イスラム教は平和的な宗教なのか、現実的な討論の試み

アナ・マリー・ウォーターズ氏(以下、アナ・マリー):皆さん、こんばんは。本日はご招待いただきまして、ありがとうございます。

どのようにこれらのことに対応すればいいのでしょう? 第1に、障害物のことです。障害物は明らかに高くなってきていることを認めなければなりません。証明する責任は現在提案中で、私たちにあるわけではないと思います。

「イスラム教は平和な宗教だ」と言われています。これを証明してほしいと私は思います。

私、そして私たち全員、この現実社会で、今夜自由に開かれた議論をするようにと言われてきました。私たちは、間違いなく現実社会に基づいた議論をしなくてはなりません。

私たちは座って、神権政治について議論することができますが、一生合意できないでしょう。「神はいるのか? いないのか?」「コーランは本当のものなのか? そうではないのか?」といったことについて議論することは可能ですが、どれも実際は問題ではありません。私のディベート相手が語ったように、問題なのは、今現実社会で起こっていることです。

私の議論は、一般的に言われていることです。今夜再び皆さんの耳に入れることになってしまいますが、「嫌悪」と表現されるものについてです。私たちは、イスラム教の怖さに怯え、イスラム教を悪とみなしていると言われました。

このことに関して、私が責められたのは初めてではありません。おそらく、最後にも成り得ないでしょう。でも、これだけは言わせてください。私たちはこの問題を、現実社会に持って来るように言われているのです。

イスラム教の何が一体、私たちを怯えさせるのか?

アナ・マリー:私たちが、実際のところイスラム教の何に怯えているのか教えましょう。アメリカの911テロ、イギリスの地下鉄テロ、マドリード、ムンバイ、マリ、バリ、北ナイジェリア、スーダン、アフガニスタン、サウジアラビア、イラン、イエメン、パキスタン。

背教の死。冒涜に対する死。姦通罪に対する死、ホモセクシャル、人種差別、法的措置における男女の不均衡、子供同士の結婚、人体切断、打ち首、レイプするための監禁、反ユダヤ教、反ブルカ、死刑といった者たちの死。アムステルダムでのテオ・ヴァン・ゴッホの虐殺、ロンドンの街道における死の恐怖、イスラム教を侮辱する残忍な殺人者。

イスラム教徒たちは東ロンドンをパトロールして周り、人々に「シャリーア(注:コーランなどに基づくイスラムの戒律及び法)の影響を受ける地域」に入っていると言い続けています。一夫多妻制、花嫁の同意を必要としない結婚……、これらが、イスラム教に対する恐怖を引き起こす原因となっています。

メフディ・ハサン氏:もしイスラム教徒が、パトロールする責任があるのであれば……。

アナ・マリー:私の話はまだ終わっていません。続けさせてください。

この点は、私や私と同じ意見のディベーターが指摘したいポイントではありません。これらはイスラム教徒が引き起こしている、イスラム教の恐怖なのです。これは現実社会で起こっています。まさに私たちが生きる社会においてです。そして、これらを起こしているのはイスラム教徒の「一部の過激派」だけであると言われています。

「一部の過激派」以外でも……、イスラム教の実態

アナ・マリー:では、サウジアラビアをみてみましょう。サウジアラビアはイスラム教の発端国で、神聖な場所(注:メッカとマディーナ)を管理しています。

サウジアラビアでは、女性は運転することを許されていません。女性は、マハラム(注:女性の身内で、その女性とは生涯結婚できない立場の異性。父や息子など)の同伴なしでは家から出られません。驚くべきことに、次の選挙では一部の人が投票できるようになるのですが、基本的には投票権もありません。

これらのことは明らかに「一部の過激派」の範疇です。イスラム教発端の国であるサウジアラビアでは、人々は神の冒涜、背信のために処刑されます。これもイスラム教の「一部の過激派」のことと言われています。でも、実際は違います。

サウジアラビアを「一部の過激派」と呼ぶのであれば、バチカンはカトリックの一部の過激派と言えるでしょう。ごめんなさい。この例は適切ではありませんね。

私たちは、誤解していたということです。攻撃的なイスラム教徒も誤解していました。サウジアラビアも誤解していました。姦通罪のために人々を処刑するイランも誤解していました。9歳の子供を結婚させるイエメンも誤解していました。

イスラム教以外に、これだけ壮大に誤解され続けていた宗教があるでしょうか? コーランが憲法として国の規律の中に組み込まれている国々の人々は、おびただしい数に上ります。自由に発言できない、宗教の自由がない国家は、数え切れないほどあるのです。彼らはすべて、間違って理解しています。これはまさに著しく誤解された宗教です。

平和的なイスラム教徒はいても、コーランに平和はない

アナ・マリー:私は常にイスラム教の考えを尊重する必要があると、言われ続けてきました。十分な理由はなかったのにも関わらず、です。私は、他の信条以外にイスラム教を尊重する責任は全くありません。イスラム教のもと抑圧されている女性を尊重する責任もありません。平和的と思えないイデオロギーに対して妥協する責任もありません。

なぜ、イスラム教を平和的に見れないのでしょう? それには原因があります。世界中のイスラム国家を見渡すと、国によって押し付けられた残忍行為や暴力しか見当たりません。平和というものは、暴力がないことではなく正義があることなのです。これは間違いありません。

私はここで唯一の女性として、イスラム教国家で受けるような女性の扱いに関して、特に問題意識を持っています。彼らは間違って理解していると主張することができます。そのようなものだと考えてしまっているのです。これに関しては、語りたいことがたくさんあります。

イスラム教に平和はあるのでしょうか? はい、あります。それはイスラム教徒の平和的な心の中にあります。残念ながら攻撃的なイスラム教が目立ちますが、平和的なイスラム教徒はより創造的な解釈をしなければなりません。

私が伝えたことは論争を呼ぶものでしょう。私はヤジを飛ばされ、怒鳴り散らされるでしょう。私の仲間も同じ目に遭ってしまうでしょう。そうなることは知っていました。何かネガティブなことを言えば、批判されるものです。この点に関してはここまでにしておきます。

最後に、数百万の平和的なイスラム教徒がいるという事実を言っておきます。でも、それはイスラム教自体が平和的だという意味ではありません。

平和的なイスラム教徒は、認識を超えてコーランを理解しています。イスラム教に打ち勝つための命令のように理解しているのです。私はイスラム教徒の女性がダンスしているのを目にしたことがあります。彼女たちは、コーランにはない言葉を継ぎ足して理解しているのです。それこそが、イスラム教に打ち勝つことだと言えるでしょう。

暴力を生み出している国々で、イスラム教徒が実際にやっていることがコーランなのです。平和でもなければ、正義でもありません。こうしたことが示しているように、イスラム教は平和な宗教ではあり得ないのです。