核爆弾を生み出したマンハッタン計画とは何だったのか

ハンク・グリーン氏:悲しいことですが、科学の素晴らしい進歩は、博愛よりも破壊的衝動がもたらすという避けようのない事実があります。例えばドイツの科学者フリッツ・ハーバーは、第1次大戦の際に空気中の窒素を固定する方法を見つけ、人を殺傷する巨大な爆弾を作り上げました。その一方でこのテクノジーは、地球を養うこともできる、画期的な世界初の化学肥料を生み出しました。

同様に火薬は、古代中国の錬金術師が発見し、その後西洋人によって発達し、世界の半分を征服することに使われました。力強い科学の法則を発見したこと、そしてそれを使用することに対して、科学者に罪はありません。その良し悪しは、世界がその発見をどのように使用するかにかかっています。

なぜなら、使い方によって発見は人類への恩恵にもなるし、破滅にもなるからです。

ここに一例があります。第2次世界大戦中、数年にわたって国際間で行われた、核爆弾開発のマンハッタン計画です。このプロジェクトには20億ドル、今日の価値に換算すると約250.8億ドルが使われ、アメリカ、英国、カナダ中の優秀な科学者、物理学者、エンジニアが4つの核兵器の開発に関与しました。

最初のテスト爆弾ガジェットは、ニューメキシコ州の砂漠で行われ、2つ目のリトル・ボーイは日本の広島に投下され、ファット・マンは日本の長崎に投下され、4つ目は幸いなことに一度も使われていません。

なぜなら、この爆弾が私たち人間自身の命とそのほか地球上の生命をも破壊すると理解されたからです。

核爆弾は、第2次世界大戦を効果的に終わらせました。しかしそれはまた同時に、すべてを燃え尽くす核戦争の恐怖に世界中が常に怯える、50年にもわたる冷戦の幕開けとなりました。

原子爆弾と通常兵器の違い

マンハッタン計画は、原子に関する多くの情報をいち早く獲得する責任がありました。このトップシークレットの爆弾のプロジェクトの存在がなければ、これらの物理学者が協力することも、核に関する科学の進歩が得られることもありませんでした。その科学について、今も私たちは学び続けています。

原子爆弾を発明する以前、人類はTNTや硝酸アンモニウムなどいった物質を混ぜ合わせて爆発させる、通常兵器を使ってお互いや器物を破壊していました。

通常兵器のエネルギーとは、非常に圧力のかかった、音よりも早いスピードで移動する空気がもたらす爆風でした。この爆風によって、大きな爆音がもたらされます。

最初の火の玉を伴う爆発では、どのような成分によって爆弾が作られているかによりますが、真空が爆発の周辺に形成され、その真空を空気が急激に満たすことによって起こる爆風が形成されます。

これに対して原子力爆弾は、不安定なウランやプルトニウムなどの放射性同位体を爆発物として使用します。

1つの中性子をこれらの放射性同位体の原子で発火させると、原子が分離し、その他の中性子と衝突します。この衝突が連鎖的に起こることを核融合といいます。

この一連の動作はたった1ピコ秒(1兆分の1秒)のうちに起こり、信じられないほどの高温エネルギーがもたされます。

そのエネルギー放出量はとてもパワフルです。なぜならそれは物理学の世界ではもっとも知られている、中性子や陽子を結びつける「強い力(強い相互作用)」と名付けられているエネルギーを放出するからです。

「強い力」は、原子核として陽子と中性子を近くにつなぎとめている力です。また、それらを近づきすぎないようにもしています。張りつめたダイナミックな亜原子の押し引きの力が働いています。

このパワフルなエネルギーが放出する力は、1キロの核融合の燃料の場合、2千万キロ分ものTNT爆弾に相当します。

核のエネルギー放出のうち、約50パーセントが通常兵器のような爆風であり、35パーセントが熱で、残り15パーセントがガンマ線、中性子、アルファ、ベータなどの粒子です。放射性パルスは、爆風のあとの燃料のゴミである核降下物(死の灰)を伴い、放射性崩壊をもたらします。

1932年までは、この理論が実現可能とは誰も知りませんでした。ユダヤ系ドイツ人のレオ・シラードが、核物質の化学連鎖反応によるエネルギー創出の理論を初めて打ち立てました。

その6年前には誰一人融合という概念すら知らなかったのですが、シラードは、のちに発見された中性子という理論実現へのカギを手に入れていました。ひとつの原子がエネルギー生産反応を引き起こし、その反応が連鎖的に次の原子エネルギー反応を生み出すのです。

こうしてシラードは、世界で初めて原子爆弾の特許を取得しました。それは爆弾を作ることを目的にしていたのではなく、特許を持っていれば、誰も作ることができないからです。頭がいいですね。

ドイツの政権に就いたナチスの手から守り、法律の下で機密扱いにするため、シラードは1936年に英国政府へ彼の特許を移譲しました。彼以外の原子爆弾の製造に加わった人たちとは違い、シラードはのちに原子爆弾が絶対に使用されないよう、熱心にキャンペーンを行いました。

ナチスやイタリアのでの生活を知っている多くの科学者にとって、核融合の科学的謎を解かずにおくことは、すでに選択肢ではなくなっていました。なぜなら、世界大戦でヨーロッパが二分されるころには、ドイツのベルリンの物理学者チームが核融合を確立してしまうとの予感がシラードにはあったからです。

そこで1939年、シラードやナチスから逃れてきたユダヤ人のアインシュタイン、ファシズムのイタリアからユダヤ人の妻と逃げてきたエンリコ・フェルミら影響力ある物理学者らが結束。

ナチスが核融合の謎を解決する前に原子研究のプログラムを開始するよう、フランクリン・ルーズベルト米大統領に圧力をかけ始めました。ルーズベルト大統領は、優秀な物理学者、化学者、エンジニアを集めて、どのようにウランやプルトニウムから兵器を作るのかを研究させました。

プルトニウムは、自然界に存在しない元素ですが、ウラン238から生成することが可能でした。これがのちに知られるウラン委員会となったのです。のちにマンハッタン計画として知られるこの科学プロジェクトの重要部分は、軍部と民間との協同チームによるこの委員会によって主に成し遂げられました。

この委員会にはアーネスト・ローレンス、ハロルド・ユーリー、アーサー・コンプトンなどのノーベル賞受賞者も含まれていました。

ウラン235の抽出という課題

最初は誰も爆弾を作ろうとはしていませんでした。まずは適切なウランをどのように隔離して連鎖反応を引き出すかという方法を模索していました。

というのも、核兵器のためのウランは産出されるものではなく、作り出さなくてはならなかったからです。核兵器の原料が地表から産出されるよりは、そのほうが良かったと僕は思います。

自然界にあるウランは、実際には2つの同位体(元素)の混合物であり、それはウラン原子核の核子の数の違うウラン235とウラン238です。核子の数の違いによって、中性子の衝突の際に違う反応をが見られます。

ウラン235は非常に不安定なウラン236になり、そのためウラン238よりも簡単に分裂します。それが余分な中性子を吸収し、非常に安定し分裂しないウラン239になります。

この委員会での研究では、どのようにウランを濃縮するかということに資金と時間がかけられました。つまり、自然界ではウラン238の1パーセント以下しかないウラン235をどのように隔離するかということです。

これを行うには、ウランとフッ素を混合させ、同位体(元素)を抽出させるガスを形成させます。

問題は、大規模な爆発に必要とするウラン235はどれだけ必要か、ということでした。

核融合の連鎖反応を起こすに必要な最低量はどれほどか、中性子はどれだけ速く燃焼されるべきか、といった疑問も挙がりました。

これらのどれもが想像できるように難題でしたが、物理学者らはこれらの問題を数年かけて解くことに成功しました。

1942年までには、初期のパズルは解かれ、プロジェクトはマンハッタン管区というコードネームを持った米軍のエンジニアリング施設に移譲されました。

研究はアメリカ国内の3か所で続けられました。1つはテネシー州のオーク・リッジ、ニューメキシコ州のロス・アラモス、そしてワシントン州のリッチランドです。

たくさんの燃料を使うこと、新しいテクノロジーを発明して爆弾を作ることなどから、最終的にプロジェクトはロス・アラモスに集約されました。

広島・長崎に投下された2つの爆弾

「迅速な破裂のコーディネーター」というたいそうな肩書のアメリカの若き物理学者、ロバート・オッペンハイマーが爆弾製造のオペレーションを監督しました。

ロス・アラモスでは2つの機械を製造しました。1つはウラン、もう1つはプルトニウムで補充されたものです。

最初の爆弾ガジェットはプルトニウムを搭載され、1945年7月16日にニューメキシコで投下されました。このときのコードネームはトリニティでした。地上で初めて原子爆弾が地上で破裂した日でした。朝早く、16キロ先からも爆発の熱が即座に感じられ、日の出よりも明るかったということです。

テストは成功でしたが、その後、オッペンハイマーはヒンズー教の聖典から引用し、次の言葉を残しています

「私はヒンズーの聖典、バガヴァッド・ギーターの一文を思い出した。ビシュヌ神は、王子が彼の任務を全うするよう説得するために、複数の手を見せて、言った。“私は死神になった。世界の破壊者だ”」

その1カ月後に何が起こったのか私たちは皆知っていますが、プルトニウム爆弾のテストが長崎で行われました。ウラン爆弾は広島に投下されました。少なくともこの爆弾は18万5000人を殺しました。

すぐに戦争は終わり、原子力の時代が訪れました。豊富なウランを手に入れた人々の手によって、いつすべてが破壊させられるのかと、世界は絶え間なく心配することになります。

またこれは、アメリカとソビエトがお互いに核弾頭を対峙させながら、毎日、休む間もなく対立した、約50年にも及ぶ冷戦の始まりでした。

マンハッタン計画の光と闇

巨大なマンハッタン計画には、良い部分と悪い部分がありますが、とてつもない核エネルギー技術の開発を助けました。

マンハッタン計画はまた、癌などの医療イメージ診断と治療の役に立っています。現代の幹細胞研究もその源流はマンハッタン計画にあります。

わずか数年の間に確立された新しい原子力についての理解ですが、もしこの機会に達成してなければ、数世代もかかったであろう核に関する化学と物理の解明において多大な進歩をもたらしました。

このように1930年代、40年代には不可能だったことを成し遂げました。目で見ることのできない粒子を私たちは見つけ、それを分離する方法を発見し、そしてこれまでに想像もしたことのない最悪の兵器を作ることもできました。

しかし核爆弾を製造した後の私たちは、この知識を良いことに使っています。ですから、複雑ではありますが、こうしてこの科学のお話を家庭にお届けしています。ご自身でもどうぞ歴史を紐解いてみてください。

この恐ろしくも、科学に光明をもたらすScishowエピソードをご覧くださりありがとうございます。