世の中で一番尊敬する父の教育

──辻さんの生い立ちについて教えていただけますか?

辻有吾氏(以下、辻):家族構成は、祖父祖母、父親母親、兄、私、弟の6人家族でした。育った環境は東大阪の森川市で、下町で周りは工場ばかりでしたね。

近隣の人たちもヤクザとか工員ばかりで、たまにサラリーマンがいるくらいの街で、地元のお祭りで数年に1回は事件が起きるような激しい街でもありました。

父親は西日本帝国軍海軍総長をやっていたような堅い大商屋の家で育った人で、母親は5人家族の一番末っ子で、恵まれた環境で育った人でした。

小中学生時代は家庭環境がおもしろくて、父親の教育方針がかなりユニークでした。私が子供の頃、学校で成績をもらうと父親とサシで飯に行くんです。

父親がおいしいと思ったところに連れて行ってもらえたので、そのときはとてもおいしいものを食べられました。父親としては僕らの舌を鍛えていたようで、まともなところでまともな空気に触れてまともなものを食べさせていたわけです。

食事中に「成績はどうだったか過去を振り返れ」とか「なんでハンバーグはハンバーグというのか?」「ステーキの火が通っていないと思うけど、なんでだと思うのか?」などという小難しい話を2〜3時間もされたのを覚えています。

休みの日には美術館に連れて行かれて、一番有名な作品の前に30分くらいずっと立たされたり、絵画の縁の外の世界を想像して見るように言われました。イメージを働かせることを重要視していた父親でしたね。おかげでモノに対する良し悪しの判断を鍛えられました。

法事、仏教、神道などの行事はものすごく大切にしている父親で、時代は変わっても原理原則は変わらんというのが口癖でした。

そのような倫理観で仕事をしており、今も税理士として仕事をしています。僕はそんな父親を見て育ったので、世の中で一番尊敬する人は父親です。

父親は兄に対しては、「絶対に大企業に入って親方日の丸の仕事をしなさい」と言い、私に対しては、「君は自由だから、家とか家督に一切縛られずに生きて良い、大企業には合わない」と小さい頃から言われ続けていました。

弟は街中を歩くと友達がたくさんついてくるような人でした。3人とも変わった兄弟でしたね。母親は典型的なB型九州女なのでいつも笑っていますし、家の中は常に楽しい環境で育ちました。

ダンスとスポーツに明け暮れた学生時代

──どのような学生時代を過ごしていたのでしょうか。

:小学校からずっとブレイクダンスをやっていて、ストリートダンスをやっていました。当時ナイキのウィンドブレーカーがほしくて、親にせがんで買ってもらえないと自分でバイトして買っていました。とにかく達成欲求が強い子供だったんですよ。

中学校では地元の先輩に引っ張られて、ソフトボール部に入っていました。チームは強豪で普通に近畿大会に出場するようなチームで練習は厳しかったです。やりだすととことんやる人間でしたので、決勝戦まで行きました。

中学2年生まではブレイクダンスをやって空手、合気道、格闘技もやっていたので、大忙しでした。空手ではジュニア大会で表彰されました。昔からやりきるまでやらないと気が済まない人間でした。

学校では中心人物で、先生から「あなたは目立つんだからしっかりしていなさい」と言われていました。中3では生徒会長をやっていました。

高校ではサッカーをやりたかったのですが、先輩に「辻、お前サッカーなんかあかんぞ」と言われてソフトボールをやりました。その高校ではソフトボールを練習する環境が整ってなくて、体育学科や校長先生に交渉してなんとか週1回グランドを空けてもらいました。引退するまでにはまともに練習できるようになっていました。

大学受験のときに大阪商業大学で体育推薦の不正があり、僕らのスポーツ推薦の枠が突然なくなって、勉強もしてないので一般入試は無理だったため、公務員になろうと思いきや、ちょうどバブルがはじけて公務員倍率が300倍になり、見事に落ちて、人生うまくいかんなと思っていました。そのときくらいから父親と将来についての話をして、将来は絶対会社を起こすと話していました。

そんなある日の夜、遊んで家に帰ったとき、兄に「大学行かずに大学に行く必要がないなんて負け犬の遠吠えしてんじゃないぞ」「将来親の法事に泥まみれの工場服で来るなよ」と叱られて、兄の言うことが実に正しいという思いになりました。

父親に、昼働いて夜学でいいので大学に進学する意を伝え、入学費と受験費をお願いした結果、入学費は貸してもらえ、受験費は出してもらいました。結果的に大学に行ってみて、大学に行くことは必要やなと思いましたね。

学生生活は好きなことを好きなだけやって楽しんで、紆余曲折ありましたけど、そんな学生生活でした。

社会人1年半で部長に就任

──社会人時代について聞かせてください。

:父親に、「起業するためにもまずサラリーマンをやってみろ」と言われ、ベンチャー企業を探しました。就職するときには、「石の上にも3年だ」と言われ、まずは3年間と腹を決めて就職しました。

そして「最初の3年で部長という肩書きが取れなかったら起業は断念しよう」と決めて働いていました。また10年間1つの仕事でやり遂げることを決めて仕事をするように言われたので、(当時18歳)28歳までに創業することを考えていました。

結局1年半くらいで部長という肩書きは手にできました。自分の人生がかかっていたので、この小さな組織の中で勝てなかったら世間の人間には大きなことで勝てないと考えて、真剣に働いていましたね。

例えば営業成績で1日のレコードを大きく塗り替えたりして、土日以外はほぼ毎日契約書握っていましたね。そのためにいろいろなことを犠牲にしていました。

朝一番で資料の準備からはじめて、帰ったら必ず鏡の前で営業トークの練習。上司から言われるであろうことはあらかじめやっておいて、上司から「こういう資料ほしい」と言われたら「もうできています」と言えるように、意識して準備をしていました。

社会人時代の挫折経験

──その若さで気がまわるのは辻さんの生い立ちと関係しているのでしょうか。

:自分のことは自分でしっかり責任をとって生きるという環境で育ったからですかね。父の口癖で「言われてやるのは3流、言われてすぐやるのは2流、言われなくてもやるのは1流」というのがあって、僕は学歴もないため、天才に勝てるのは習慣だと思って仕事をしていました。できる限りいろいろなことを習慣化することを自分に課していますね。

──辻さんの挫折経験についても教えてください。

:高校生のときに、僕が外でやんちゃなことをしたがために停学になり、ガンで入院中の父親が謝りに行かなくてはならないことがあり、そのときはきつい思いをしました。二度としないと決めて復帰はしました。

社会人の3年間では、僕のことが嫌いな上司に子会社の立ち上げを命ぜられたり無茶振りされていじめられていました。なかでも一番きつかったことは、入社1年目で年上のベテラン社員15人のリストラを命じられたときでした。

僕のことをかわいがってくれた人たちもいたので、本当に辛くて夜も眠れなかったです。そこで父親に相談したら、「君が一生懸命になることが重要なんじゃないか」と言われて、肩の荷がおりましたね。半年で綺麗にみんな辞めてもらいました。けれど誠意は伝わっていたと思います。

今思うと本当にいじめでしたね。周りには折れるだろうと思われていましたが、鼻っぱしも折れなかったです。25歳くらいの多感な時期に人間のいいほうと逆のほうに触れて、挫折感も味わって辛かったですけれど、今思うとむしろ感謝しています。

人材派遣会社で起業をスタート

──辻さんを起業に踏み切らせたきっかけ、背景について教えてください。

:当初決めた通りにサラリーマンをして、部長にもなれたので3年きっかりで辞表を出しました。自分との約束は守ったと思うので。当時の僕は起業ありきでした。

けれど一瞬悩んだ時期がありまして、息子が生まれた時期ですね。不安定な世界へ飛び込んでいいのか悩んでいましたが、家内に「私と子供を食べさせるためにだけに起業を断念したりはしないでね」と言われ、ハッとしました。そうして起業に踏み切ることができました。

──創業からどのような壁につきあたり、どのように乗り越えてきたのでしょうか?

:会社を辞めてしばらくして、仕事でお付き合いのあった社長さんが、おもしろい人を紹介してくれるということでお会いさせていただきました。

その人に会って食事に連れて行ってもらい、生い立ち、家族構成、親の教育など3〜4時間くらい聞かれました。次の日に電話をいただいて事務所に行くと、3,000万円をいきなり通帳に振り込んでくれました。「月の金利は1.5パーセントで10ヶ月で返すように」ということでした。

僕も厚かましいので、「お金だけもらっても、客がいなければ仕事をまわせません」と言うと人材派遣ビジネスについて教えていただき、佐川急便を紹介いただきました。佐川急便倉庫内での作業請負の仕事です。

その仕組みでならお金を返せると思い、人材派遣会社を始めました。実際には、どの業者もすぐに撤退するほど厳しい現場でしたが、「俺の起業一発目はここかーっ、よし今日からここで俺はやったろー」と思いましたね。

最初に重要なのはリーダー作りやと思って、僕にNOと言えない地元の後輩を連れてきて最初は10人くらいからスタートしていきました。

やはりすごく激しい環境でした。仕事場の休憩室で事業シェアを取り合っている同業の社員と争いになったこともしばしばありました。そんな環境のなか、僕らはなんとか勝ち残ることができました。

資金繰りの苦労を乗り越えられた理由

当時僕が注意していたことは、"チームワーク"と"絶対に引かない姿勢"です。僕を中心にチームワークは強かったと思います。争いになるような激しい環境下でも「いざとなれば大将(辻さん)が絶対に守ってくれるから、絶対に引かない」ということを徹底し、団結していました。

僕にとってのターニングポイントは当時のセンター長が変わって、その人はたまたま僕に資金援助してくれた方とつながりがあり、おかげで仕事が一気に3倍になって兵庫県のNO.1シェアになりました。

──多くのスタートアップは最初の資金繰りで苦しみますが、立ち上げ期の資金面について教えてください。

:僕の場合は、最初に3,000万円貸してくれた人のおかげで最初はお金がありました。10ヶ月たったころに初めて銀行借り入れをしました。すでに売上が回っている状態でしたが、銀行の支店長が会ってくれずに口座開設には苦労しました。

支店長が出てくるのをひたすら待ってとにかく通いました。暇を見つけたら通う。アポなしでただ通う。名刺を出して通帳も見せてとにかく全部見せました。話を聞いてくれるようになってからは少しずつ道は開けていきました。

最初に3,000万円の資金を出してくれた社長には結果として1億円くらい返しました。僕を見込んでいたので、お返しをするのは筋だなと。

その人の無茶振りがあったからやっていけたと思います。それがすべてですね。いまだにその人とはしょっちゅう電話しますし、食事にも行く仲です。