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平安後期、なにがあったか覚えてる? 芸術と学ぶ日本の歴史

平安時代の終わり頃、大和朝廷と藤原氏の争いが勃発します。そんな中、朝廷側は自らの権威を示すために5年ごとに新たなお寺を建立しました。芸術においては、世俗的な作品も多く残されています。絵巻物はそのうちの1つですこの時代は「男絵」と「女絵」分けられ、それぞれ異なる表現技法が用いられています。今回は、YouTubeのアート系チャンネル「Little Art Talsk」のカリン・ユエン氏が、芸術の観点から日本の歴史を紐解きます。前回はコチラ

朝廷と藤原氏の激しい闘い

カリン・ユエン氏:平安時代後期には、自身の経済力を立て直すため皇族達が藤原氏から積極的に政権を奪い始めました。後三条天皇は数十年の間で、初の藤原氏の母を持たない天皇だったので、多くの藤原氏の要求に抵抗することができました。彼は院政、また太上法王という概念を作りました。

彼の考えは以下の通りです。彼が王位を退位し、彼が建立した寺の僧侶になります。彼は息子を天皇にし、息子を通して国を統治し続けますが、彼は正式な天皇としての地位は持たず、土地の寄付をもらうことができるという仕組みです。この方法で、彼らは土地を通して作られる収入を得ることができ、同様に彼やその家族が建立した寺の仲介人を通して収入を得ることができました。

しかし、後三条天皇は退位後間もなく死去していまい、彼の考えを実行することができませんでした。彼に代わり、息子の白河天皇が父の意志を継ぎ、見事に成功させたのです。彼の息子の鳥羽とともに2人が統治した時代は、あの藤原氏が最も栄華を極めた頃に匹敵するほどでした。

皇族の主な目的は、みなさんが推測するように、大和朝廷の聖地を立てることでした。11世紀後期と12世紀中期の間に、引退した天皇、彼の一族、そして忠臣達は毎年新しい神社を奉献し、5年毎に新しいお寺を建立しました。残念なことに、白河上皇、鳥羽上皇、また彼らの親族、そして献身的な忠臣達によって建立されたお寺は現在どれも残っておりません。

平安後期を代表するお寺

おそらく、11個の頭を持つ1001体の像、1000の手を持つ千手観音像がある三十三間堂はもっとも素晴らしい仏堂です。

実物は火事で焼失してしまいましたが、火事から残った像を保護するためにすぐに再建されました。建築のシンプルさは、無数の観音像と菩薩と対照的です。156体の観音像は保護され、それらは三十三間堂内の主要部分を担っています。像はほぼ正面向きで、一番大きい2本の腕はお祈りによってぴったりくっついています。

他の2本の腕はウエストの下に置かれ、別の2本の腕は僧侶の持ち物と悪魔を退ける矛を持っています。他の腕はそれぞれの方向へ伸び、さまざまなオブジェクトを持ち、スカートとスカーフはゆるいカーブを描き、体を優しく包み下へ降りています。

後に、13世紀に湛慶によって付け加えられたものは、脚を覆う重めのドレープと、ウエストと足の間の全部分に渡って流れを表す衣服と言えます。腕のサイズのグラデーションも加わり、鎌倉時代に発展するリアリティーを表現するという新しい興味を示していると同時に、像の服の形態への忠誠心を維持しています。

この光景に対面すると、広大すぎて一目見ただけでは理解できない像の海に直面します。

「男絵」と「女絵」絵巻物の2つの進化

同様に、世俗の作品にも多くの時間とお金がかけられました。男絵と女絵という2つの異なる種類の絵巻があります。男絵は視覚的イメージを伝えるために、中国の書道の線に由来したモノクロまたは軽く色がつけられている様式です。

一方で女絵は男絵とは対照的に、より大和絵様式に傾倒しています。女絵の1つの例である源氏物語絵巻は、5つのチームに分かれて完成された大掛かりなプロジェクトで、各チームに書道と文化的に洗練された貴族、つまりすみで下絵を描く墨描きと、伝統的な顔料を使用して色を塗る専門家がいました。

全部で10巻の絵巻は、1帖あたり1から3つの絵で構成され、源氏物語の全54帖を描かれていたと考えられています。今日ではたった20の絵のみ残っています。墨描きは絵の構成を考え、墨で紙に絵を描いていきます。同時に色彩も指示します。そして顔料の専門家たちが、墨の線を消すように色を塗り重ねていきます。最後に墨描きが、できたものを確認し細かな修正を指示したり、顔の表情の詳細を決めます。この色を塗り重ねる技巧を作り絵と言います。

源氏物語の主なテーマの1つは「もののあわれ」で、ことの哀愁や経験の質の移り変わりを意味します。それは非永続性やものの移り変わりの気づきを指し、ものの美しさへの審美眼を高め、やがて「もの」が消えていく際のあわい悲しみを呼び起こします。この絵には、とても強い感情的な瞬間を描くための技法が使われています。

吹抜屋台と遠近法の少しぎこちない角度は、室内と室外の活動を途切れずに描写するだけでなく、空間のより良い眺めを提示しています。登場人物達が動ける空間の有無を描くことで、彼らの心情理解も深まります。色彩やパターンは、場面のムードを高めます。これらすべての要素が、もののあわれの強い印象を生み出す効果があるのです。

2つ目の主要テーマは、源氏が彼の父に対するの大きな罪を犯した時に生じたカルマの連鎖です。源氏が若い時、彼の父の一番若い妻に恋をします。源氏とその女性との不義によって子供が生まれ、その男の赤ん坊は天皇の子供として生涯を終えます。つまり、源氏の実の息子が弟となってしまうのです。源氏が中年に差し掛かった頃、彼の一番若い妻が不倫をした結果、息子が生まれ前の天皇がそうしたように、源氏は公的に実の息子だと公表しなければなりませんでした。

絵巻物に秘められた物語

この場面の絵は、巻物が開く方向に沿って右から左へと進んでいきます。最初に、もともと銀で塗られた色があせた殺風景な中庭が見えます。鋭角に位置する縁側は、見るものを締め出します。十二単の末端へいくと、幕を通して部屋へと続きます。これは、非常にプライベートな空間へ入っていくということを表現しています。この鋭角と端に描かれていることで、部屋をとても小さく見せ、むしろ狭苦しほどです。

赤い漆塗りの板の上にはたくさんの食べ物があり、それはあるセレモニーがその場で行われていることを意味します。上の方にいる源氏は赤ん坊を抱き、女性達は下の方で待っています。より上の左の角には、赤ん坊の母親がいて彼女の存在は、たくさんの織り物で描かれています。

この赤ん坊が源氏の子ではないと出席者が知っていると気づき、儀式で居心地の悪さを感じる源氏は、身体的にもぎこちなく抑圧された部分に、押し込まれるように描かれています。非常に悪い状況の中で彼にいい顔をさせようと強要する社会のプレッシャーのように、建築物も源氏を窮屈な位置へ押し込めています。

御法の帖で、源氏の最愛の女性、紫の上が死去します。紫の上に育てられた源氏と他の妻との間にできた娘が、紫の上と過ごすために御殿からやってきました。ある嵐の夜、源氏は紫の上を訪れ3人一緒に座り、庭の低木に風が強く吹き付けるのを見ていました。源氏が初めて邸宅を建てたとき、紫の上が一番好きな季節の春にピークがくるよう、この庭を1年を通して美しい庭を作ることを計画していました。

今彼らが庭を見つめても、ただ絡まったつるがあるだけです。再び、この建築が重要な役割をしています。源氏は紫の上が重病にかかっていることを知り、彼女が死んでしまうという強い恐れを抱き、その悲痛にとても耐えられないと感じています。前の絵のように、この絵も傾斜が描かれていますが、前とは異なり、登場人物が巻物を広げると即座に現れます。

紫の上が絵の上の方に描かれ、肘掛にうなだれています。壁の梁と幕によって作られた角に彼女の娘が座っています。絵の下の方に描かれている縁側の近くに源氏はいます。絵の最後の方では建築物は消え、風で荒れた庭が大きく描かれています。迫り来る死と寒さの中風で絡まった低木と間に彼が置かれていることで、紫の上が死へ近づいているという源氏の苦悩は暗示されています。

お寺の信仰の源となる芸術

『信貴山着絵巻』は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて人気になった物語絵巻の初期の例の1つです。縁起とは、寺の創設の由来のことです。その1つに、奈良の山奥にある朝護孫子寺と呼ばれるお寺の創設者、命蓮に関するおとぎ話があります。最初の2つの絵巻には、命蓮が起こした奇跡が描かれています。1つ目は、豊かで貪欲な農民を罰する物語で、命蓮が穀物倉を浮かせ、空に飛ばし、山の頂上まで届けるという話です。

2つ目は、すべての治療法が失敗した時、命蓮が加持祈祷行い、剣を持った少年(護法善神)が天皇の元に現れ、醍醐天皇の病を癒す話です。お寺の参拝者は創設者の不思議な力によってご利益を得ることができる、という文章を記すことで、お寺を正当化しています。

男絵スタイルの縁起絵巻は、最初に登場人物と自然な景観の概要を濃い灰色の筆さばきで描いて作られます。色を塗る際は、薄い色を使い最初に書いた下書き部分を消さないようにします。こうすることで、より躍動感を持って人物を描け、動きを暗示させるために書道風のタッチを有効利用しているのです。この技法は絵に、物語の題材にマッチしたより元気で新鮮な空気を与えている。

平安後期から残っている他の絵巻は、『伴大納言絵詞』です。常盤光長によって作られ、866年に焼失した皇居の応天門の話を伝えています。後に、宮中のライバルであった左大臣源信を陥れるために、火をつけたのは伴善男と証明されます。罪が発覚した伴善男は島流しの刑に処されました。

絵巻物で使われる、ストーリーを生み出すための仕掛け

この物語の絵の素晴らしい例として、紙のスペースを節約することで、真実が明らかになる、という驚くべき方法で描かれています。それぞれの場面に2つパネル割り当てるのではなく、同じパネルで物語が展開していくのです。このような感じです。

ある日、2人の少年が喧嘩をしていました。1人の男の子の父親は伴善男の使用人で、彼は喧嘩を止めようと駆け寄りました。その下の方には、自分の息子を庇い、相手の男の子をとてもひどく殴ったことが描かれています。殴られた男の子の父親は宮中では低い身分で、息子をひどく痛めつけたことに激怒しました。

言い合い中、自分が握っている伴善男と使用人に関する事実をもし世間が知ったら、「彼らは重い刑罰を受けるぞ!」と彼は口走ります。これを近所中に聞かれてしまい、隣人たちはひそひそ声でその危険な噂を繰り広げ、警察が気づきやってきたのです。結局殴られた男の子の父親は、裁判所で伴善男とその使用人が応天門が燃える直前に皇居の門から出て行ったという証言をしたのです。

父親同士の会話は描かれていませんが、子供が殴られるのをみた人々が顔をしかめている様子が描かれています。登場人物達の大きく開かれた口は、どのように噂が言葉を介し人から人へと伝わっていくかを示しています。

この絵巻は、源氏物語に見られる作り絵の要素と信貴山絵巻に見られる男絵の要素が混ざり合っています。芸術家は、上品で、登場人物を描くための制御された書道風の線だけでなく、濃く色を塗っていく技法も使用しています。

好ましくない人間の振る舞いが、『信貴山縁起絵巻』と『伴大納言絵巻』の両方の物語の中心となっていることは、おそらく貴族社会の外の世界の意識や興味を示しているのかもしれません。平安時代の末期には、宗教の世界は崩壊し出しており、このような作品は、少なくとも貴族のある部分で、裕福だけど窮屈な環境という檻を壊そうとする試みがあったのかもしれません。

1156年に鳥羽上皇が亡くなると、大和朝廷と藤原氏の間で後継者争いが勃発。1156年に保元の乱、1160年には平治の乱が起こりました。2つの敵対する氏族は、平と源という武族から助けを求めていました。

この争いは、1180年から1185年まで続いた源平の戦いで決着がつきました。有名な壇ノ浦の戦いで平氏一族がほぼ全滅し、平家の女性達は、幼かった安徳天皇をつかみ海へ飛び込みました。勝利した源は新しい軍隊による独裁政権、幕府を作りました。幕府では軍隊が1868年に起こる王政復古が起こるまで国家を統治しました。

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