トライセクター・リーダーを紹介

金野索一氏(以下、金野):みなさんこんばんは。お越しいただきましてありがとうございます。「トライセクター・リーダー 公開対談」ということで、実は今日で3回目になります。1回目は藻谷浩介さんと11月にやらせていただいて、2回目は日本政策学校と一緒に安倍昭恵さんとか吉田(雄人)さんとかとやらせていただいたんですけども。

今日は3回目で、(今回のゲストは)TBSでずっとキャスター・ジャーナリストをやられて、ニューヨークのTBS支局にもいらっしゃった。そのときに僕はコロンビア大学に留学していて、ニューヨークで一緒でして。そのときにトークさせてもらった仲なんですけど(笑)。

その後は首相官邸の内閣審議官として、菅さん、野田さん、安倍さんの官邸からの広報発信に携わられて。今は慶応義塾大学ほかいくつかの大学で教えられている、下村健一さんをお呼びしましょう。拍手でお迎えください。

(会場拍手)

下村健一氏(以下、下村):よろしくお願いします!

金野:下村さんがやってこられた詳しいこと、まさにトライセクター・リーダーとしてやってこられたわけですが、それはいろいろお話しいただくとして。最初に、初めての方もいらっしゃると思うので簡単に「トライセクター・リーダーってなんですかね?」みたいなところを5分くらい話した上で、下村さんとの話に移りたいと思います。

今、そもそもトライセクター・リーダーを……ちょっと座らせていただきます。実は『トライセクター・リーダーの時代』という連載をやらせてもらってます。日経ビジネスのCAMPANELLA(カンパネラ)というサイトです。

このシリーズの1回目は小沼大地さんというNPO法人クロスフィールズの方で、「留学」じゃなくて「留職」というのを世の中に……社会貢献というか、世界中の社会問題を解決するために、会社の負担で会社の人材を世界に送っていく留学ならぬ留職ということをやっていて、第1号としてパナソニックが採用しました。

そういうかたちで、企業の人たちも「究極のグローバル人材研修」みたいにとらえていて、それで世界中のいろんなNPOなどへの派遣を仲介するNPOを作った。その小沼大地さんという人が1回目に登場しました。彼はJICA(青年海外協力隊)でシリアに行かれていたり、その後マッキンゼーでコンサルタントをやったりしながら、このNPO法人クロスフィールズを立ち上げました。

セクターの壁を超えて活躍するリーダーたち

そういう感じで2回目に登場してもらったのが、松田悠介さん。この人はもともと中学校の先生だったんですけど、日本の教育をなんとかしようということで、中学校の先生の後は教育委員会に勤め、そして社名は忘れたんですけど外資系のコンサル(プライスウォーターハウスクーパース株式会社)にいって、今はTeach For Japanという、先生の現場に民間企業の方を学校の現場に送り込むというNPO法人をやられたりしている。

次に登場してもらったのが藤沢烈さんですね。この人は「Mr.復興」と呼ばれていて、藤沢烈がいなければ今の東北復興が5年遅れたと……5年遅れたってことはないですね。すいません。震災が(記事が出た2015年の)4年前でしたからね。NPOと行政と民間企業とを全部コーディネートして、まさに3つのセクターが結集して復興に動くということをやっている。この藤沢烈さんという人が登場したのが3回目でした。

4回目は、坂本龍一さんがやっている社団法人モア・トゥリーズの事務局長です。森林保護を坂本龍一さんがやってるんですけど、その団体をそもそも立ち上げた水谷伸吉さんという方です。彼はクボタのビジネスマンだったんですけど、その後に坂本龍一さんとこういう団体を立ち上げた。

そういう人たちに今まで登場してもらっていて、前回は藻谷さんと対談させていただいて。その記事は来週にアップされます。今説明したのは、「トライセクター・リーダーってなんなの?」ということで、イメージ的にわかってもらうために具体的な人を紹介したんですけども。まあ、日本に限らず人間社会の組織というのは3つのセクターに分かれてるわけですよね。

すいません、「企業セクター(ビジネスセクター)」というか企業にお勤めの方は何人くらいいらっしゃるんですかね。……一番多いですよね。政治とか公務員、「パブリックセクター」に勤めてらっしゃる方はいますか? ……お一人。じゃあNPOとか非営利組織(ソーシャルセクター)に勤めてらっしゃる方。……いらっしゃらないですね。

いずれにしてもこの3つのセクターをいろいろ経験されてる方、あるいはずっとビジネスマンや経営者だったという人でも、セクターの壁を越えていろいろな人脈、あるいはNPOとか行政が持ってるような視点や課題をビジネスに活かしていくとか、社会問題の解決から新規事業を見出していくとか。そういうセクターを越えてやっている方々をトライセクター・リーダーと呼んでいます。

マッキンゼーのOBだったマシュー・トーマスという人が唱えてアメリカですごく広まっていて、日本ではハーバードビジネスレビューの2014年2月号で最初に特集されました。それでこの界隈で広まってきたわけです。

昭和のトライセクター・リーダー江副氏と小倉氏

わかりやすくするために一番典型的な過去のトライセクター・リーダー、「こういう人をトライセクター・リーダーと呼ぶんだよ」という人をご説明して本題に入っていきたいと思うんですけども。例えばですけど、だいたいビジネスマンの人が多いと思ったので、昭和のビジネスマンで「この人はトライセクター・リーダーだな」と思う人を挙げます。江副浩正さん。ご存知だと思いますけど、リクルートを作った人です。

なんでこの人がトライセクター・リーダーか。この時代にその言葉はなかったので、江副さんがそれを意識していたとか、当時そういうふうに言われてたとかいうことはまったくありません。今振り返って、この人はそうだなという意味なんですけど。

ご存知のようにもともと行政、当時の労働省がやってた職安(公共職業安定所)。そこで失業した人とか転職しようかなという人が若干暗い感じのところにいて(笑)、なかなかそういう人のジョブの移動が(効率的に)おこなわれずにいた。要するに、税金でやってたサービスなんですよね。上がやってたサービスですからパッとしないというかサービスも悪いし、前向きにどんどん人材が移動していくみたいなことはなかなかなかったわけですよ。かつては。

そこに江副さんという人が出てきて、「ちょっと税金でやってるサービスがいまいちだな。ここに突っ込んでいこう」と。まさに「とらばーゆ」とか「ビーイング」とか「RECRUIT BOOK」とか、新卒の就職、あるいは転職というものの仕組みを民間側から全部作り出す。その日本全体の仕組みを作り変えちゃったという。

いまや、転職とかキャリアアップとかそういうのは非常に前向きな分野に変わったわけですけど、職安のほうがあわてて「ハローワーク」みたいな感じでイメチェンをして、民間ビジネスの後追いをしてるような状況なんですよ。そういうかたちで対労働省、今は厚労省ですね。そういったビジネスの枠を越えて、社会全体でどこにいる人が困ってるのか、満たされてないニーズはなんなのか、社会の課題はなんなのか。そういうところに着目してああいうビッグビジネスを立ち上げて。まさにトライセクター・リーダー。

これは小倉(昌男)さん。クロネコヤマトの創業者ですよ。小倉さんでいえば、郵便局ですよね。当時の郵政省、これも上がやってたサービスで、非常に満たされてないニーズがあった。最低限のことはやってるけれども、なかなかきめ細やかなサービスというのは、公務員がやってるわけですから(なかった)。

そこに着目して、宅急便をはじめ(いろんなサービスを)打ち立てていった。これもまさに、従来のビジネスの枠を越えて、パブリックセクターの領域の課題を見て突っ込んでいったと。そういう意味でのトライセクター・リーダー。

セクターの壁を超えることでビジネスマンとして差別化

(小倉さんは)ビジネスマン、ビジネスセクターの側の立場から出てきた人なんですけど、もうちょっと視点を変えて言うと、石川治江さんという人はNPO業界から出てきた人ですね。「NPO法人ケア・センターやわらぎ」という、東京都小金井市でやってるいちNPO法人の代表だった石川治江さんが、日本ではじめて24時間365日の在宅福祉サービスをスタートしたわけです。これは20世紀の話、というか2000年以降ですけど。

その中で、新しい画期的な介護サービスを立ち上げていって、いわゆるコーディネーター、今はケアマネジャーと呼ばれている、一シニア、一ご老人の方のケアプランを専門の人1人が全部総合的に作るというシステムを日本で最初に考えた人なんです。この人のやり方を、パブリックセクター側の人、厚生労働省のお偉いキャリア官僚の人がNPO法人ケア・センターやわらぎのところに毎週のように通った。

2000年に介護保険が日本に導入されるわけですけど、その介護保険の一番の骨格となるケアマネジャー制度は、国家がいちNPO法人のやり方をまねて国の制度として導入したわけです。まさにこれも、このときの厚生労働省の官僚というのはトライセクター・リーダーだったのでしょう。官僚でありながら、NPOのところにせっせと通ってノウハウを学んで、国の制度に取り入れていった。

石川さんもこの官僚もお互いにセクターの壁を越えて、今の日本国の介護保険制度の骨格を、NPOと国が連携して作り上げた。そういう具体的な事例なわけですよ。

トライセクター・リーダーって後付けでこういう概念があるわけですけど、過去の我々の先輩たちというか先達の人たちに、概念的にこういうセクターの壁を越えてやってきた人がたくさんいた。そういう発想で仕事をやる人が(あまり)いないですから、すごく差別化されてるわけです。だからこうやって成功するわけです。

今日はビジネスマンがすごく多いので、「トライセクター・リーダーって要はNPOとかソーシャルアントレプレナー(社会事業家)とかそういう人の話で、ビジネスはあんまり関係ないんじゃないの?」と思ってここに来てるわけじゃないと思うんですけど、日本のビジネスマンはあまり関係ないととらえてる人がだいぶ多い。

しかし、明日からの仕事、来年からの仕事に即結びつくような、セクターの壁を越えて仕事をしていくこと。ビジネスマンを中心に描いてる図(セクターの説明図)なんで公務員の方には恐縮なんですけど、今まではあくまで企業セクターの中で仕事してましたと。でも、人脈も視点もノウハウもセクターの壁を越えて仕事をすることで、ビジネスマンとして差別化できるわけですよ。

新規事業なり新しいビジネスの取り組みなり。結局はそれが、自分が属してる企業の価値を最大化できるいろんなノウハウの積み上げ方なりにつながっていく。そういうことをぜひ知ってもらいたいと思います。単一の枠におさまらない。それはセクターだけじゃなくて日本という枠なのかもしれないし、世界という枠でこれからはやっていく。そういうことが究極のテーマだと思います。

ということで、最初の「トライセクター・リーダーとはなにか」という説明を終わらせていただきます。じゃあ、次に30分くらい下村さんの今までのキャリア、相当すばらしい実績を残されてきたことをお話ししていただいて、その後にディスカッションと質疑応答をしていただきたいと思います。

NPOセクターとの出会い

下村:そういうわけで下村です。よろしくお願いいたします。着席で失礼いたします。後ろの方、「見えにくくて顔がわかんないぞ」ということがありましたらときどき立ちますから(笑)。

まずは、自己紹介からさせていただきます。30分ということで、だいたい7時50分ということでいいですか? アナウンサーをやってたもので、放送時間がちょっと気になって(笑)。なるたけ7時50分をめざしながら、ヒートアップしちゃったらすこし食い込むかもしれませんが、ご勘弁ください。

トライセクター・リーダーという話なんで、所属したセクター別に自己紹介をまとめてみました。まず1983年の「町田ハンディキャブ友の会」創設メンバーというところから、具体的にはNPOの世界に足を突っ込んだといいますか、ここから始まってます。当時はまだ「NPO」なんて言葉はありません。はるか後になって出てきて、TBSでも年配のデスクは「ンポ(NPO)ってなんだ?」とか言ってましたけどね(笑)。

ハンディキャブというのは、要するに「移動したいニーズがあるけど、目が見えないとか足が不自由とかで困難」な人たちと、「自分には時間もあって家に車もあるから運転代行をしましょう」という人とのマッチングをやるシステムですね。今はもう全国に広まってますが、その草分けに近い活動がたまたま私が住んでいた町田でスタートするということで、その創設メンバーに加わりました。

ほぼ同じ頃ですけれども、市民参加型の選挙運動というものにもたいへん興味を持って、町田の市会議員選挙に一匹狼で立候補していた人の選挙事務所を、学生ボランティアとして手伝いました。たまたまそこに、当時「社民連」という弱小政党から、泡沫候補と言われながら吉祥寺あたりで急に初当選した菅直人というド新人の若手代議士がおりまして、その町田の候補の応援演説にやって来て知り合った。そういうことがこの時期にありました。

以来、私の中では「政治」というよりは「市民運動」というくくりで市民参加型選挙とも関わり続けていきましたし、社会福祉系やら色々なグループとの関わりもこの「ハンディキャブ」から始まりました。ここで市民運動の世界を体験したことが、その後に他のセクターに移ったときにすごく効いてきます。これは追い追いお話ししますが。

TBSに入社し、情報発信について考え続ける

続いて、85年に大学を卒業しまして、TBSに入ります。TBSに入ったのも、軽く言いますと「町田市民テレビ」というこれまた“市民運動の中のメディア”と言いますか、全国初の都市型ケーブルテレビ(CATV)が町田にできるということで「これはおもしろい」と、学生時代から開局準備室というところで手伝っていたのがきっかけです。

そこは私の卒業と同時に開局予定のタイミングだったんですけど、延びちゃいまして。全国第1号は、色々越えなきゃいけないハードルが多くてね。結局「下村くん、悪いけど君が卒業する時点では新人社員はまだ採れない。どっかに移ってくれ」と言われまして。

そのとき、TBSの社員さんがお2人、技術指導でその開局準備室に来てたんですよ。「じゃあTBSに入って、そこから出向で町田市民テレビに来よう」というふうに作戦を変更して、TBSを受けて入ったということです。

だから全然ジャーナリズムの世界に入るつもりはなくて、市民運動の延長だったんですけれども、当時はまだTBSも懐が深くて……就職活動の面接で、今の(町田市民テレビの)経緯ばっかり話してたんです。そうすると「なんか面白いやつが来た」ということで、スルスルと通ってしまいまして。

最終面接は圧迫面接で、意地悪な役の重役さんが「きみ、ここはマスメディアだよ。マスの世界だよ。きみの話を聞いてると全部ミニコミとかミニの世界ばっかりなんだけど、来るところ違ってるんじゃないの?」と質問されました。今思い起こすと、そこで答えたことが本当にトライセクター・リーダーの考え方の原点だったんですけども。

そこで私が答えたのは「いや、マスの世界ばっかり興味があってそこに入りたいって言ってるやつを採るよりも、マスコミとかぜんぜん知らないけどミニコミなら好きですってやつを入れたほうが、マスコミが面白いことになるんじゃないですか?」と。それで、TBSに入社が決まったという経緯です。

入ったらなぜか……その年はアナウンサーの募集がなかったんですけども、当然一般職で入って「町田市民テレビ出向希望」とバカのひとつ覚えで言ってたんですが、急に配属で「アナウンサーやれ」と言われまして。「えー」と思ったんですが、さすがに新人が最初から出向はないだろうというくらいの常識はあったので、ひとまず「わかりました」と。

じゃあ町田市民テレビは得意の市民運動としてやろうと思って、TBSに籍をおきながら市民運動としての時間、つまり「社会人」の時間ですね。「会社人」じゃなくて社会人の時間の方はそこに充てていたということです。その後、町田市民テレビの開局イベントなんかも全部中心メンバーとして、一市民として思い切りやらせてもらいました。

いまや、町田市民テレビはOCN(小田急ケーブルネットワーク)から、さらにJ:COMへとだんだん大きな傘下に入っていく中で、市民テレビというすてきな名前が消えてしまいました。「市民」という言葉がなくなっちゃった段階で「これは違うな」と思いまして、そこで私は手を引いて、以後はTBS社員業に専念しておりました。

TBSで報道アナになったとき、まあ10年くらいはやろうかと思ってやっておりましたが、結局は意外と長くて。TBSを約15年で退社した後もフリーキャスターというかたちで、2010年までずっと情報発信、「どうやったら人々に情報が伝わるか」ということばっかり考え続ける四半世紀を送っておりました。