モーガン・フリーマンの役者人生のスタート

モーガン・フリーマン氏(以下、モーガン):皆さんこんにちは。

司会:フリーマンさん、あなたは興味深い幼少期を送ったようですね。シカゴから南へ引越し、そしてまたシカゴに戻って来られた。幼い時から、とても大きな役を演じて来られたのですね。幼少期のあなたがなりたいと思っていたものと、それを思った瞬間を教えてください。

モーガン:私はとても早い段階で役者になっていました。私が8歳の時、初めてステージに立ちました。私は輝いていました。4年後の12歳の時、私はまたステージに立ち、その時もまた輝いていました。だから私は13歳の時には、みんな当然に私が役者になるものだと考えていました。先生や両親たちには、良くない振る舞いをしました。私は彼らに感謝したくありませんでした。

司会:あなたの両親について、特にあなたを支えてくれたお母さんについて教えて下さい。

モーガン:私の最高の観客です。いつの思い出にも母がいます。

司会:あなたがティーンエイジャーのとき、戦争映画に魅了されていましたよね? それがあなたがパイロットになろうとしたきっかけだった。そして30歳で役者になる前、あなたはアメリカ空軍でしばらく過ごしましたね。

その経験が、あなたの役者人生をどのように形作ったのか。そして、軍で過ごした時間から何を学んだのか。教えて下さい。

モーガン:多くのことを学びました。私は、常に映画の世界に入りたいと考えていました。第二次世界大戦の時、暇な時間があると私はいつも映画を見ていました。

15歳の時、私はパイロットになる決意をし、飛行学校で多くの苦労を経験しました。飛ぶことと、感覚がなくなるということを教わりました。高度1万5千メートルまで上昇するのですよ。

世界のどこかにあるミシシッピ川を探して写真を撮るなら、私は飛びたくなかった。私は、戦闘機のパイロットには慣れないと気づきました。しかし、残念なことに、軍は私をクビにしなかった。あなたには、軍の権威を疑って欲しくない。

私は、カリフォルニア州のノース・アイランド海軍航空基地に異動しました。そして、T-33ジェット練習機のコックピットに座ることができました。目の前にジョイスティック、グラス、ノブ、ダイヤル、そして赤いボタンが見えました。それが、私が役者になろうと決めた瞬間です。

ポール・ニューマンの映画で人生が変わった

司会:なるほど。役者になるかパイロットになるか、どちらを選ぶかの選択について、お聞きしますね。

モーガン:それまでは何も考えていませんでした。1つあるとすると、1980 年12月、私の最後のテレビ映画が終了しました。1981年も、1982年も、オファーの電話は掛かってきませんでした。

私は何をすればいいのか、何をしたいのか、わからなくなりました。運転手の免許を取っていたかもしれません。営業免許を取りに、タクシー・リムジン委員会に行くつもりでした。

行こうとした前日に、私の代理人から電話が掛かってきました。「ポール・ニューマンが出演者を探しています」と。私はポール・ニューマンに会いに行きました。ハリー役を探すオーディションで、彼はその役が既にキャスティングされていると言いました。私でした。「私は、以前からあなたに注目していました」と、彼は言っていました。

ポールは、プロデューサー・ディレクターのスターであり、私は大きな仕事を手に入れることができました。彼に出会えて本当に良かった。私の2人の娘は、この出演を快諾してくれました。なぜなら彼女たちと私は、オフ・ブロードウェイの作品で彼に会ったことがあるからです。

そこからは、まるで漫画のように右肩上がりの役者人生でした。私は、結局別の役を演じることになりました。Siemanowskiの役です。

私はある日突然、お金を掴み取りするように稼ぐことができる仕事を手に入れました。9月と10月には、テレビの仕事や、オフ・ブロードウェイの仕事が入り、そして1月には『ハリー・アンド・サン』という映画の仕事が入りました。だから、私はタクシードライバーにならなくて済みました。

演じてきたすべての役が楽しかった

司会:あなたは、ブロードウェイ、テレビ、映画(film)、どのタイプの仕事が好きですか?

モーガン:どのタイプでもないですね。私が特段好きな映画(film)はありません。私はいつも、映画(movie)の中に入りたいと思っていました。私の本当の夢は、舞台俳優になることではなかったのです。

本当の夢は、誰でも知っているような有名な映画(movie)に出る映画(movie)俳優になることでした。だから、どのタイプでもないのです。映画(movie)で演じることは、私の最も好きなことです。私は、多くのテレビ番組に出演し、20年もステージに立ってきました。それらも楽しいのですが、しっくりこなかったのです。

司会:あなたが演じてきた、数多くのジャンルの映画の中から、特に楽しんだ映画は何ですか?

モーガン:ありません。全て楽しかったです。どんな役でも、なりきることができます。だから、警察官も、消防士も、医者も、弁護士も、すべて好きです。

司会:それらの役を演じるために、どんな準備をするのですか?

モーガン:台本を読みます。それだけです。もし、まだ生きている人や、最近まで生きていた人を演じるなら、その人がどんな人か知るだけで十分です。その人について調べすぎると、演じるときには間違った真似事になるだけです。

ネルソン・マンデラを演じた際のエピソード

司会:『インビクタス/負けざる者たち』でネルソン・マンデラを演じたことについてお聞きします。どのようにしてマンデラについて探求し、彼になりきって演じたのですか?

モーガン:私がこれまで存命の人物を演じたのは、『ワイルド・チェンジ』で校長のジョー・クラークを演じたとき以来です。彼は、校長なのに、学校で毎日銃を撃つのです。本当に信じられない男です。私は、彼の喋り方や言葉に影響を受けています。

司会:彼が、あなたの演じるマンデラを形作ったのですか?

モーガン:そうですよ。マンデラは、『自由への長い道』を出版しました。記者会見でレポーターが、「もしこの本が映画化されるとしたら、誰にあなたを演じて欲しいですか?」と聞きました。そしたら彼は、私の名前を挙げました。

私は彼に会い、映画化に向けた会議をするために、プロデューサーを通じてヨハネスブルグの奥地まで行きました。そして彼に会い、私が彼をどれほど尊敬しているかを話しました。もし私が彼を演じることになるとすれば、私は彼に会いに通わなければなりません。

彼は快諾し、握手を交わしました。私たちは場所を変えながら、数年おきに彼に会っています。モナコ、ワシントン、ニューヨーク、メンフィス、テネシー。会うときには、作品をどうするかについて話しています。音以外は、手紙でもいいと思いますけどね。私は彼につきっきりなわけではないので、彼の発音も知る必要があります。

司会:マンデラ役を演じるために数年間も準備をされましたが、もっといい演技をするためには、もっと時間が必要だったと感じませんか? 若い俳優たちは、そうすることもあります。

モーガン:役によりますね。台本が手に入れば、それを読む。それですぐさま、その役のキャラクターを形作っている背景が分かります。

他の俳優たちの中には、その役の演じ方を聞いてくる人もいます。しかし私は、台本を使って、その役の特徴について少し教えるだけです。ページを開いて、演じる役のイメージを持つのです。

私は、役作りのための準備をあまりしません。私は、メソッド・アクターではないのです。私は台本を読んで、そこでつまずきます。ハーバード・バーグホフは、私のことを「直感的な俳優になってしまっている」と評しました。作り話ですけどね。

『ショーシャンクの空に』は成功したとは言えない

司会:では、『ショーシャンクの空に』についてお聞きします。この作品は、今日ではこれまでで最も素晴らしい映画の1つとして、広く世に知れ渡っています。そして、あなたの3回目のアカデミー賞ノミネート作品でもあります。

この作品を通じて、あなたはどんな経験をしましたか? 人々がこの映画に対して思うことは、時とともに変化したと思います。また、この作品は大金を生み出して成功を収めたように思うのですが。この作品が成功に向かっていく中で、あなたにとってどんな変化がありましたか?

モーガン:いいえ、この作品は決して成功したとは言えませんよ。あなたにとっては最も楽しめた最高の映画かもしれませんが。私がこの『ショーシャンクの空に』の台本を読んだ時には、私がどの役を演じるのか知りませんでした。そこで代理人に「すぐにどの役を演じたらいいのか教えろ」と電話しました。そうしたら、「どの役がやりたいのか?」と返されました。おかしいでしょう?

司会:では、あなたは何をもってその作品が成功したと判断するのか、教えていただけますか? 観客は、興行収入かアカデミー賞をバロメーターにしているのだと思っていますが。

モーガン:その両方です。『ショーシャンクの空に』の興行収入は厳しいものでした。良い評価は得られたものの、この作品の名前を呼ぶ者は誰もいませんでした。宣伝をしっかりしなかったので、口コミが広がりませんでした。もし宣伝をしっかりしていたら、口コミが広がっていたかもしれません。

この失敗を『ショーシャンクの恥』とか『ショーシャンク・ショック』と呼んでいます。ある日、ロサンゼルスでエレベーターに乗った女性が言いました。「あら、最低な作品ね」と。それは、興行収入を見て言ったのではありません。口コミが広がらなかったからなのです。

神を演じたからといって何が変わるということはない

司会:質問を変えましょうか。あなたが演じた役で一番有名なのは、『ブルース・オールマイティ』で、神を演じたときでしょう。今回の聴衆の中でも、多くの人々がそう思っていると思います。あなたはこの作品の中で、宗教について無茶苦茶なことを言ったり、人類の創造主と呼ばれたりしました。この作品で神を演じたことで、あなたの中で何か変わったことはありますか?

モーガン:そんなものないですよ。神を演じることで、自分自身を変えられる人がいますか? いるならやってみろって言いたいですね。私はこの役を演じて良かったのでしょうか。ローブを着るだけですよ。他の役者がこの役なら、きっとぼーっとしていることでしょうね。だったら私がやるのがふさわしい。

司会:数多くの有名な役者と共演されてこられましたが、その中でも、あなたが役者デビューして間もない頃、あなたに影響を与えた役者は誰ですか?

モーガン:シドニー・ポワチエです。彼は、黒人俳優の先駆者的存在で、私は彼に影響を受けています。私が映画俳優を志したのも、彼の影響です。

司会:黒人俳優について、また、あなたがかつてアフリカ系アメリカ人と呼ばれることを嫌った理由について教えて下さい。

モーガン:私は、アフリカ系アメリカ人であることを嫌っているわけではありません。そう呼んでほしくないのです。

ハリウッド映画の最低限の義務とは

司会:分かりました。では、人種問題についてお聞きします。あなたは、これまでの俳優人生の中で、差別に遭ったことはありますか。そして、今日でも起こっている、ハリウッドでの人種問題について、どうお考えですか?

モーガン:ハリウッドで人種問題があるとは思いません。1970年代には、ありとあらゆる人がいましたから。我々は、成り上がり者を受け入れないといけない。

私は、70年生きてきて、様々な真実を学びました。オジー・デイヴィスが監督した『ロールスロイスに銀の銃』という映画があります。この作品は大金を稼ぎ、ハリウッドは緑一色、つまりお金の色に染まりました。

お金を稼ぐことは良いことです。しかし、壁は荒れ果てていきました。ブラックスプロイテーションの時代が始まった時でした。あなたは生まれてなかった時かもしれませんね。

司会:私は30歳を過ぎたところです。引き続き、差別についてお伺いします。ここ数年で、歯に衣着せぬ女優がとても増えたように感じます。ハリウッド作品における、女性の不平等な描写についてお聞きします。男女平等が実現されていると思われますか?

モーガン:メリル・ストリープ、ケイト・ブランシェット、ジュリア・ロバーツ、レネー・ゼルウィガー、ニコール・キッドマン。彼女たちが不平等に描かれているとは思えません。

司会:あなたは、ハリウッドは緑一色に染まり、そして素晴らしい女性がたくさんいるとおっしゃりました。そこでお聞きします。ハリウッドは、女性の権利を明確に示す義務があるか、もしくは異なる道を示すべきか、どう思いますか。

モーガン:ハリウッドのポリシーは、何をするにしても、常にビジネスとして行なうことです。それが義務でもあります。だから、大きな馬が茂みに走ってきたら、お金を稼ぐために映画を作り、馬を走らせているということです。お金を稼ぐこと。それが最低ラインです。