実世界指向のプロジェクトから浮かんだ「魔法」という言葉

僕らが目指している世界は、身の回りのあらゆるもの……最近では一般的に言われるようになったミクスドリアリティの世界の一歩先で、アナログな物質的ば物やデジタルでできた実質的なもの関係なく、コンピュータから操作できるような世界を作りたい。

そういった世界を作り、そろばんであれば「あっちだよ」とコンピュータがアシストしてくれる。音響放射圧、もしくはレーザー、テラヘルツ波などを使って、どうやって人に気づかれないかたちでそういったものを作るかを、1つのキーテーマにしています。

なぜそんなことをしているのか。僕は、マーク・ワイザー博士の提唱したユビキタスコンピューティングやカームテクノロジーといった概念に、すごく影響を受けていまして。要は、90年代に考えられていた画面ベースで表現できたものから、どうやってそれを切り離して、3次元中に存在させるかがテーマなんですね。

今のスマホ上の的に光る場所=見えている場所なんですが、それをハードウェア自体から切り離し、空間に存在させる。データそれ自体とインタラクションできるかを日々考えています。

そうすると、例えば、空中を指でなぞったら実際にそこに光の線が出るなど。それが実際にフィジカルなものの周りを飛び回って、データだけど触覚や光のような人間が感じられる形態を伴うようなものを、どうすれば3次元空間中に描写できるか、作り出すことができるか。「画面の外でも、HMDをつけなくても、コンピューティングができるんじゃないか?」と、インタラクションの観点からやっています。

では、コンピュータはものを掴めるのだろうか? 例えば、コンピュータサイドから音響と光をコントロールすることで、こっちにものを持ってきてもらうなどですよね。

例えば、今は人間が手を伸ばしてものを取るのが今は普通です。僕のラボではそうじゃなくて、「どうやってコンピュータは、コンピュータシミュレーションの結果として、ものをアクチュエーションすることができるのか?」をテーマにしています。

僕の専門は、そういったコンピュータシミュレーションを計算して、対象の最終処理、例えば、空中に形を作ったり、それにプロジェクションして色を与えたりするような、光と音の分布を作っていくことを、博士の頃からずっとやっています。

このような実世界指向のプロジェクトが出てきたときに、「じゃあ前世紀は画面や映像をベースとしてコミュニケーションをしていたけど、今世紀のことをなんて呼ぼうか」と思ったところ、「魔法」という言葉がうまく浮かんできました。

映像は画面のなか、もしくはスクリーン上だけで持っていたものでした。それを「どうやって3次元空間中に存在させるか」「どうすれば空間全体からそれを拡大させるか」が1つ大きいモチベーションになるんじゃないかと思っています。

例えば、これはけっこう前の僕のプロジェクションマッピングの作品です。2011年に桜を急に染めたくなったんです。なぜかというと、3.11があったとき、人が亡くなってしまう動画をいっぱい見たため、2011年は桜に対する妙な感覚を持ってしまったのですね。死生観に繋がるものとして桜のことをよく考えていた時期でした。

これがどういう作品かというと、桜の花びらが1枚1枚の色づきが変わっているようなプロジェクションマッピングを施しています。現実には、スクリーンがパーティクル上に空中に存在していて、そのなかを光がふぁーっと行ったり離れたりしていく桜の作品です。

そうすると、スクリーンで映像を見ているよりも身体性の高い体験……要は光や物に包まれている感じがする体験をしてみて「映像じゃないような体験って、今世紀いっぱい出てくるだろうな」と思ったんです。

今後、社会はより魔術化する

最近、『魔法の世紀』という本を書きました。そのなかで、「現実にコンピューティングがこう出てくると、それは映像をベースとしたコンピューティングじゃないことができるんじゃないか」という話をしています。批評家の宇野(常寛)さんと対談した際に出てきた魔法の世紀という言葉がベースになっています。

でも、この「魔法」という言葉は、必ずしも僕はいい言葉ではないと思っているんです。なぜかというと、例えばマックス・ウェーバーが昔、『魔術から科学へ』という言葉で定義した「科学技術によって世界は脱魔術化した」という言葉があります。

これは、例えばナポレオンが遠征に行くときに、「食料品の入ったビン詰をあぶったら腐らない。発酵しない」ということを知っていた。それは、火を使うと浄化するんだとみんな信じていて、慣習となっていたからですが、なぜ浄化するかは誰も知らなかったんですよ。

それを、パスツール型の試験管を使って「細菌がいるから腐るんだよ」と示すまでは、おまじないのように火を使っていたわけです。「科学技術が発達してくると、そういうおまじないが消えていくんじゃないか」とマックス・ウェーバーは言っているんです。

1980年代になると、「もう1回、世界は魔術化している」という評論がアメリカ社会学から出てきます。これによってもう1回、世界の仕組みがよくわからなくなってきている。

なぜかというと、一般市民に対して、例えば、なぜマクドナルドが安いのかはわからないし、クレジットカードやApple Payがなぜ払われているのかわからない。かたや、社会がどういう仕組みで動いているかもわからない。

理由はわからないが、結果は使える。その間では、物流的には、気づかないうちにいろんなものの価値がトランスファーされている。お金がハンバーガーのかたちになったり、ハンバーガーが労働対価のかたちになったりしている。

ここにコンピュータが入ってくると、もう出力と結果の関係性がわけわからなくなってしまう。

今までの機械式の時代は、映像装置はなかを分解すればフィルムが入っていて、それが回転していて、映像を当ててディスプレイに出ていることがわかっていました。そうではなく、電気式・電子式の時代は、コンピュータのなかを見ると、プログラムを誰が書いたかもわからない。しかも、装置の黒い箱を上から見ても、なかのソースコードを見ることもできないし、もしFPGAでなかがデザインされてたら、どんなサーキットが組まれているのかもわからないわけです。

「そういった社会は、より魔術化が進行するよね。いい意味でも悪い意味でも」「我々はなにも意識することなくコンピュータを扱えるが、使っているコンピュータの全容やメディアの仕組み、真偽は誰も知らないから、きっとポピュリズムっぽくなるよね」ということを『魔法の世紀』に書きました。

そこから今年の世界情勢を見ると、「よりポピュリズムが加速してるな」「なるほど、コンピュータってすごいな」と思っている時代です。

僕はそういった、絵画の時代のような、モデルを目の前に肖像画を描く。パーソナライズされるものをクラフトマンが作るような時代から、どうやってデザインされ、それがマスに大量生産されて出てくるかという映像の世紀を経て、今世紀はもう1回、テクノロジーがクラフトマンの手を経ないでもパーソナライズされるんじゃないかという時代になっていると思います。人工知能やコンピュータプログラムによる知的処理の世界です。

そういった時代の変化を、僕は「絵画」「映像」「魔法」で定義していて、そのなかで、僕らが生きる今の時代は、個人別のものづくりやコミュニケーションの消費をしながら生きていくんじゃないかと思うわけです。

CGのような現象を現実へ

僕が所属しているのは、大分野でいうとコンピュータグラフィクス=CGの分野です。例えば、これは3年前のコンピュータアニメーションフェスティバルの動画です。

ここ4〜5年でCGの分野は、大きく発展はしているんですが、実は最終的なレンダリングや見た目に関してはほぼ変わっていないです。

それはなぜかというと、見た目レベルなら、時間をかければ昔から計算はできます。今は時間を高速化してやること、例えばバーチャルリアリティのなかの表情付けをリアルタイムに変換したりするものがメインな仕事になってきています。

そうじゃなくて、昔からある、時間をかけてレンダリングして、きれいな見た目を作ったりあり得ない形を作ったりするような分野は、最終の見た目はほぼ変わっていないということがあります。

そうなったときに、次なる領域は、いわゆる劇場のための技術をどうやって劇場の外に出していくかがテーマになってくると思います。つまり、前世紀は映像やビデオとして、ある特殊な体験のなかで培った技術をどうやって出していくかを考えていこうというのが、僕のアーティストとしてのスタンスでもあり、研究者としてのスタンスでもあります。

前半では研究をいっぱいお見せしたので……またアートの作品なんですけれど。これは1ヶ月前まで茨城県で行われていた「県北芸術祭」という芸術祭で展開していた作品です。

これはどんなインスタレーションかというと、美和中学校という廃校になった中学校にインスタレーションしていくものでした。この中学校はまだ人の気配があるんですよ。なんと言えばいいのか……廃校になって1年くらいは、校舎自体に夏休みみたいな感じがあるじゃないですか。それ以上時間が経つと、どんどんお化けっぽくなるんですけど。そこに僕が作っているような作品を置いていこうというプロジェクトをしていたんです。

今まで、メディアアートの作品は暗い部屋もしくは夜で、光を焚いて暗いスクリーンに写すことが普通でした。そうではなく、明るい部屋で、例えば、向こうに山並みが見えるくらい光量も高く、カーテンもないような部屋にメディアアート作品をインストールしていく。

これがなぜ実現できるかというと、例えばこのコロイド溶液でできた画面のスクリーンが反射軌道をコントロールできるので、ある視野角だけはやたらと明るく見えるからなんです。そういうようなギミックを使ってどうやって明るいところにメディアアートを出していくかというようなことをテーマに、近頃はやっていたりします。

つまり、画面のなかや劇場のなかにあったようなCGみたいな現象を、どうやってこのふつうの世界……昼の世界で、かつ外乱もたくさんあるなかで実現するか。我々がふだん生活しているようなところにポンっと出していくかを目的に、ものを作っています。

このプロジェクトをやっていて、気づいたことがあります。昼間に、空間にデジタル情報が出てくると、すごく幽霊っぽいんですよ。存在しないけど、突然存在しだしたものには幽霊感が漂ってくるというのが、最近の僕の気づきです。

画面のなかでやったことを現実に落とし込んでいく

続いて、これは暗室での作品です。暗室のなかで羽虫みたいに光がぶわーっとなっているんですね。夏の羽虫のような振る舞いをするシャボン玉の作品です。これは古典的映像装置へのメタファーで有機的なシャボンの動きを用いたものです。僕がシャボン玉が好きなのは少量の溶液が膨らみ、突然物質が生じたように感じるからです。

そういった幽霊みたいなデジタル情報を考えてみて……。これは昨年に作った『幽体の囁き』という作品です。廃校になる前、きっとこの教室には喧騒が漂っていたと思うんですよね。それをどうやって元に戻せるかというプロジェクトです。

これは超指向性スピーカーで屋外のこの机を狙っていて、あの机の周りに立ったときだけ、いわゆる教室のガヤガヤした音が聞こえる。その部分だけを狙っているので、ほかのところでは聞こえないんですよ。

廃校になった机って、けっこうボロボロなんですね。机の上の落書きには中学生が彫った「死ね」という落書きなどあります。そういうようなものを並べると、すごく情感が漂っていて、そこでふと校庭の隅っこに並べられた机に行くと、幽体がいるような感じがするんですよね。

そういった、デジタル情報をどうやって空間に混ぜていくのか。身体性のない人間の存在感やそういった気配を感じさせるような物質でも映像でもない幽体的振る舞いは、僕のキーテーマになるんじゃないかと近頃ではよく考えています。日本的幽玄性に通じるものがある。存在がかすかであるが、物質性や深みがある。

夜に見ると、本当にお化けみたいですごく怖いんですけど、昼は子供が遊んでいたりする作品などを作っていたりします。

近頃のメディアアートのモチベーションは、そういったアンバランスをうまくついていくこと。例えば、磁気浮遊を使った作品ですね。画面のなかではよく見るような、浮遊したものが動いているようなものを、どうやってフィジカルなこの世界にインスタレーションとして作っていくか。

それがラボのなかや特別な場所ではなく、グラウンドの真ん中にポンと置いてあったりする。それが向こうに野球場が見えるところで、ぐるぐる回っている。そういった、現実離れした見た目が、近頃ではすごく興味のあるものの作り方です。しかし、電気がなくなったら生じなくなってしまうかすかな現象でもあるわけです。

これは僕が今まで作ったなかで一番高額の維持コストのディスプレイです。高額の意味は……ドンペリさんがクライアントで、泡を用いた作品を提案させていただいて、「シャンパンの中に、自然に泡を立てたい」「外部から操作されていないんだけど、泡がふわふわふわっと立ってきたり、滝みたいに立ったりするような泡の立て方をしたい」という提案をしました。

これ、上から赤外光レーザーをこっそり打ち込んでいて、それで泡が立つんですよ。要するに、炭酸水は、グラスに割り箸を突っ込むと泡立つじゃないですか。ですが、赤外光レーザーは目に見えないので、それを使って泡の柱をたくさん立てていくという作品です。

これは非常におもしろかったのですが、みなさんはもうお気づきでしょうけれど、炭酸が抜けたら泡が出ないんです。そのため、炭酸は注がないといけないんですよね。そうすると、ドンペリを1時間に5-7本ほど消費することになる。ランニングコストなどが1時間で30万円かかるディスプレイだったんです。ドンペリさんは「やっていいよ」とおっしゃって、「ドンペリさんって太っ腹なんだなぁ」と思った作品でもありました。非常に綺麗なものができました。

炭酸の泡だったり、上から降ってくるシャボン玉だったり、現実にありそうでなさそうな存在感のものを環境にインストールしていくことをずっとしているんですね。

これは部屋のなかで落雷を落としまくる作品ですが、このおかげで周りの電子機器がエラーを起こして大変だったんです。でも雷みたいな瞬間の光もすごく好きなんです。そういうものをやったりしています。

こういうことをしていると、今のIoT技術や回線、部品を作る技術などが発達してきて、画面のなかでやったことを身体と繋がった表現として落とし込めるようになると痛感しています。

物質性の高いものに影響を及ぼしているが、それがどんなメディア技術によって関わっているかはあまり気にすることがない。そして、そのなかにフェイクではなく真実に思える、種も仕掛けもある状態でものを作れるんじゃないかと考えています。手品でないものです。

人と機械の区別がつかない世界をどう作るか

「世界ってこんなふうだろうな」と思い始めていたとき、自分の研究室を持つチャンスが2015年にやってきました。

「今、この世界はどんなふうに回っているんだろう?」と思ったとき、4つの象限が重要だと思っています。1つ目が「人」、2つ目が「機械」、3つ目が「実質/Virtual」、そして4つ目が「物質/Material」です。

これを「リアル」としていないのは、今は「Virtual」「Material」のどちらもリアルだからです。つまり、Twitter上にある情報は現実ですよね。だって、そこに脅迫めいたことを書いたら、警察が飛んできたりするわけです。

物質的に存在していないだけで、ほぼヴァーチャルなものはある。その関係性をごちゃまぜにした世界を作ろうというのが、僕のモチベーションです。うちのデジタルネイチャー教室では「人と機械の区別のつかない、物質と実質の区別もつかないような世界をどうやってデザインできるか」を日々考えています。

生き物や電気回路がつながった作品を、アーティストとしてはよく展示しています。例えば、これは「マイコンの足が虫っぽいからコオロギをセンサーに使おう」といった作品だったりします。こういうものを作っていたりするんですね。

「世のなかには、人間や植物や生き物、半導体など、あらゆるものが接続された世界があるんじゃないか」「そういった世界はインターネットの向こうからやってくるんじゃないか」と、僕らは考えています。

デジタルネイチャーという考え方がちょっとわかりにくいと思うので、すごく簡単に言うと、あらゆる写真や動画の解像度が上がり、ヴァーチャルリアリティでの体験が、実体験とほぼ変わらなくなってくる。本当に証拠写真かどうかは、人間が持っているイメージだけでは、物質との区別がつかないです。ホロレンズの世界はそれに近いですね。もっと進んだミクスドリアリティになっていくと、物質と実質はある点では等価になり、ある点では明確な差が生まれてくるはずです。

ポストトゥルースという言葉がメディアをにぎわせましたが、例えばメディア上のニュースで展開されている記事でも、ドナルド・トランプ大統領が本当にそんなことを言ったのかどうかわからないし、ローマ教皇が本当にそんなことを言ったのかどうかも、やがてわからなくなるはずです。おそらく、そうなる。

もう1つ、人間とbotの区別もつかなくなると思います。夫婦がいたとして、それぞれのbotを含めて4人で会話している状況だとしたら、喧嘩してもbotが代わりに謝ってくれるかもしれないじゃないですか。そうなったとき、どちらの人格がどちらかわかんないですよね。

人格の区別もつかなくなる。そうなっていく世界はきっとある。人と機械、ものとイメージの区別は、つかなくなっていく。

もしもそうなったら、「じゃあ人間はどういう機械として扱えるのか?」「じゃあ物質ってどうやってマテリアルに変わるのか?」を研究していきたいと思って、デジタルネイチャー研を始めました。

僕らがやっていることは、主に3つです。「マテリアルをコンピューテーションでデザインする」「ロボット・視覚・聴覚・触覚によるディスプレイを作る」「人間をコンピュータでコントロールする」をずっとやってきています。

例えば、このあたりはもう実用化も進みそうなんですけど、これはアイシン精機さんと一緒にやってるプロジェクトで「光を通す木を作るけど、見た目は木のままがいい」というものです。

なぜこれをやったのか。これは、アルミ板をくり抜いたものを使っていたりします。そうすると、右からみると「カーブミラーで止まれ」となっていて、左から見ると「進め」になっているミラーを作れるんです。

なにがモチベーションかというと、今、我々の世界には木でできたマテリアルとスマホが存在しています。これを写真に撮ったら、スマホの壁紙を木にすることができます。

しかし、逆に考えてみれば、スマホの上にビジュアルイメージで木を作ってもいい。マテリアルの上にビジュアルイメージを作ってもいいはずですよね。そんな選択もあるはずです。

低解像度だけど、触り心地、もしくはその高級感を残したいときに、どうやってマテリアルを使えるかは、1つの大きな課題になる。

これをコンピュータデザインされたレーザー加工や機械加工によって、肉眼で目に見えない穴をたくさん空けて、ある程度は高解像度でものとしての特性を保ったディスプレイを作れるのではないか。そういったプロジェクトもやったりしています。

我々は、目の前にある木や鉄など、加工可能な素材がマテリアルなのかディスプレイなのか、やがて区別がつかなくなると思っています。

そうすると今、車についているようなノブやボタンが、きれいに裏側へ隠れたりするんじゃないかということをやっています。そうすると今つなぎ目ありきの電子機器デザインが大きく変わるじゃないですか。