公家から武家へ権力が移った時代

カリン・ユエン氏:みなさん、今日は鎌倉の大仏を訪れています。私の後ろのこの巨大な仏像です。今日は非常に人が多く騒がしいので、もう少し静かなところに移動しましょう。

これで良くなりましたか?

平安時代は、平和で安寧な時代でしたが、鎌倉時代と室町時代は戦争と権力闘争の時代でした。権力は貴族から武士階級に移り、職人たちは、貴族階級とは明らかに美的な好みや関心が異なる、仕えるべき新たな庇護者を得ます。では、鎌倉時代の歴史とその美術史を見てみましょう。

天皇家と藤原摂関家の数世紀にも及ぶ権力争いの後、政府の支配権はその双方からも離れていきました。

そして、最も強力な、2つの武家の棟梁である平氏と源氏の間での戦いが起こります。まず、これらの武士階級についてお話しましょう。

平安時代には、京の宮廷と貴族階級は都を離れることに消極的でした。しかしながら、彼らの主な収入源は、地方中に散らばった荘園と呼ばれる郊外の地所から来るものだったので、彼らは代理人を置き、その所有物を監督したのです。この地位はしだいに世襲制になり、土地を持つ大貴族の家と提携した、特定のー族に集中していきます。

彼らは、これらの家の出張所のようなもので、主人の意図を実行し、隣接の荘園の進出に対して、主人の権利を守ったのです。そのため彼らは、首都では長く続いた平和な時代に放棄されていた、一定の武力を持っていました。土地は、農民たちによって耕されましたが、基本的にはその荘園の付属物であり、拘束された農奴でした。

天皇の租税あるいは荘園領主の要求というのは大変重く、しばしば反乱が起きたため、地方の豪族は騒乱を鎮静する目的で召喚されました。

これらの憲兵は、12世紀には侍として知られるようになります。文字通り「はべる者」という意味です。

源平の争乱によって平安時代の貴族社会は荒廃します。都は廃墟となり、奈良の巨大な寺院は地面に焼け落ちました。勝利した源氏の棟梁である、源頼朝は将軍となり、幕府と呼ばれる軍事政権を打ち立てます。そして政府を鎌倉の海沿いの小さな村に移動させます。

源頼朝は、天皇を国政から遠ざけることに成功しました。天皇はこの時点から権力を失い、名目上の神聖な元首として京都に残ります。貴族は、かつてはその財力と宮廷での交流関係によって、多大な影響力と権限を持っていたのですが、土地が奪われ幕府と関係者に献納されると、その収入源を徐々に絶たれます。貴族階級の権力は衰退し、その富は枯渇しました。将軍家に忠誠を誓った新しい土地の支配者や諸侯は、「大名」という名前で知られています。文字通り「偉大な名前」という意味です。

この名前は、貴族階級であれ、侍であれ、大土地所有者であれば、いかなる領主にも適用されます。しかしながら、実際には大部分の土地は侍たちの手に渡り、彼らの肩書きは軍事関連のものになりました。頼朝の配下の大名たちは、鎌倉に居住し、家令(あるいは守護)を任命し地所を監督させたのです。

男性的美しさを持つ鎌倉時代の芸術

鎌倉時代の美術は、いくつかの複合的な要素によって特徴づけられます。武士階級が権力と富を手にして頭角を現すと、芸術の庇護者として重要性を持ってきます。彼らの美的な好みは、作品に反映されます。甲冑や漆工芸品が好まれ発展を遂げ、その趣味は豪華で男性的なものでした。仏教美術は、武士階級から影響を受け、これらの武士たちから支援を受けた、巨大な再建事業が戦争後に開始されました。

また、僧侶は仏教を文盲の庶民たちにとって利用可能なものにし、保守的な人びとに対しても、より広い受け手に対して仏教を近寄りやすくしようとしました。このような仏教の大衆化の影響は仏教美術に見られます。

彫刻はより写実的になり、古典の復活が行われます。この時代はしばしば「日本彫刻のルネサンス時代」とも見なされています。中国文化への新たな関心によって、再び同時代の宋王朝の影響が作品にもたらされました。黄金時代に憧れる感情が明らかな、平安時代に言及した作品も数多く見られます。京都と奈良は、芸術制作や高級文化の中心地であり続けました。

将軍は戦争で勝ち取った地位ですから、他の武家がその特権を狙ったとしても不思議ではありません。この特権は国を治める権力でもありました。その後の数世紀間、鎌倉時代を通じて、さまざまな武家や党派のあいだで、将軍の地位をめぐって内乱がありました(注:執権の北条氏と御家人が対立した1285年の霜月騒動など)。

鎧師や漆工芸職人はこの時代に大きく躍進します。ご想像のように、新たに裕福になった武士階級から十分な愛顧があったのです。平安時代には、鎧兜は貴族階級が宮廷行事で用いるものと、戦場で用いるものに分かれていました。つまり、前者はそこまで機能的でなくてもよかったのです。

権力が武士階級に移行すると、強固で致命的な武具が、同時に審美的にも美しい、つまり雅やかでありながら耐久性を持つという、2つの手法を統合しようという努力があらわれます。着用する鎧は華麗に豪華になり、男性的な美学に深く彩られていました。

武士の甲冑の大部分は、漆で塗られ密に織られた鉄と皮革でできていて、装飾された部分は絹や、金箔された銅、そして牡鹿の革からできています。この胸当てには、彩色された不動明王像が飾られています。獰猛な外見のこの神は、威嚇するような睨みで、不信心者を怖がらせています。