脳の秘密の鍵を握る男

ハンク・グリーン氏:あなたはどうやって物事を記憶していますか?

あるWebサイトは愛する人と時を過ごすべきだといい、旅行サイトは美しい場所への旅に出よといっています。そこで僕は、このSciShowのエピソードを何度も繰り返し、頭にすり込まれるまで見よといいたいと思います。

脳科学者に尋ねると、彼らは揃ってヘンリー・モレゾンという男の名前を挙げるでしょう。1953年、モレゾンは手術で脳の一部を取り除いたため、長期記憶の能力を失ってしまいました。そしてこの1件は、それまでの人間の記憶に関する解釈を覆したのです。

1950年代になるまで、脳が経験を記憶に変え、それが後に思い出されたり、追体験されたりする仕組みについてはほとんどなにも知られていませんでした。科学者たちはどうにかその秘密を解き明かそうと努力し続けていましたが、人間の脳の中を覗くfMRIのようなテクノロジーはまだなかったのです。

動物実験や死んだ人間の脳を使った研究などの結果をもとに、記憶は脳全体に蓄積されていると考えられていました。脳の一部を負傷すると記憶喪失になることがあるため、そう考えるのも当然のように思えます。

だから、ヘンリー・モレゾンに対して自分たちがやろうとしていることの意味がわかっていなかったのです。

脳の一部を手術で取り除いたら

幼いモレゾン少年は、自転車に乗っている最中に頭をぶつけて以来、発作症状が出るようになってしまいました。1回だけでなく、何度も繰り返し、激しい発作に襲われました。担当医師たちはありとあらゆる治療法を試しましたが、モレゾンが26歳になる1953年になってもそのうちのただ1つさえ成功していなかったのです。

ただし、彼を救う方法が1つあると研究者たちは考えました。発作の原因となっている脳の一部を手術で取り除くのです。そして実際に、モレゾンの内側側頭葉から手の指サイズの部分が2つ、手術で取り除かれました。

具体的に言うと、海馬、扁桃状部、脳皮質の一部です。これらは脳の中でも重要な役割を果たしていることが今ではわかっているので、みなさんもしかしたら名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。しかし当時は、それらを取り除くことの意味について、研究者たちでさえ知る由もなかったのです。

手術を終え目を覚ましたとき、モレゾンは自分の名前や子供の頃のエピソードは思い出せましたが、新しく何かを覚えることができなくなっていました。医師の手によっても、失った記憶を取り戻すことはできません。しかしモレゾンの生きている間、医師や研究者はモレゾンの事例からできるだけ多くを学ぼうと努めました。

そうしてわかったのは、海馬が記憶の形成や保存に大きな役割を果たしているということでした。また、長期記憶と一口に言っても、その記憶を管理する脳の部分によって、さまざまな種類があることも判明しました。

長期記憶とは、みなさんが考えているほど長くなく、基本的に約30秒経っても頭の中にある記憶のことをいいます。そして、長期記憶の中にも2つの種類があります。1つは宣言的記憶、あるいは陳述記憶と呼ばれるもの。もう1つは手続き記憶、または非陳述記憶と呼ばれるものです。

宣言的記憶は人間が意識的に何かを行う際に必要で、モレゾンが形成できなくなった種類の記憶です。ここには、子供の頃の誕生日パーティの思い出など、ある期間と場所におけるエピソード記憶、そして、時間や場所に関係のない事実やアイデアに関する意味記憶が含まれます。

一方、自転車の乗り方や靴紐の結び方といった、学習によって覚えるものが手続き記憶です。手術以降、モレゾンは新しい事実を覚えられなくなり、イベントに参加しても時間が経てばすべて忘れてしまうようになってしまいました。人と知り合っても、その人がドアの向こう側に消えた途端、すでに記憶からいなくなっているのです。

ただし、そんなモレゾンにも手続き記憶の能力はまだ残っていたため、2種類の長期記憶はそれぞれ脳内の別の構造によるものだと、医師たちは発見しました。例えば、鏡に引かれる線をたどるといった、運動神経に関わるスキルを習得することは可能で、しかも訓練によって反応のスピードも上がっていきました。

モレゾンの脳が語ること

手術後、モレゾンは多くの医師たちの研究対象となりましたが、個人情報を守るため、公にはH.M.という名で呼ばれました。しかし2008年の死をきっかけに、彼の実名が初めて公表され、モレゾンが人間にとっていかに大きな功績を残したかということが医師以外の人たちにも知られるようになったのです。

また、モレゾンは死後も、僕たちに人間の脳について多くのことを教え続けてくれています。彼の脳は科学の世界へと寄付され、科学者たちは研究を通じて、モレゾンに施された手術の意味を少しずつ明らかにしてきました。

死を迎えたモレゾンの脳は、まず取り除いて凍結保存され、その後、実験用に薄く、2401の部分へと切り分けられました。これらを使って、2014年には3Dによる脳の復元が行われたそうです。

これにより、モレゾンは海馬の全体ではなく、大部分を失ったのだと判明しました。彼が負傷によって失った記憶システムの穴を、わずかに残った海馬では埋めることはできなかったようです。

モレゾンは、科学に対する自分の貢献度の高さを知ることはなかったと思われます。しかし、彼の生涯と死は今でも、僕たちに人間の記憶と脳について教え続けてくれているのです。