです。スタッフ全員が3ヵ月4ヵ月のロケでニューヨークに行くという凄まじい番組で、それが終わると人間がみな変わって帰ってくるという。

別所:テレビマンにとって極めて過酷な番組かもしれないですね。

是枝:それに選ばれてると、「その人が同期の中では中心なんだな」っていうことなんだけど、僕は選ばれていない。そんなに精神的にタフじゃないって思われていたから。小さな番組ばかりやりながらも(職場で)もめ続け、レギュラー番組に入ってもプロデューサーとうまくいかなくてボツを出して「こいつもうやめるな」って思われてた。「たぶんこいつもう持たないな」って思われてたときに、誰も助けてくれる人もいなくなり……。すごい偉い人とけんかしちゃったから。

それでも声をかけてくれる背中をさすってくれる先輩はいたんだけど、その人たちの助けによってなんとか局で企画が1本通り、初めて責任をもって番組を作ったんだね、きっと。自分の責任で。

うまくいこうがいくまいが全部自分の責任だっていう状況で自分の企画が通った時に、その番組が放送された時に、初めて、本当に初めて「この仕事おもしろいかもしれない」って思った。それまでは毎朝起きると今日やめようかなってずっと思ってた。でもそれ以降は思っていない。30年近く。

プロデューサーとの出会い

別所:それが先ほどの0から100まで全部やったという。それはなんという番組ですか?

是枝:『しかし…』っていう生活保護行政をめぐる高級官僚の自殺を扱ったフジテレビの深夜番組で『NONFIX(ノンフィックス)』っていうドキュメンタリー枠の1本なんですけど。1991年放送なのでみなさんが生まれるずっと前なんですけど。

別所:それは何分の番組?

是枝:47分。1時間番組。これをやっていなかったらたぶんやめてる。これを1本やれたことで番組編成担当者から「次なにやりたいの?」って言われて「じゃあこれやりたいです」ってつながりができて、その後3年間そのフジの深夜だけでドキュメンタリーをやり続けたので、その時期が自分の中ではいろんなことが勉強になったんじゃないですか。

別所:そしてそこから映画監督に、となるのは? 

是枝:それはその時期に、1989年だからディレクターになる前の出社拒否して休んでいた時期に、いつか映画を撮りたいと思って脚本は書いているんですよ。

別所:ああ、そのドキュメンタリーやりながら。

是枝:やる前、出社拒否している時、家で、悶々と、それが『誰も知らない』の元になっている。脚本はその時期に書いているから。それで映画監督になる日がもし来るならばこれをデビュー作にしたいと思って書いのがたぶん26歳とか27歳。それが『誰も知らない』。

別所:その『誰も知らない』ができあがるというか、そこにたどり着くのには?

是枝:15年くらいかかってる。

別所:15年。すごい時、年月が流れましたね。

是枝:ディレクターになる前からその脚本はいろんなプロデューサーに持ち歩いているの。

別所:あー、「映画になりませんか」って? 

是枝:そう、「映画になりませんか」って。でもまったく無名だし、テレビ制作会社のただのADだし、企画も暗い話だから「これはちょっと」って感じで、これをやるにはまだ時間がかかるかなと思いながら。

別所:それが映画になったのはどういう経緯なんですか?

是枝:それまでにいろいろな事情で何本か映画を撮れるようになったあと、プロデュース面で支えてくれる人が見つかったことが大きい。プロデューサーが。

別所:それはテレビマンユニオンの中で?

是枝:外で。

別所:外で? でもそれもずっとノックし続けたからですよね? これを映画にしたいっていうことで脚本を15年間持ち歩いて。

是枝:うーん、それもあったと思うんですけど、今は亡くなっちゃたけれどエンジンフイルムというコマーシャル制作会社の会長(安田匡裕)さんで、もともと映画がやりたかったらしい。でもずーっとコマーシャルをやっていて、相米慎二さんはお亡くなりになりましたけど、相米さんと組んで『お引越し』とか『東京上空いらっしゃいませ』とかそういう映画のプロデューサーで入られていたの。

それで、相米さんが亡くなったのが何年だったかな。相米さんの代わりに、僕の面倒をみてくれたようなところがある。相米さんの次に僕と西川美和の2人の映画監督の面倒を安田さんがずーっとみてくれていて、いろんな意味でお金だけではなくて精神的にも父親のような存在として。

僕らがオリジナルの脚本を書いて映画にしていくということを、金銭面でもそうですし、精神面でもサポートしてくれるプロデューサーが見つかったというのがすごく大きかったです。僕にとっては。